〈30〉幻影でなければ
塔を見据えることができる高台の上で、ザルツとアーリヒ、レーデは馬車を背に塔の周囲で繰り広げられる乱闘を見下ろしていた。
入り乱れる部隊の大半がレイヤーナ兵だ。あのネストリュート王子は、自身がいない間にも、この塔の守りを強化していた。思った以上に、強固に。
そこまでする理由が彼にあるのかはわからない。けれど、事実、ジュピトを死守しようとしている。
ここに手を出すべきではなかったのかも知れない。ただ、今更そんなことを言っても始まらない。
どうにかしてあの王弟に会い、身柄を確保するより術はないのだ。
今、サマルは塔の周囲の動きを逐一探っている。
現れた増援に苦戦する仲間たちを、どうすることも出来ずに見下ろしていたザルツは、自分の無力さを噛み締めながらも、この状況を打破するにはどうすべきなのかを、心を落ち着けて考えていた。
そんな時、サマルが意外すぎる人物を連れてやって来た。
「ゼゼフ?」
どこからどう見ても、ゼゼフだった。
組織中、誰よりも戦闘に不向きなゼゼフは、リレスティの屋敷で留守番をしているはずだった。それが、泣きながらこんなところにやって来た。ザルツは、嫌な予感しかしなかった。
「……向こうで何かあったんだな?」
その問いに、サマルがうなずいた。どうやら、ゼゼフは目まぐるしい出来事が重なり、パニック状態のようだ。会話が成り立ちそうになかった。
「ああ。わかりにくい説明だったけど、どうやら、ユミラ様がいなくなったらしい」
「!」
軽はずみな行動を取る少年ではない。いなくなったというのなら、何者かに身柄を拘束されたと考えるべきだろう。
「公爵には知らせたのか?」
「多分、屋敷の誰かが知らせたんじゃないか」
「……一体、誰が?」
アーリヒも眉根を寄せてつぶやく。その傍らで、レーデも思案していた。
「それを早く突き止めて、探すべきだわ。ユミラ様に何かあったら、公爵の援助もなくなるでしょう?」
けれど、ザルツはそっとかぶりを振った。
「いや、変わらずに援助はして下さるだろう。公爵は私情を挟まれない方だから。……ただ、ユミラ様が今、この瞬間も苦しまれているのは事実だ。早く、対処しなければ」
あの公爵は、孫の命よりも改革を選べる。そこまでに強靭な精神を持つ。
けれど、ユミラが必要でないわけではない。あの少年は、これからの未来に必要な存在だ。
「俺、リレスティに戻るよ。でも、こっちの戦況も心配だな」
サマルが少し苛立たしげに言う。
すると、ようやく持ち直したゼゼフが口を開いた。
「あ、あの、じ、実は、途中でルテアに会った、んだ。助っ人、たくさん連れて来てくれて……」
「え!? そういうことは早く言えよ!!」
と、サマルはゼゼフの丸い肩をバシンと叩いた。あう、と声を上げてしょげるゼゼフだが、周囲の皆の表情に明るさが灯った。
「ルテアが……ようやくだな」
ようやく――。
レヴィシアの喜ぶ顔が目に浮かんだ。
後は、ユミラを探し出して連れ戻さなければ。
「よし、俺、もう行くよ」
張り切ったサマルは、ゼゼフを振り返る。
「お前も戻れよ。ここは危ないからな」
「え、あ、うん」
「プレナとエディアの待ってる村に戻って、二人に事情を説明してからリレスティを目指せよ。俺は直接先に行くから」
じゃあな、とサマルは身を翻し、高台を去った。
取り残されたその場で、レーデはゼゼフに言う。
「私もここに残っていてもできることはないようだから、ゼゼフさんと一緒に村に戻って、プレナさんたちと帰るわ」
「ああ、そうしてくれ。気を付けて」
と、ザルツもうなずく。
※※※ ※※※ ※※※
そうして、ゼゼフはレーデと共にその場を離れることとなった。
正直、一人ではないことにゼゼフは安堵していた。レーデは落ち着いているので、頼りになる。もちろん、女性なので、いざという時は自分が守らなければならないのだけれど。
特に会話という会話もなく、二人は木々の間をすり抜けるようにして歩いた。まだ向こうでは戦闘が繰り広げられているはずだけれど、戦いの喧騒はどこか遠い。
皆の無事を祈る気持ちと、役目をやり遂げた安堵をない交ぜにしながら、ゼゼフはひたすら歩く。気を抜くと、レーデに置いて行かれそうだった。
はっ、はっ、と軽く息を弾ませて歩くゼゼフは、その時何故か不意に顔を横に向けた。その視界の端を、一人の青年が過ぎ去って行く。
黒い髪に黒い瞳。白っぽい外套を羽織ったその姿は、あれからずっと会えずにいる友の姿だった。
一瞬、ヒュッと息が詰まり、それが幻影でないとは言い切れなかった。会いたいと切望していたからこそ、こんな時だというのに幻を見てしまったのだろうか。
けれど、その幻影はザッと草を踏み締める音を立てた。
だから、幻ではない。
今、そこに、確かにそこにいた。
よく似た他人ではない。
あれは、間違いなく――。
「シュティマ!!」
ゼゼフはのどが潰れるほどに叫んでいた。少し先を行くレーデが驚いて振り返る。
「ゼゼフ?」
大声を出していい状況ではない。それでも、叫ばなければ行ってしまう。
ゼゼフは思い切り声を張り上げる。
「シュティマ!! ねえ、僕だよ、シュティマ! 気付いて!!」
ほんの少し、その後姿が揺らいだ気がした。けれど、彼は振り返らない。
もう、会いたくないということだろうか。
愚図な自分のことなど、もうなんとも思っていないのだろうか。
とっさに道を外れ、彼の去った方に駆け寄ろうとした。それを、レーデに止められる。
「ゼゼフ、駄目よ」
神妙な面持ちでかぶりを振る彼女は、正しかった。
追ってはいけない。今は、そんな場合ではない。
わかっているけれど、ゼゼフはひどく悲しかった。
顔をぐしゃぐしゃに歪めて、その場でむせび泣いた。
あれは、シュティマだ。
けれど、自分にはもう、会いたくないのだと。




