〈32〉その裏で
就寝前、レヴィシアは時間帯も忘れ、思わず大声で叫んでしまった。けれど、プレナはにこにこと微笑んでいる。
「うわぁ、あのザルツがそこまで決断するなんて。それに、サマルがあっさり許可するなんて……」
「うん、びっくりした」
でも、嬉しかったと言いたいのだろう。
どんな時よりも幸せそうに笑うプレナを見ていたら、レヴィシアの方が泣きそうになった。そんな顔が見たかったからかも知れない。多分、サマルも同じ気持ちだったのだろう。
「おめでと、プレナ」
「ありがとう」
こんな状況なのに、レヴィシアも幸せな気持ちをお裾分けしてもらった気分だった。二人のためにしてあげられることを考えながら、眠りにつく。
※※※ ※※※ ※※※
その日、レーデはアランに責付かれるまま、クランクバルド邸へやって来た。
とにかく、レーデがレヴィシアの信頼を勝ち取れば、アランの心証をよくすることができる。あの素直な娘に、レーデがアランがよい人だとささやき続ければ、彼女はアランを信用するかも知れない。
なんとかしろ、とアランは言う。
けれど、まるで気乗りはしなかった。なのに、動いている。
自分は結局どうしたいのだと、自問しながら中庭を歩いた。
すると、いつの間にかレヴィシアがレーデに駆け寄って来ていた。
「レーデさん!」
会いに来たというのに、会いたくなかったのかも知れない。
「おはよう」
他愛ない挨拶をすると、レヴィシアは弾んだ息を整えながら挨拶を返す。
「おはよ。あのね、みんなに聞いて回ってるんだけどね」
紅潮する頬と輝く瞳が何か眩しい。
「ザルツとプレナがね、結婚するの。だから、みんなでお祝いしたいから、出席してくれる?」
改革を目指している中でも、そんな普通の幸せがある。
自分には縁のないことだけれど、人の幸せを妬むほど浅ましくはないつもりだ。
「そう。よかったわね。出席させてもらうわ」
「ほんと? ありがと!」
信頼を勝ち得ろと言うけれど、気付けば、自分の方がこの曇りのない笑顔に惹き付けられている。
あたたかい手が、ギュッと自分の冷え切った手を握って大きく振った。
そんな様子に、思わず笑ってしまう。
「じゃあね、詳しく決まったらまた言うから! アランにも伝えておいてね!」
大きく手を振り、溌剌とした空気を振り撒いて去った。手を振り返しながら、あの眩しい女の子が、いつまでもあのままでいてくれることを願わずにいられなかった。
あの娘なら、不可能だと思われるような道のりも、笑って歩んで行けるのではないかと。
※※※ ※※※ ※※※
そうして、レーデは収穫もないまま、夕方になってアランのもとへ戻る。
浴びせられる罵声を、ぼうっと聞き流していると、また髪を強く引っ張られた。その痛みさえ、次第に慣れてしまう。
そんな時、扉をノックする音がした。アランは手を離すと、顎をしゃくってレーデに出るよう促す。
レーデが乱れた髪を手ですきながら扉を開くと、そこには意外な人物がいた。
「ザルツ、さん」
「こんな時間に申し訳ないが、アランと少し話がしたい」
その声が聞こえたのだろう、アランは姿を見せた。
「話? いいけど、ここで?」
どうすれば自分の得になるのか、考えている。アランはそんなこずるい顔をしていた。
「……そうだな、外の方がいい。少し歩こう」
ザルツはちらりとレーデを見遣る。ついて来ないでほしい、と目が語っていた。
そうして、二人は連れ立って出て行ったけれど、レーデはなんのためらいもなくその後を追った。
二人は、人気のないところを探していたのだろうか。ただ並んで歩き、坂を上って行く。最初は、クランクバルド邸に向かっているのかと思ったが、そうではなかった。屋敷の裏手、リレスティの南に広がる森を一望できる高みの一角で、二人は立ち止まった。断崖のように切り立った場所は、確かに誰もいない。
風が、肌寒いほどに感じられるその場所で、アランはひとつ伸びをした。ゆとりを見せようとしているのか、断崖の先から森を見渡すような仕草をし、それからザルツを振り返る。
「結婚するんだってな?」
「……よく知ってるな」
アランの皮肉っぽい声に、ザルツは抑揚のない声でそう返した。
「で、話って?」
一瞬、沈黙があった。それから、ザルツはつぶやく。
「俺たちと合流する前に、ファルスっていうメンバーがいたと言っていたが、もしかして、黒髪に黒い瞳をした小柄な青年じゃなかったか?」
何故突然ファルスの名前があがったのか、アランには理解できなかったようだ。不思議そうに首をかしげながら答える。
「ん? まあ、そうだったな」
それを聞く前から、ザルツはすでに答えが予測できていたようだった。
そうか、と小さく言う。
「……それで、ここからが本題だ。アラン、レヴィシアを利用しようとするのは止めてくれないか?」
すると、アランは一度、表情をなくした。それから、緩やかに口の端を持ち上げ、声を立てて笑う。その耳障りな声に、ザルツがどういう表情になったのか、背後に隠れるレーデにはわからなかった。
「利用? 心外だな。僕は彼女を支えてあげたいだけなのに」
抜け抜けと、そんなことを口にする。そんな言葉、誰も信じない。
「それが本心で、レヴィシアの理想に感銘を受けての言葉なら、俺は何も言わない。けれど、違うだろう? あんたは、自分のためになんでも犠牲にする人間だ。レヴィシアまで、犠牲にされたくない」
組織の旗印である以上に、彼にとってレヴィシアは家族のようなもの。組織のためではなく、彼女個人のためにそう言うのだろう。
その言葉に、アランがかろうじて保っていた見せかけのゆとりが、パラパラと剥がれ落ちる。
「お前、何様だ!? 偉そうに、僕に意見するな!!」
そんなわめきに対して、ザルツの声はひどく落ち着いていた。
「……ファルスっていうのは偽名で、そいつは俺たちと因縁のあるやつだ。だから、あいつはあんたが組織入りするように仕向けたんだろう」
「なん、だと?」
「あいつは、俺たちを潰したいんだ。だから、あんたを使った」
レーデは、ファルスの時折見せる冷えた目を思い出した。
有能であったけれど、それ故にどこか油断のならない青年。
彼の目的は、内側からこの組織を壊すこと。そのために、アランに白羽の矢を立てた。
そういうことだった。アランが、この組織をめちゃくちゃにする。
「わかるか? あんたが組織を掌握しようとして、思い通りに行かずに荒れることも、あいつの思惑通りだ。あいつは、俺たちの不利益になる結果を願っているんだ」
アランは最初、愕然として聴いていた。
けれど、彼は結局のところ、どこまでも愚かだ。
甲高い笑い声が薄暗い中に響いた。
「あいつが、そんなことを考えていたとはな。まあいい、許してやるよ。こんなにもおもしろいところを紹介してくれたんだから」
「何……」
「ほら、今更僕を組織から追い出そうったって、もう駄目だ。お前たちのことは色々知ってしまったからな。密告されたくなかったら、僕に従えよ。僕に。なあ、今すぐに傅けよ!」
風の音が、耳に響く。ザルツの肩が揺れた。ため息をもらしたのだろう。
「……残念だ」
そう、つぶやく。
アランの顔が、見るに耐えないほど醜悪に思えた。
「残念? ――見下しやがって。まだ、立場がわかってないようだな」
ただ、その次の瞬間には冷え冷えとしたザルツの声がした。
「わかっていないのは、そっちだ」
ピン、とザルツの手もとで硬質な音がした。その途端、アランの表情が一変する。
「な、ん……」
アランの上ずった声が、怯えた顔が、突き付けられたナイフに向けられた。
「組織を立ち上げた時から、血に塗れる覚悟はできている。すでに、策によってたくさんの命を奪った。仲間たちも、手を汚さずにここまで来られたわけじゃない。――組織の障害は、排除する。汚すのがレヴィシアの手ではなく、俺の手で済むのなら、むしろ幸いだ」
この組織は、彼女を守る人々の集まりだ。誰もが彼女を支え、守ろうとする。
危険の芽は速やかに摘まなければならない。それを理解しなかったアランに、牙が向く。
アランは、強張った顔で一歩後ろに下がった。けれど、後ろが切り立った崖であることを思い出し、踏みとどまる。けれど、ザルツは前に進んだ。
「や、止めてくれ。悪かった、は、反省した。もう、何もしないし、組織も抜けるから、た、たす、けて――」
矜持など、すでにない。いつも誰かに庇われて来たアランは、自らの力で身を守ることすらできないのだ。
「悪いな。その言葉を信じられるほど、俺は楽天家じゃない。恨めばいいとしか言えないが、最後に言い残すことがあるなら――」
レーデはこの時、アランを救いに走ることができた。けれど、それをしなかった。
足がすくんで動けなかったわけではない。はっきりと、明確な意思を持って動かなかったのだ。
恩すらも嫌悪が凌駕してしまった。逆らえないなんて、錯覚だ。
最初で最後の反抗が、今――。
そんな彼女の横を、なんの音もなくすり抜けた人物がいた。極度の緊張で心臓が疼いていたレーデは、とっさに声も出ない。
『彼』は、白手袋の手の平を口もとに添える動きをした。ただそれだけに見えた。なのに、ザルツが彼に気付く前に、アランは恐怖の表情のまま、体を後ろに傾けて崖を転落した。殺害する意志があったにも関わらず、ザルツはナイフを放り、反射的に手を伸ばすような動きを見せる。
けれど、すぐに踏みとどまった。そして、背後に強張った顔を向ける。
「あなたは……」
彼はザルツに向け、礼儀正しく一礼すると、にこりと微笑んだ。笑うと目じりに皺ができる。
「はい、クランクバルド家執事でレーマニーと申します。フェンゼース様には何度かお目通りいたしておりますが、覚えておいででしょうか?」
温厚そうな、それでいて油断のならない雰囲気を持つ執事だ。
あのクランクバルド公爵に使える身なのだから、一筋縄では行かない人物だろうとは思っていたが、想像以上だった。
「はい。……あなたは、クランクバルド卿の命で動いたのでしょうか?」
すると、レーマニーはゆったりとうなずいた。
「もちろんでございます」
「卿が、アランを始末しろ、と?」
「ええ。あなた様が動かれるのも時間の問題である故、先に始末せよ、と。危ういところでしたが」
「何故……」
「ご結婚祝いだそうです。それに、主にとりましても、彼の存在は、改革やその後に差し障りますので、不都合だったということです」
――守るものを見付け、そばにいる決断をしたからこそ、アランを排除しなければならないと思った。
何故この時に、ではない。今だからこそ、手を汚そうとしたのだ。
守るために。
自分がこの決断することを、公爵は見越していた。
ただ、この結果も、罪の意識がないわけではない。けれど、平然としたレーマニーの瞳には、深い闇がある。自ら手を汚すことが怖いという気持ちもあった。だから、安堵する自分が、いないわけではなかった。
あんなに覚悟して決めたことなのに、ずるくて弱い自分だ。
この執事や、リッジは何を思い、平静を保ちながら暗殺術を身に付けたのだろう。
そんなことを考えているザルツの心が読めるかのように、レーマニーは笑った。
「人には向き、不向きがあるのですよ。それでは、どうか主のご期待に沿って下さいますように。遅ればせながら、お祝い申し上げます。それでは」
きびすを返した彼は、去り際に、一部始終を見ていたレーデにも声をかけた。
「あなたも、これからはご自分の道を歩まれますように」
ぺたりとその場に崩れたレーデに、ザルツはかける言葉を探した。
この晩の出来事は、二人が墓まで持って行くべきこと――。




