〈6〉転機
真っ暗だった。
闇の只中を一人、立っていた。
右も左も、自分の指先さえも見えないような、暗闇。
なのに、その闇色の何かが翻る光景が、見えた。
鴉のように、不安を煽るその姿。彼が駆ける、その先に待つもの。
そこには、初めて色があった。
真っ赤に広がる、血の海。
そこに横たわる二人の体。
傷口から赤く染まったラナンの隣にいるのは。
華奢な、紙のように白い四肢。虚ろな青い瞳。紫色の唇から零れ落ちた、一筋の――。
「嘘、だろ?」
笑って、答えてはくれない。
あんなにも、あたたかく、愛しかった気持ちの分だけ、心は暗然と砕ける。
「なあ、嘘だろ……」
駆け寄ろうとした瞬間に、背後からささやく声がする。
「嘘? じゃあ、あれは何? 君たちが悪いんだよ。現実を見ないから」
「やめ――っ」
「君は、誰かを守れるほど強くない。弱いことを認めないから。事実から目を背けるから」
「俺は……」
「まだ否定するの? じゃあ、『あれ』は何? 君はね、間に合わなかったんだよ――」
「――――っ!!」
自らの絶叫と共に目が覚めた。体の節々が痛くて、天井が何故かぼやけて見えた。
その時になって、ようやく自分が泣いていたのだと気付く。
「びっくりした」
横で、アイシェが目を瞬かせる。ルテアは状況がわからず、呆然とそちらを見遣った。
すると、アイシェは困ったように嘆息した。
「うなされてたから、起こしてあげようかと思ったんだけど」
「あ、ああ……」
その一言で、ようやくあれは夢だったのだと知ることができた。けれど、例え夢だったとしても、身震いするほどに恐ろしかった。
あんな夢を見るなんて、レヴィシアの身に何かが起こっているのではないかと、どうにもならないほどに不安になる。
肩を抱くように小刻みに震えていたルテアの頬に、アイシェの指先が触れた。その指が、涙を拭い取って行く。
「大丈夫?」
うなずくと、アイシェはそっと微笑んだ。
「夢は人に話したら本当にならないって言うけど」
アイシェは、気が強く、よそ者の自分にあまり好意的ではないと思っていた。けれど、弱っている者には優しいのかも知れない。ルテアは思わず苦笑した。
「そうだといいな。……仲間が殺される夢を見たんだ。絶対に守りたいのに、守れるだけ俺は強くない。それを実感するだけ、生々しい夢だった」
口にしながらも、体は冷え切り、嫌な汗をかいていた。
アイシェは、ルテアの眠っていた寝台に腰を下ろす。
「だから、あんなに必死だったんだ?」
「え?」
「ジビエに打ち込んでる時、諦めないで何度も向かって行ってたよね」
そういえば、あれからどうなったのか、記憶がない。
アイシェはクスリと笑う。それは、以前よりもずっと好意的で、柔らかな笑顔だった。
「それだけの気持ちがあれば、すぐに強くなれるよ」
本当に、そうだといい。そう願った。
「ありがとう」
それから、体の節々は痛かったけれど、翌朝になって再びジビエを探した。
ヒュン、と鋭く空を切る音が近付き、居場所が知れた。昨日と同じ場所だ。
彼は一人、踊るようにして棍を操っている。声をかけるのも忘れ、その切れのある動きに思わず見惚れた。ただ、汗を散らして鍛錬を続ける彼は、ルテアから見れば雲の上の存在だ。それでも、まだあんなにも上を目指して邁進している。そんな姿を、尊敬した。
ふぅ、とひと息つき、ジビエはようやくルテアに目を向ける。多分、さっきから気付いていたのだろう。
彼はニッと笑った。
「体、大丈夫か?」
「ああ、それで……今日も稽古を付けてほしい。頼むよ」
自分よりも弱い相手の稽古を付けることが、ジビエにとってなんの得にもならないとわかっている。それでも、頼む。
「わかってる。そのつもりだ」
その一言に、ルテアは顔を輝かせた。ジビエは草むらに横にして寝かせてあった、もう一本の棍を拾い上げる。それをルテアに向かって放り投げた。深緑色のそれを受け取ったルテアは、ぽかんと口を開けた。
「な、なんだ?」
「うん、それ使え」
「え?」
「槍は捨てろ」
はっきりと、ジビエはそう言った。
「す、捨てろって……」
「お前、槍は合ってないよ」
達人のジビエからそう言われてしまうからには、それが事実なのだろう。
けれど、今までそうして戦って来た。合わないと一蹴された武器で。
その一言で、まるで迷子のように、どうしたらいいのかわからなくなる。
「お前の長所はその速度だ。それを生かすためには槍じゃ駄目だ」
ジビエは漆黒の棍を軽く回転させ、背中に回した。
「わからないか? お前は、先端に刃のある槍では、相手に致命傷を与えることを恐れて動きが鈍る。せっかくの勢いを、自分で殺いでるんだ」
その指摘に、ルテアは唖然としてしまった。確かに、その通りではある。
槍を旋回させ、柄で打ち据えることの方が多い。あまりに自然にそれを行ってきたから、それをなんとも思っていなかった。
ジビエはふと、一転して鋭い目をルテアに向ける。
「棒術も、殺人術。そのことに変わりはない。強打すれば首の骨くらいへし折るのは簡単だ。ただ、防御にも適した武器だ。それを理解して戦うのなら、お前には合っていると思う」
彼の視線は、いつも危険と隣り合わせであり、生きるために他を退けることを選んだ一族の覚悟がある。ルテアは握り締めた棍を食い入るように見つめ、それから一度それを地面に下ろした。
そして、服の下に分けて隠し持っている槍のパーツを取り出すと、それを組み立てることなく、ジビエに向かって突き出した。それを、ジビエは大きくうなずいて受け取った。
ルテアは一歩下がると、体を大きく折り曲げて一礼する。
「ご指南、よろしくお願いします――」




