〈4〉父の行い
頭が重い。体が熱い。
まだ大丈夫だと自分を騙したところで、体は悲鳴を上げていた。それでも、ここに来なければならなかった。交渉が成立した後で倒れたのが、せめてもの救いだ。
ルテアは朦朧とする意識の中でそう思った。
すると、ぺち、と小さな音がして、額に冷たい水気のあるものが乗せられた。ひんやりとして、気持ちがよかった。そこに、手の平が重ねられる。ふわりと甘い香りがした。
なんとか、重たいまぶたを開くと、栗色の長い髪が見えた。
そんなものは錯覚だ。幻覚だ。
触れてみたら消える。
だから、触れなかった。再び目を閉じて、乾いた唇でその名を呼ぶ。
その途端、
「はぁ?」
と、不快そうな、耳に痛い声が返った。
やっぱり、別人だ。
ルテアは再び眠りに付く――。
そうして、どれくらいか経った時、うっすらと目を開けた。そしてまた、栗色の髪が視界にある。今度ははっきりと、自分を覗き込む少女の、その輪郭までもが知覚できた。触れたら消える。そう思うよりも先に、ルテアは手を伸ばしていた。ただ、頬に触れると、鼻をつままれた。
「寝ぼけすぎ。いい加減にしてよ」
尖ったその声は、明らかに別人の声。
ルテアは呼吸が苦しくなって、はっきりと意識を取り戻した。
「――っは!」
仰向けのままむせると、肋骨に響いて涙が出た。むせ続けるルテアに、その少女はあきれたようだった。
「誰と間違えてるんだか知らないけど、止めてよね」
顔を向けると、そこにいたのは、自分と同じ年頃の少女だった。見覚えも何もない。初対面だ。
栗色の長いツインテール。鳶色の眼は少しつり目がちで、気の強そうな表情だった。やや小柄だが、腕、足、腹と、露出の高い服に装飾類。少し、目のやり場に困るけれど、きれいな娘だった。
――ただ、やっぱり別人だ。
「悪い……」
苦しい息の中、ルテアがそれだけをひねり出すと、戸板の奥からあのニールと呼ばれた少年がやって来た。
「お、気が付いたんだ?」
彼は、気遣うようにルテアを覗き込む。
「大丈夫か?」
ルテアはうなずいた。
「そっか。おれはニール=シアン、こっちはアイシェ=フォンリィだ。よろしくな、ルテア」
最初に会った時とはまた違った親しみがある。ルテアが名乗った時から、ニールは誰よりも反応を示していた。山道を行く際も、一番気遣って振り返ってくれていた。
「よろしく」
色々話したいけれど、今はまだ無理だ。それだけ言うのがやっとだった。
もうしばらく休んで、回復したら、色々と訊いてみたいことがある。
多分、ニールもそうなのだろう。訊きたいことがたくさんあるという表情に見えた。
※※※ ※※※ ※※※
それから二日が経ち、ルテアはようやく体を起こせるまでに回復した。
ニールはルテアの寝かされている寝台の隣に座り込み、目をキラキラと輝かせて口を開く。
「なあ、ホルクさんって、家ではどんなだったんだ?」
その瞳には、わかりやすいほどの尊敬があった。その勢いに、ルテアは少し顔を引きつらせながら答える。
「どんなって、特に変わったところはないと思うけど。優しかったけど、あんまり家にはいなかったし」
行商人だった父は、何ヶ月も家を空けることもざらだった。その上、レジスタンス活動を始めてからというもの、会えることの方が稀になった。
正直にそう言うと、彼は少しだけ悲しそうにうなずいた。
「そっか。ホルクさん、もっと家族と過ごしたかっただろうなぁ。かわいそうに」
何か、ニールの方が詳しいのではないかと思ってしまう。王都でも父の話を人から聞いて、知らないことの多さに驚いたほどだ。
今更のようだけれど、少しでも父を知ることが、息子としてできることのような気もした。
だから、なんとなく尋ねる。
「……なあ、親父がどうしてクラウズと親しく付き合うようになったのか、知ってるか? 知ってたら、教えてほしい」
すると、ニールは満面の笑みを浮かべていた。
「うん。もちろん。ええと、八年くらい前かな? まあ、きっかけは、おれたちがホルクさんを襲ったこと――」
ホルクは領域に入り込んではいなかった。けれど、この時は実入りが少なく、ひもじかった。
だから、随分と下まで下りて獲物を探していた。
そうして、行商人という上等の獲物を見付けた。
大きな荷物を背負い、山道を登るために杖を手にした、まだ若い男だった。背が高くて、彫りの深い精悍な顔立ち、明るい緑色の瞳をした彼は、周囲を取り囲まれても落ち着いていた。
「その荷物、置いて行くなら逃がしてやるが、どうする?」
仲間の声が山に響き渡った。
その時、ニールは九歳だった。鷹を従わせる技を習い、ナイフだって上手く投げられるようになっていた。十本投げれば七本は的の中心部に刺さった。もう、一人前だと思っていた。
だから、見学のつもりで連れて来られただけで、何もせずに木の上で『狩り』を学べと言われたにも関わらず、ニールは勇んで獲物の頭上の枝の上でナイフを構えていた。
あの、怯えもしない生意気な獲物を怖がらせてやろう、とほんの軽い気持ちだった。
そんなニールは、木の上でバランスを崩し、あっさりと落下してしまった。
「!!」
ホルクは、ためらうことなくニールを受け止めた。
けれど、クラウズの面々はニールが地面に叩き付けられずに済んだことに安堵しなかった。その子供は、敵の手の中だ。ニールを盾に取り、あの行商人は逃げおおせる。
誰もがそう思った。ニール自身、そう思って、さっきまでの勢いが嘘のように震えていた。
そんなニールを安心させるためか、ホルクはそっと微笑んだ。
「大丈夫か? どこか痛いところは?」
ニールは涙をいっぱいに浮かべて、やっとの思いでかぶりを振る。それを確認すると、ホルクはニールを地面に降ろした。
「そうか、よかったな。気を付けろよ」
それだけだった。思わず、ニールはぽかんと口を開け、チャンスだというのに逃げることを忘れてしまった。小さく手を振っているのん気なホルクに、ニールは思わず尋ねた。
「あのさ、おれのこと人質にしようと思わないの? そしたら逃げられたのに」
すると、ホルクは笑った。
「俺には君と同じくらいの息子がいるんだ。だから、そんなことしたくないよ」
人がよすぎる。
けれど、クラウズは最古の民。恩を仇で返すような真似は、酋長が許さない。
クラウズの面々は、仕方がなくこの獲物を逃がすことにした。
「今度だけだ。次はないからな」
そう言われたホルクは、苦笑するとリュックから干し芋と干し肉、小麦粉、豆、オイル漬けの小魚の入ったビンを取り出した。
「帰り道だから、食料もあんまり持ってないな」
「……なんのつもりだ?」
「その子、軽すぎるよ。もう少し食べさせてあげないと」
そうして、彼は荷物を再び背負うと、じゃあ、と言ってあっさりと去った。不思議な人だった。
そんな出来事から二日の後、あっさりとまた再会することになるのだが。
今度は食料をどっさりと持ち、商売に来たと言う。
酋長の許可を得て、彼は集落にて、物々交換を始めた。繊維で織った織物や、木彫りの動物、羽細工、楽器、面白いものがたくさんある、と嬉しそうに交換してくれたけれど、それで採算が合うのか、こちらにはわからなかった。
たびたびそうして集落を訪れるようになり、気付けば、集落の誰もが彼の来訪を待っていた。
商品などなくとも、彼が来てくれたら集落は華やいだ。一緒に歌い、踊り、笑い、仲間であった。
ある時からぱたりと来なくなった彼を心配し、仲間の一人が町へ下りた。そして、彼の悲惨な結末を知ったのだった。
優しすぎる人は、早世する。神がその心を愛しみ、引き寄せてしまう。
別れは唐突で、恩返しも何もないままに、彼は二度とここへは来なくなった。




