〈33〉自らのために
アランの最後の時――。
痛かっただろうか。怖かっただろうか。
あの表情が、脳裏に焼き付いていた。崖を滑り落ちる際の擦れる音も、未だ生々しく耳に残っている。
レーデの正面にやって来たザルツは、まるで懺悔するように、苦しげな面持ちだった。
手を、へたり込んでいるレーデに向かって差し伸べる。
「弁明はしない。俺は組織のためなら決断するしかないから」
ザルツは、レーデが恐怖のあまり動けなかったと思ったのだろう。
罪は、ここにもあるというのに。
ただ、ザルツとは違い、レーデに罪の意識はなかった。後悔する気持ちがないからこそ、その手を取って立ち上がった。
「あなたが動かなければ、私が決断したかも知れないわ。あなたたちとアランを引き合わせたのは私だもの」
その答えに、ザルツは一瞬困惑したような色を見せた。
レーデは思わず苦笑する。
「私はいつも諦めて、どんな時もアランを諌めなかった。私は使用人、彼は貴族。生まれながらにして抗えないさだめだって。――ねえ、でも、あなたたちはそれを否定した。王様も貴族もいない国を目指すって。生まれながらのさだめなんて、ただの錯覚だったって、気付いてしまったの」
王様のいない国には、貴族もいない。生まれながらの身分で決められることのない未来。
この国のすべての人を、個人に戻して、やり直す。
そんな国になれると聞いた日から、少しずつどこかで期待していた。
実現してみてほしい、と願ってしまった。
「私、はっきりとこの手で、その錯覚と決別したわ。だから、後はあなたたちが実現して。当たり前のように根付いた仕組みでさえ、変えられる。さだめなんて、諦めるための口実だって、示してみせて」
ザルツの口もとが、かすかに動いた。言葉は、遅れるようにして届く。
「必ず実現させる。今日、犠牲にしてしまったアランに誓おう」
その一言に、レーデは自分の傲慢さを知った。
アランがああいう人間になったのは何故なのか。
聞き入れられない言葉だから、それを言う立場ではないから、と声をかけ続けることをしなかった。もっと早く、向き合っていれば、彼が理解してくれた可能性はなかったのだろうか。
諦めた自分が、アランを殺したと言えるのではないだろうか。
この人は、歪んだアランの命でさえも、消えたことを嘆き、重く受け止めようとする。厳しい言葉を吐きながらも、本当は、最後の瞬間まで回避できる術を探していたのではないだろうか。
そんなザルツの覚悟と、自分の逃避を同じものとした。そのことに気付けていなかった。
今更になって、涙がこぼれる。
幼い頃のアランは、無邪気に自分を慕ってくれた。そんな頃にはもう戻れないけれど、その死の意味を、存在を決して忘れてはいけない。
これから、アランの亡霊にうなされ続けるかも知れない。
それでも――。
「ファルス――リッジは、俺がこの決断をすることを予測していただろうな。組織を引っ掻き回す以上に、俺に手を汚させたかっただけかも知れない」
「……面倒な相手に嫌われたわね」
「本当にな」
二人の声は、静かな夜に消えた。
レーデは、涙に濡れた瞳で小さく笑った。こんな状況なのに、思い出したのはあの約束だった。
「そういえば、レヴィシアと約束したわ。あなたたちの結婚のお祝いに出席するって」
ザルツも、そっと微笑んでいた。
「そうか。ありがとう」
理想を掲げるのなら、障壁は取り払わなければならない。
きれいなままで実現できることなどない。
わかっているからこそ、彼らは他の選択がないと知れば、手を汚す。
ただ、レヴィシアは――あの少女だけは、曇りのない笑顔でいてほしい。
綺麗事だ、戯言だと言われてしまう、彼女の掲げる理想を、やましさなど差し挟まずに唱え続けてほしいから。そうした彼女の輝きに、人は明るい未来を見出すはずだと、信じたい。
五章、本編はあと二話ですが……。




