〈5〉一木一草さえも
「――またもやおいでで?」
先の王弟、ジュピトは抑揚のない声でつぶやく。それでも、皮肉だけは人一倍だった。
来訪者は、その鷹のように鋭い視線を受け流すと美しく微笑んだ。
「ええ。必要とあらば、何度でも参ります」
隣国の王子は、何も恐れず、抱え切れないほどの才を持ち、この鳥かごのような部屋に佇む。今日は弟王子も側近も誰もおらず、彼一人だった。どこかに控えてはいるのだろうが。
「ここの侍従もすでに懐柔されたか。恐ろしい方だ」
この塔の鍵持ちも、すでにこのネストリュート王子に心酔し、思いのままに動いているのだろう。ジュピトがここから出ることは困難であるけれど、ネストリュートがここへ入ることは容易いのだ。
敵国と言っても過言ではない状態のレイヤーナ王族でありながら、この国の民を味方に付ける。シェーブル王族でありながら、何ひとつままならない自分とは、まるで対極だった。
第五王子であろうと、彼は紛れもなく稀有な存在。
そう、ジュピトは理解していた。
ネストリュートのように、一転の曇りも迷いもない、眩いばかりの存在がいるレイヤーナは、恵まれているのだ。このシェーブルには、それがなかった。
――不吉とさえされる、双子の王子。
穏やかな兄王子、慎重な弟王子。
同じ日に生まれた二人。
顔貌は似ていても、性質はまるで違った。
ほんの少し、産まれ出るのが遅かっただけ。
その瞬間に、勝敗は決してしまった。
運命は、ことごとく残酷で――。
「あなたは、何を望まれますか?」
音色のような声にはっとした。思考の道筋を修正する。
「ここには殿下と私の二人、聴かれる心配もございません。あなた様が望まれることを口にされるのでしたら、私も腹を割ってお話いたしますし、ご協力もできるかと」
この、彫刻のように整った青年は、すべてを見透かすような言葉を紡ぐ。
その瞳は、まるで魔法のように、まとった鎧を消し去ってしまうかのような、そんな光があった。
けれど。
いつからだか忘れてしまうくらい昔から、この胸にわだかまった思い。今更、吐き出せるほどの軽いものではないのだ。
ジュピトはただ、ネストリュートの言葉を一笑に付した。ただ、そんなさまも、彼には手の内を読まれただけだった。
「やはり、そうですか」
「何……?」
「今となっては、あなたに望みなどないのですね」
その言葉に、ジュピトはただ背を向けた。その後姿に、ネストリュートは労わりすらこもった声をかける。
「自由も、拘束も、生き死にさえも、あなたには意味がない」
思わず、声を立てて笑ってしまった。
「もし、そうなのだとしたら、お飾りの王には打って付けだろう?」
振り返ると、ネストリュートは苦笑した。
その表情の理由がわからなかった。お飾りの、レイヤーナの意のままに操れる王。彼にとっては望ましいもののはずだ。
なのに。
「お飾りでは困るのですよ」
ただ、静かに、どこか遠い潮騒の音のよりも長く耳に留まる声。
「自ら、確固たる意志を持ち、この国の一木一草さえも慈しむ王を、私は望んでいるのですから」
不意に、ネストリュートは微笑む。その瞳の深さに、言葉は出なかった。
立ち尽くしていると、彼は優雅に足を半歩下げ、衣の裾を捌く。
「――少々、ご身辺を騒がしくしてしまうやも知れません。先にそれをお詫びしておきましょう。それでは、失礼いたします」
規則正しい靴音を、硬質な床で奏でるようにして去った。
ジュピトは出られもしない窓辺に立ち、太陽を見上げるようにして上を仰いだ。色素の薄い瞳はその強い光に悲鳴を上げるけれど、ネストリュートの存在もまた、あれと同じものだった。
この国の国王であった兄も、その弟である自分も、何もかもが特別ではない。
偶然にも、そこに産まれ付いただけの存在だ。
だからこそ、この国は荒れたのだ。
あの降り注ぐ光を受けていられる草木を、この国の民はうらやむことだろう。
けれど、第五王子の彼がレイヤーナの王位に就くことはないはずだ。あれだけの器でありながら、時に見放されているというのだろうか。
何もかもが、上手く回らない。
運命とは、それを定める存在とは、どうしてこうも愚かであるのか。




