〈35〉非公式に
ヒュン、と虚空を斬る音がした。かと思えば、気付いた時には二本の剣が、未だ無名であったレジスタンス活動家の青年ののどもとで交差する。その精悍な黒髪の男は、そのままの体勢でにやりと笑った。
「今なら助けてやるよ。降参するか?」
死にたくない。ただそれだけだ。
他のことなんて、すでにどうでもよかった。ただ、青年は、ガクガクと震える脚で、崩れ落ちそうになる体を必死に支えていた。
涙を浮かべて何度もうなずく。
その反応に満足したのか、男は剣を青年の首から離した。それと同時に、青年はその場にへたり込んだ。
その瞬間に、レイヤーナ兵を国から追い出すなどという考えは抜け落ち、ただ身のほどを知るのだった。勇んでレジスタンス活動を始めたものの、自分たちは所詮民間人で、訓練された兵士には叶わないのだと。
身柄を拘束され、これから監獄生活が待っているけれど、ここでこの男に斬り殺されるよりははるかにマシだった。
男が、柄頭に房の付いた二本の剣を、流れるような動きで鞘に収めると、その男の背後にふわりと下り立った影があった。若い女性だ。黒髪に青い瞳。
かわいらしい顔立ちをした小柄な女性なのに、ぞっとしてしまうのは、むき出しの敵意のせいだろう。
「このウスノロ。いつまで遊んでるのよ。いつもあたしばっかり働かせて!」
冷ややかなその視線に、男は頭を掻いた。
「遊んでないって。真剣」
「じゃあなんでこれしか捕まえてないのよ。あたしがどれだけ走り回ってネズミ狩りしてたと思うわけ?」
彼らの役目は、レジスタンスを狩ること。
突如、組織のアジトを発見されたかと思えば、そこからは死に物狂いで逃げた同胞をあっさりと見付け出し、動けないまでに次々と痛め付けた。
一見してこの二人は軍人らしくはないけれど、その強さは疑いようもなかった。間違いなく、戦闘に特化した存在だ。
「まあ、いいじゃないか。ネスト様に褒めてもらえるだろ?」
「あったり前でしょ。殺さずにがんばったもん」
と、彼女は胸を張る。ただ――と男は嘆息した。
「あいつら……あの糸目と垂れ目がいる、あの組織だけは後に回せって、ネスト様が仰るんだから仕方ないけどな。すっきりしないなぁ」
「ああ、あの男前のおニイさんもね。ハルト様が仲良しだからかしら?」
「いや、そんな生ぬるい理由じゃないだろ。ネスト様になんらかのお考えがあってのこと。――わかってるけど、お預け食わされるのもしんどいな」
「ぼやかないでよ。あの組織までたどり着きたかったら、他の獲物がいなくなるまで、さっさと狩り進めればいいじゃない」
物騒な発言だが、一理ある。きっと、彼はそう思ったに違いない。
嫌な笑みを浮かべていた。その薄暗さに、青年は意識を手放しそうだった。
これから、自分は監獄でレジスタンス活動を続ける人々の安否を祈ろうと思う。
※※※ ※※※ ※※※
「――ハルト、ティエン、出かけるぞ」
港町エトルナの迎賓館の一室にて、レイヤーナ第五王子ネストリュートは扉を開いて早々に言い放った。
「兄上、どこへ行かれるおつもりですか?」
彫刻のように毅然と佇む兄に、少しも似ていない、凡庸だけれど温和な弟は小首をかしげた。弟王子、ハルトビュートに紅茶を継ぎ足していたティエンは、至福の時を邪魔され、恨めしげだった。
「人に会いに行く。特にハルトとティエンには会わせたい人物だ」
「ティエンはともかく、俺に?」
そこで、ティエンはハルトビュートから表情が見えないのをいいことに、冷ややかな視線をネストリュートに向けた。
「誰に会わせたいと仰るのですか?」
すると、ネストリュートはクスリと笑った。数多の女性がうっとりするような微笑でも、ティエンにしてみれば嫌味な笑いだった。
「ジュピト=テルザ=シェーブル殿下。先の王弟だ。一度お会いしたいと頼み込んで、ようやく叶った。ただし、非公式にだ。レイヤーナ王族としてではなく、私個人としてお会いするに過ぎない」
「個人として、ですか。お供をするのはやぶさかではありませんが、王弟陛下はシェーブル王国王位継承権第一位のお方ですよね? お会いして、どうされるおつもりなのでしょうか?」
不安げに尋ね返す弟に、ネストリュートは彼が抱く不安の正体を知り得た。だからこそ、笑ってしまう。
「ハルト、私はこの国の王になるつもりなどないよ」
「え?」
「現段階で、それだけは有り得ない。――さあ、行くぞ」
ハルトビュートは兄の真意を汲み取れないまま、ティエンと三人で馬車に揺られていた。
先の王弟が暮らす場所は、ハルトビュートたちが滞在する迎賓館のあるエトルナの町からさらに北へ海沿いに進んだところである。
切り立った崖の上にそびえる、白亜の灯台のような塔。
その姿は、道のりの途中であっても見て取れた。あの高みから、彼は何を思って国を眺めて来たのだろう。外へ出る機会もなく、先王が即位してより十八年の歳月をここで過ごしているのだそうだ。
馬車を降りる際、ハルトビュートはティエンに手を差し伸べ、車体から降りる手助けをした。淑やかな所作で降り立つティエンは、随分女性らしくなったものだと思う。出会った時はまだほんの子供だったというのに。
塔の番兵が、石段を登って来る三人に気付き、塔の高さとは不釣合いに小さな扉を開いた。その軋む音が、潮騒と共に届く。番兵の数は相当だった。この辺鄙な場所を警護しているとは思えないほどの兵士が、塔の付近を巡回している。
先王が崩御してから、こうなったのだろう。王位継承権第一位の王弟だ。警護も厳重にならざるを得ない。ただ、それならばこの塔に幽閉し続ける意味もないように思うが、詳しくはわからない。
「ネストリュート王子と、ハルトビュート王子ですね? どうぞ、こちらへ」
抑揚も表情もなく、侍従らしき男が中へ誘う。歓迎されていないことはすぐにわかった。無理もないけれど。
中は螺旋状の階段が上に続いており、幽閉状態のジュピトはその果て――最上階の一室にいるのだそうだ。その階段を、兄の後に続いてハルトビュートは登った。その途中、何気にティエンを振り返ると、随分と気分が悪そうだった。殺気立った警備兵の気に当てられたのかも知れない。
「……ティエン、具合が悪くなったら無理をしないようにな」
そんな言葉をかけると、ティエンは一瞬びくりとして顔を上げた。けれど、次の瞬間には確かに微笑んだ。
「はい、ありがとうございます」
そうして、長く続いた階段の果ての最上階。
扉の前に侍従の男は立った。ドアをノックし、ぼそぼそとつぶやくように中の人物と会話をしている。そして、侍従の男は懐から鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込んで回した。カチリと硬質な音がする。開かれた扉からは、まず光がもれた。
ネストリュートはハルトビュートを振り返り、軽くうなずく。ハルトビュートもそれに答え、ネストリュートを先頭に中に、その閉鎖された空間へ足を踏み入れるのだった。
中は、光が集まり、明るい場所だった。カーテン、机、椅子、本棚――調度品もすべて白で統一され、行き届いた上等の設えに見える。ただ、鎧窓からは腕すら通らない。ここは、美しいだけの鳥かごだった。
ハルトビュートは、窓辺に佇む壮年の男性に目を留めた。
小麦色の髪を後ろで束ね、薄いガウンを羽織っている。彼は、しわが刻まれた顔をこちらに向けた。
先に口を開いたのはネストリュートだった。
「お初にお目にかかります。レイヤーナ王国第五王子、ネストリュート=イル=レイヤーナと申します。こちらは弟のハルトビュートと、配下のティエンと申す者です。どうか、お見知り置き下さい」
優雅に一礼する兄に合わせ、ハルトビュートも礼をした。ティエンも同様である。
王弟ジュピトは口の端を持ち上げて笑った。それは笑顔とは呼べないような、薄暗いものだった。
隣国の王族を相手に、内心がどうであろうと対面は取り繕うだろうと思っていたハルトビュートは、そのあからさまなまでの淀んだ目付きに愕然としてしまった。
「それはどうも、ご丁寧に。――して、私に何用ですかな?」
息子のような年齢の自分たちを軽く見ている。最初は嘲られたのだと思った。
けれど、この人を理解しようと深くその瞳を見れば見るほどに、そこにはひと欠片の情もないように思われた。自分たちが若輩だからでも、隣国の、この国に干渉する者たちであるからなのではない。
彼はすべてを拒絶している。厭世的としか言えない、すべてを厭う心だと、どこかで感じた。
それでも、ネストリュートは微笑んでいた。
「失礼を承知で、率直に申し上げます。殿下がこの国の王として相応しいお方なのかを見極めに参りました」
兄の発言に、ハルトビュートは唖然としてしまった。当のジュピトは、一度真顔に戻ると、それからまたゆっくりと口の端を歪めて、クッと小さく笑った。その仕草に、ぞっとする。
「相応しいかと? そんなことは知らぬ。それでも、あの兄がおらぬのなら、私が王座に座るのは当然だろう。それとも何か? 他の人間を立てたいという輩でも? 姉上辺りはそう仰るのかも知れぬが」
それとも――と、ジュピトは言葉を切った。そして、兄に向けた視線の暗さに、ハルトビュートは思わず構えてしまう。
「第五王子の君は、私に成り代わり、この国の王にでもなりたいのかね?」
――ハルトビュートも、そう思って来た。
そうすれば、ネストリュートは他の兄たちと争わずに居場所を見付けて生きられる。
血を分けた兄弟だ。お互いに生きられるのなら、そうしたいはず。
だから、王が不在のこの国が、ネストリュートにとって、とても重要なのだと。
ただ、ネストリュートはそれを否定した。
「否と申し上げます。私は、レイヤーナ以外の国を祖国とは呼べません。隣国として、友好な関係を築きたいからこそ、時期国王として立たれる殿下にお会いしに参ったのです」
それが本心だと、ハルトビュートは自分の考えの愚かしさを知ってしまった。この兄は、誰よりも祖国を愛している。祖国を捨ててこの国を選ぶような選択はできない。
すべては、自分の願望だった。
ネストリュートがこの地を選んでくれたなら、他の兄弟たちと争わずに済むと、自分が甘い考えを持って願った。この地に住む、ユミラやレヴィシアたちの事情よりも、自分自身のために。
その浅はかさに、思わず唇を噛み締める。
ジュピトは、声を立てた笑った。その声が、ハルトビュートの脳裏にこだまし、いつまでも耳に染み付く。
「それで、私は失格か。失格ならば、消すか?」
「まさか」
兄は、そっと微笑む。まるでその声は、哀れな者を慈しむかのようだった。
ネストリュートは、選ばれた王の器。
だとするなら、この男は――。
先王の双子の弟。
初対面のハルトビュートだが、以前はこのように歪んだ人物ではなかったのだろうと思う。彼がこうなったのは、長い幽閉生活のせいだと、容易に想像できた。
彼が望むのは、王位などではなく自由なのではないかと、ハルトビュートはぼんやりと思う。
「またいずれ、お会いする日もあるでしょう。それでは、どうかご壮健に」
そう言って背を向けたネストリュートは、ハルトビュートとすれ違いざまにその耳もとでつぶやく。
「ハルト、ティエンを頼む」
「あ……」
人の感情による影響を強く受けるティエンは、気付けば顔色も蒼白に浅い息継ぎを繰り返していた。
「ティエン」
ハルトビュートが肩に触れると、華奢な体が傾く。意識が途切れたようだ。
ティエンを慌てて受け止め、抱き上げる。細身の彼女はそれほどの負担ではない。
ハルトビュートはそのままジュピトに一礼し、兄の後に続いた。
帰りの馬車の中、意識のないティエンが座席から振り落とされないよう、ハルトビュートはひざに彼女の頭を下ろし、肩に手を添えていた。
そんな二人を眺めつつ、ネストリュートは苦笑する。
「ティエンがこの調子だ。なかなかの威圧感だったな。さすが、あの女卿の弟君だ」
そういえば、そうだった。ハルトビュートもため息をもらした。
「先王もああいった雰囲気の方で?」
「いや、むしろ穏やかな方だったな」
「俺に同行させたのは、ティエンが倒れると思ったからですか。これで納得しました」
彼女を運ぶために連れて来られたのだ。
そう思ったけれど、ネストリュートはクスクスと笑った。
「それくらい、私でも運べるさ。そうではなく、お前にジュピト様を会わせたかったのだ」
「え?」
ハルトビュートはその一言にぽかんと口を開く。けれど、次の瞬間には真剣な兄の眼差しに射すくめられた。
「ユミラ少年を知るお前だ。二人を比較することができるだろう?」
「それは――」
「年齢など大した問題ではない。どちらが人物として上か、率直に答えてほしい」
どちらが、王として相応しい人物か。
憎しみ、嫉み、世界を厭う人。
聡く、穏やかであるけれど、優しすぎる少年。
「どちらとなら、我が国は友好な関係でいられるのか。これは、私にとって――私が王位に付くか否かを左右する問題なのだから」
そんなのは決まっている。
ユミラは、あの優しい少年は、兄と友好な関係を築いて行けるだろう。
けれど、彼は兄ほどに強くはない。その陰で苦悩し、孤独であり続ける。
その時、ふと脳裏に浮かんだのは、あの少女の姿だった。
観衆に高らかに手を振り、その期待を一身に受ける。
『王様のいない国』――そんな理想を掲げる彼女が希望となるのか。
それとも、一時の夢で終わるのか。
その先は、まだ見えない。
はい、ここで第五章本編は終わりです。
切りよく、ここで200部目です。
五章後半はザルツが主役かと思うほど出ずっぱりでしたが、浮き沈みの激しい章でした(いつものこと?)
アランのように他人を受け入れない、言葉で解決できない相手の場合、最終的に選べる選択肢はとても少なくなります。手を汚してでも退けるか、アランを信じて自分たちが滅ぶか、選べというわけで。
この時、非情な決断ができる人こそ、何かを成し遂げられる人だと、個人的には思っていますが、ここは意見が分かれそうですね(しみじみ)
さて、次から組織と別行動を続けているルテアの方に場面が切り替わります。
なかなか帰って来ないのは何故でしょうね(笑)
よろしければお付き合い下さい。




