〈2〉海の見える町
ぼんやりと、彼は海を眺めていた。
トマス=ニカルド――彼はほんの少し前まで、軍人であった。
このアスフォテの町に駐屯する一隊を任されていたのだが、とある事件後、自らその職を辞した。それがけじめで、責任の取り方だと上に言った。
けれど、本当はどうであったのか。
迷いが生じたと言ってもいい。
あの時、逃れたレジスタンスを追う手がかりを探すうち、ニカルドは町の声に耳を傾けた。そうして、あのレジスタンスを率いる少女の覚悟を知った。
幼いながらに、思い描く未来を手にするためにすべてを賭けるその姿勢を、賞賛してはいけないのかも知れない。けれど、簡単に否定することにはためらいがある。
再びあのような状況になった場合、自分は彼女たちの前に立ち塞がれるのか。そんな風に考えた自分は、もはや軍人としての価値もなく、部下の命を預かれる身ではなかった。
だから、辞した。
これからは、武器職人のスレディの手伝いをしながら細々と過ごせたなら、確かに自分はそれで十分だが。
――だったら何故、今ここで潮風に吹かれて立ち尽くしているのか。
防波堤を眺めながら、ぼんやりと波止場に立っていたニカルドの隣に、気付けば枯れ枝のような老人がいた。杖をついているものの、危なげのない足取りだ。
彼は両手を杖の頭に乗せ、しわの深い顔で微笑んでいた。
この老人は、スレディの客人である。フーディー=オルズという名前しか知らないが、結構な高齢だ。それでも矍鑠としているから、頭が下がる。
ただし、年寄り扱いするとうるさいらしい。
フーディーはどこか少年のような輝きのある眼で、大柄なニカルドを見上げていた。
「お前さん、でかすぎる。首がおかしくなるわぃ」
「え、あ、申し訳ない」
慌ててしゃがむが、後にして思えば、謝ることでもなかった。そこに座り込むと、フーディーは遠い目をして一緒に防波堤を眺めた。そして、カモメの声を聴きながら、ぽつりと口を開く。
「ワシの故郷もな、海の見える土地だったんだよ。小さい頃からそりゃあもう、海に慣れ親しんでた。だから、こうして海の見えるところに来ると、不思議と心が安らぐ」
「そうでしたか」
老人の他愛ない昔話を聴くのも、悪くはない。ニカルドは静かにうなずいた。
けれど――ただのぅ、とフーディーは嘆息する。
「海はの、時に残酷で、安らぎばかりを与えてはくれなんだよ」
この町に駐屯している間にも、漁に出て、帰らなかった漁師たちの多さは、ニカルドもよく耳にした。だから、この言葉をそう受け止める。
「そう、ですね……」
口下手だという自覚はある。上手く返せなかったニカルドに、フーディーは笑みを向ける。
「まるで国のようだ」
「え?」
「恵みを与えてくれることもあれば、時に荒振り、弱者を飲み込む」
「はい……」
神妙な顔をしてうなずいてみせた。けれど、本当の意味などわかっていなかった。
その老人の瞳は、ぞっとするほどの深みをニカルドに突き付ける。
「だがの、海は神が創りたもうたもの。国は、人が創ったもの――」
そこでフーディーは言葉を切ると、まるで少年のように悪戯っぽく笑った。
「そう考えてみれば、国を動かすことなど容易いのではないか?」
「はぁ」
「ワシ、レジスタンスだから」
「え゛」
思わず、おかしな声をもらしてしまった。
そんなニカルドを、フーディーはさも愉快そうに笑い続ける。からかわれているのかも知れない。
「お前さん、こんな年寄りに働かせて、自分は軍を退いたからと言って、傍観するつもりか? 嘆かわしいのぅ」
「え、あの……」
「あの娘たちが描く、この国の行く末、この老い先短いワシに見せてくれんかの?」
そこでようやく思い出した。
あのレブレム=カーマインの娘と会話していたスレディの姿を。
「まさか、スレディたちも……」
老人はにやりと不気味に笑った。
そう、気付けばどっぷりと浸かっていたのだ。




