〈17〉野心と呼ぶのなら
ユミラは、この圧倒的な存在を前に、自分の矮小さを噛み締めるしかなかった。けれど、彼の前に立てば、誰もが同じなのかも知れない。今、自分を卑下していても仕方がない。もっと、自分を強く持たなければ。
理想を語るレヴィシアや、ザルツや、信念を持ってそれを支える仲間たちと共にあり、学んだことがあるはずだから。
ユミラは精一杯、ネストリュート王子の顔から目をそらさずに彼を見据える。ただそれだけのことに、どうしようもない疲労感があるけれど。
「僕が王に相応しいかと仰るのですね? 生憎と、否とお答えするよりありません。僕は、王になど相応しくはないのです」
ネストリュート王子の、淡い色だというのにどこまでも奥の深い瞳に、ユミラははっきりとそう言った。けれど、その途端にネストリュート王子は静かに声を立てて笑った。
「それほどまでに意志を秘めた眼をして、それを言うのか。その怜悧さを持ちながら、驕りも衒いもなく、もちろん謙遜や卑下でもない。はっきりと、相応しくないと言い切れる強さは、私の目から見ても十分な器だ。君は――君が王座に就けば、この国は我が国と肩を並べるに値する国へと生まれ変わるだろう」
この、完璧という言葉が当てはまるような王子に、過分でしかない言葉をもらっても、ユミラは困惑するだけだった。
「いえ、恐縮するばかりです。僕は、それほど立派な人間ではありません。今となっては、それを恥じているわけではありませんが」
孤独に怯え、責任の重みに苦しんだ。そんな自分だから、選び取った未来は、独りでは成し得ないもの。皆の力を寄せ集め、ようやく具現できるもの。
「王の資質とは、なんだろうな。きっと、百人の王がいれば、百通りの答えが返るだろう。正解など、ないに等しく、自らが信じたものを選ぶよりないのだが――」
この人は、どのような答えを選んだのだろう。王位に就くことが難しい立場であるというのに、間違いなくその答えを選び取っている。自らが王者となる未来を、まるで見知っているかのように。
「私の答えに照らし合わせるなら、君は王に相応しいというのに、何故そうもまっすぐに否定する? 君の上に王弟殿下がおられるからか?」
「それはもちろんそうですが――それ以上に、僕はこの国が王国ではなく民主国家になる未来を夢見ているのです。絶対的な頂点など存在せず、平等に、身分などで否定されることのない国――あなたのような方からすれば、馬鹿げたことに思われるかも知れませんが……」
けれど、ネストリュート王子は嗤わなかった。優雅な所作で指を顎に添え、少し思案するように言った。
「どこかで聞いたような話だな。けれど、それは茨の道ではないのか? 君が王に就いた方が早くこの国は豊かに、平穏になる。いたずらに混沌を生み出すようなものだろう。それでもか?」
今、この時でさえ、独りであることが心細い。けれど、それを言ってはいけない。
自分たちの目指すものは、ただ他人をあてにすることではない。
ひとりひとりが、今の自分よりも強く在り、共に手を携え、支えあって行ける未来なのだから――。
「僕は、あなた様が買い被られるような人間ではありませんが、もし僕が本当に王の器なのだとして、その平穏を僕個人が保って行ける時には限りがあります。一個人の限界を超え、長く続く平和を築く方法がこれなのだと、僕たちは考えます」
たくさんの人が関わり、作り上げる仕組みは、その考えを提示した本人たちがいなくなったとしても、後々の世に残る。よいところは残し、悪いところは改善して行く。
そうして、国は栄える、と。
そうであればいい、などと生易しいことは最早言わない。
そうしなければならないのだ。
ネストリュート王子は、お互いに相容れない思想を一蹴することはなかった。ただ、ゆっくりとうなずく。
「この国は、そうした流れに向かっているのか。私の価値観のみで推し量ることはできないようだ。ただ、君が王位を望まないのは、それを周りが許すからだな」
その言葉に、ユミラはとっさに返せなかった。
それは事実だから。
祖母も、レヴィシアたちも、それを望まない。
そうやって、逃れる道を与えてくれた。
けれど、この人は――。
「失礼を承知でお尋ねします」
ユミラは一度息を飲み、それから意を決して口を開いた。
「あなた様こそ、この国の王座に座るおつもりはないのでしょうか? 誰の目にも明らかなほど、あなた様は間違いなく王者の器です。けれど、第五王子というお立場を思えば、レイヤーナの王座は遠いはず――。この国を、あなた様のものとされるつもりでこの国にいらしたのではないのですか?」
独立国家としての形がなくなり、レイヤーナの属国になる未来でも、彼がこの国を統治してくれるのなら、それでもよいと、そんな声が聞こえ始めている。
王が不在のこの国に、誰の目にも鮮烈な、王に相応しい人間がやって来たのなら、安易にそう考えるのも無理はない。
すると、ネストリュート王子は気分を害した風でもなく、クスクスと笑った。
「確かに私は、王位に就くつもりでいる。けれど、それはこの国のではない。この国には、私ではない相応しい王が必要だ。すべては、それから始めなくてはならない」
「え?」
思わず声をもらしたユミラを、ネストリュートはまっすぐに見据える。
先ほどまでの澄んだ泉のような瞳ではなく、それは静かに揺れる炎のようでもあった。
「私がこの国の王となる未来だけは絶対にあり得ない。もし、そうなった時、兄上方は私の裏切りを口実に、この国に戦を仕掛けるだろう。我が国の民と、貴国の民が無益に死に行く未来など、選び取れぬよ」
この優秀な弟王子を、兄王子たちは快く思っていないのだと、そういう噂は耳にしたことがある。
今、こうしている瞬間も、兄王子たちは未だ戻らないネストリュート王子が何を画策しているのか、気が気ではないのだろうか。それを承知でこの場に留まっているネストリュート王子の思惑は――。
「でしたら、あなた様は、兄上様方を退け、自らが自国の王となる……そう仰るのですね」
とんでもない内容の話だ。謀反を企てていながら、この王子にやましさなどないようにも思えた。それが当然だとでも言うかのように。
「そのために、我が国も多少の混乱は生じる。後方の憂いは残しておけない。この国に正しき王が立ち、その王との間に、最低でも私が王となるまでは手出しをせぬ確約が必要なのだ。私が王になった暁には、私の治世、貴国との関係を良好に保つことを約束する」
それこそが、この王子の目的だった。
何も嘘などない。
式典で述べたように、お互いに手を携えることが真意だと言う。
「ペルシがアリュルージに侵攻し、退けられた今だからこそ、あなた様にとっては最大の好機というわけですね」
「キャルマール、スード、アリュルージは我が国の事情に干渉しない。だからこそ、ペルシが国力を回復するまでの数年間のうちに決する必要があるのは事実だ」
これほど重要な話を聞かされてしまっては、選択の余地などないのではないだろうか。
この王子が兄を退けてまで王位に就こうとする、その熱意のもとはなんなのだろうか。
これが野心と呼べたなら、もっと簡単に突っぱねられた。生きるため、守るため、それらも間違いなく欲ではあるけれど、そればかりではない。
「……それでも、今後、あなた様が即位された後、この国を脅かさないという保証は、口約束ではあまりにも頼りないのではありませんか?」
少なくとも自分は、あの祖母の血を引き、育てられて来たのだ。この状況も冷静に乗り切らなければならない。祖母ならば、まず何を言うだろうかと、そう考えた結果を口にした。
ずっと押し黙っていたハルトが、困惑顔で小さく物音を立てた。お付きの少女は、表情を変えずにいる。
不敬極まりない発言だが、ネストリュート王子ほどの人物なら、その程度の言葉に目くじらを立てることはないだろうと思った。そして、答えもすでに持ち合わせているだろう、と。
「私は、国土を広げたいとは思わない。貴国は確かに豊かで魅力的だが、手を伸ばせば、私の指から零れ落ちて行くものがある。私は、私の国の民たちだけの王になる。だから、その心配は杞憂だ」
そう言うと、ネストリュート王子は言葉を切った。そうして、不適に笑う。
「紙切れの上に署名すれば価値が増すとは思わない。王は、一度口にしたことを取り下げることなど許されない。口約束が守れぬ者など、まず信ずるに値しないのだから」
この人の言葉には、確かな価値がある。それは、認めなければならない。
王という存在を否定しながらも、彼がレイヤーナの王となる姿を見たいと、ユミラは心のうちでその矛盾を感じてしまった。




