〈29〉すぐそこに
ルテアは塔の扉に近付くまでに、手前の階段で迫り来る兵士を何人か打ち据えた。そうしてようやく扉に辿り着くと、中から剣戟の音が聞こえて来た。
ルテアは逸る気持ちを抑えつつ、その重たい扉を開く。
中は、意外にもがらりと広く感じられた。想像していたような混戦状態ではない。戦っているのは、たった二人だ。
フィベルと、あの谷にハルトといた小柄な女性だ。
対峙する二人は、恐ろしく強い。そのせいか、どうやら戦いは長引いているようだ。二人して汗を滴らせ、呼吸は乱れている。
ルテアが内部に入ったところで、二人は気にも留めない。お互いしか目に入っていなかった。
毛を逆立てた猫のように、今にも噛み付きそうな勢いでフィベルをにらみ付ける女性と、相変わらず表情の読めないフィベル。
二人は何度も衝突を繰り返し、また離れた。
圧倒されてしまうその戦いに、今は見入っている場合ではない。その脇を、ルテアは通り過ぎる。レヴィシアの姿はここになかった。多分、もっと上なのだろう。
ユイの姿もなかった。レヴィシアと共にいると考えるべきだろう。
ユイがいるのなら、自分が必死になって追いかけずとも、レヴィシアは無事でいる。そのはずだけれど、じっとしていられなかった。
勢いのままに、螺旋階段に足をかける。その時、負傷して壁際で休んでいた兵士がつかみかかって来たが、棍を急所に当てて意識を飛ばした。それを振り払い、先を急ぐ。
――もうすぐ、すぐそこにいる。
顔を合わせたら、まず、怒るかも知れない。
連絡のひとつもできないまま、半年も経ってしまったのだから。
別れ際だって最悪だった。忘れてくれていたらいいと思う。
なんだっていい。
会いたい。
怒られたって、嫌いだと罵られたって、無事でいてほしい。
多くは望まないから。
終わりの見えない螺旋階段を駆け上がって行く。戦いの音は聞こえなかった。もっと、ずっと、遠いのだろうか。
そんな頃、自分のものではない、微かな足音が耳に届いた。それは、戦いとは無縁の、静かな歩みだった。場違いなほどの緩やかさに、ルテアは逆に不安になった。
思わず身構えると、階段の前方に見えた姿に愕然とした。
いつもとは違う、白っぽい服に身を包んでいるけれど、それは間違いようのない姿だった。
「リッジ……っ」
のどの奥からその名を搾り出す。
リッジは、さほど驚いている風ではなかった。黒い闇夜のような眼をスッと細め、上方からルテアを見下ろしている。ただ、その背中から、栗色の髪がひと束こぼれた。彼が担いでいるのは――。
ルテアは瞠目し、とっさに言葉が出なかった。リッジが先に口を開く。
「少し見ないうちに背が伸びて逞しくなったね。もう、子供扱いできないな」
穏やかな声だった。
けれど、ルテアは歯を食いしばると、空を切る音を立て、棍をリッジに向かって構えた。そんなルテアに、リッジは言う。
「君には、僕を討つ理由がある。ラナンさんの仇を討つことを、ずっと願って来ただろう? そう易々と討たれてあげるつもりもないけれどね」
仇。
違う。
恨んでなんかない。
そんなものは――。
「仇なんて討たない。ラナンがそんなの望むと思うのか? 見くびるなよ」
震える声で、それでも確かに言った。
「そうじゃない。俺は、そんなことのために強くなりたかったわけじゃない」
まっすぐに、その瞳を見据えた。敵わないと諦めることはできないから。
「俺は、守りたいだけだ」
その切望を、リッジは何故か微笑んで聞いていた。
「この状況じゃ、僕は満足に戦えない。不利だね」
と、背中の彼女を一度だけ見遣る。そんな様子に、ルテアの焦燥が募った。
厳しい声で問う。
「レヴィシアをどうするつもりだ?」
臆することなく、クスクスとリッジは笑った。
「どうもしないよ。随分無理していたみたいで、熱があるんだ。送り届けるつもりだったから、手間が省けたよ」
その一言に、今度はルテアが唖然としてしまった。そんな間に、リッジはレヴィシアを階段の壁にもたれかけるようにして下ろした。確かに、うつむき加減のレヴィシアはぐったりと浅い息をしている。首筋にかけて、赤黒く染まっているのは、間違いなく血の色だった。
「っ!」
びくりと身を震わせたルテアに、リッジはそっと言う。
「レヴィシアの血じゃないよ。けがはないから」
リッジが後ろに下がると、ルテアはレヴィシアのもとに駆け付ける。そして、ルテアは改めてリッジを見た。その時のリッジの顔は、かつて仲間であった時と同じように思えた。レヴィシアを気遣う、柔らかな闇の色――。
躍起になって腕を磨いてきたけれど、リッジにレヴィシアを害するつもりなどないのだ。それを、ようやく感じることができた。そのことに、心の奥底から安堵する。
「……なあ、もう戻って来るつもりはないのか?」
思わず、そうつぶやいてしまう。そんなことはあり得ないとわかっているのに、今の彼には敵意が感じられなかったから。
すると、リッジは苦笑した。
「君たちは、そろいもそろって……」
くるりと背を向け、それから一度だけ振り返る。
「無理だよ。僕は君たちの理想には賛同しない。じゃあね」
二人を通り過ぎ、階段を駆け下りるその足音を、ルテアはしばらく呆然と聞いていた。
そうして、レヴィシアの肩に手を添え、視線を落とす。
どうしてだか、信じられないような気持ちだった。
やっと会えたのだという実感が、遅れてじわじわと湧いて来る。
少し、髪が伸びた。それから、なんとなく大人びたような気もする。
腕の中に、その体を移す。生身の重たさと、熱すぎる体温が感じられた。
幻ではないのだと実感するには十分だった。
愛しい気持ちが、涙と共に溢れる。
この気持ちは、錯覚ではない。すり替わることもない。
はっきりと、確かに、この胸に存在する。それを、思い知った。
「遅れてごめんな」
返事の返らない体を、そっと抱き締めてつぶやいた。




