〈35〉ひとりで歩く影の道
王都に到着した馬車の中、ネストリュートの傍らで、ティエンは非難がましい視線をいつまでも主に向けていた。
ティエンはただ、ハルトビュートのことが心配だった。止めなかったことを怒っているのだ。言ってしまえば、八つ当たりに近い。
「ハルトなら無事に帰って来る。無理はしない。あいつが示したいのは、結果ではなく、決意だ。せっかくの決意を、止めたらかわいそうだろう?」
「それは……そうですけど」
ネストリュートは、いつもハルトビュートの行動を否定しない。唐突に、クランクバルドの屋敷で働いてみると言い出した時もそうだった。
計算高いネストリュートとは対極に、ハルトビュートは情に流されやすい。すぐにほだされる。だから心配なのに、この兄は、肝心な時には止めてくれない。ただ、見守るのだ。
一見、誰も信じず、必要としないかに見えるネストリュートだが、ハルトビュートのことだけは誰よりも信じている。その存在が救いであるのだろう。
彼だけではない。ティエンももちろんそうだ。リンランでさえ、そうなのだ。
赤い絨毯の、長く伸びた廊下を進む。しばらくは用意された部屋で待機だ。
主は、この程度の式典で緊張するようなかわいらしい人間ではないが、多少の休息は必要だろう。
二人が無言で進むと、奥から上品な老婦人と中年の執事が現れる。老婦人は、すぐに身分の高さを窺い知れた。
お互いの距離が縮まった時、ティエンは心臓に氷を押し付けられたような、あり得ないほどの痛みを感じた。
稀に、こういう人間がいる。
心の中まで見通せない、完璧なまでの殻に覆われている。それどころか、逆にティエンの敏感な心に侵入して来るような、強い威圧感。一見か細い老女が、どこからこの気を放つのか。呼吸さえも忘れ、ティエンは呆然としてしまった。隣に控える執事でさえ、この老婦人の同類だった。
感受性の強いティエンにとって、この二人が毒であることを、ネストリュートはすぐに感じ取ったのだろう。それにより、名を訊かずとも正体は知れた。
「お初にお目にかかります、クランクバルド卿」
クランクバルド公爵家当主は、妖しい微笑をたたえ、体をネストリュートに向けて立ち止まった。
「ネストリュート殿下ですね。いつかの迷鳥は巣に戻られたでしょうか?」
「ええ。あなた様のお陰を持ちまして。このような場で恐縮ですが、御礼申し上げます」
「さあ。身に覚えはございませぬが。――それでは後ほど。ごきげんよう」
スイ、と視線を外すと、女卿と執事は通り過ぎた。ティエンはようやく息をつけた心地がした。
「大丈夫か?」
主に心配されるようではおしまいだ。ティエンは虚勢を張る。
「ええ、もちろん。……けれど、想像以上でした」
「そうだな。この国を動かそうと思うなら、三本の指に入る障害だ。それでも、避けては通れぬが」
自分たちの前途が多難であることなど、今更だ。
それでも、先へ進むしかない。
そうして二人は、用意された部屋の前に到着した。けれど、ティエンは扉を開こうとしたネストリュートの腕を止めた。ネストリュートは何も尋ね返さず、小さくうなずく。それを確認すると、ティエンは手を放した。
二人はようやく、扉を開き、中へと足を踏み入れる。
ネストリュートは最初の一歩を踏み出した。その途端に、室内で風を感じる。
視界の端にその影が断片的に映った。
体を低くし、首筋に迫ったその手をかわした。そして、侵入者の足を払い、ふら付いたところを続けて蹴り上げた。それを、侵入者は後ろに跳んで衝撃を最小限に留める。
それらは、常人ならば目で追うことができたかどうかという速度だった。
ネストリュートとその影が対峙する部屋の扉を、ティエンは静かに閉めた。侵入者もネストリュートも、お互いから視線を外さなかった。張り詰めた空気を最初に破ったのはネストリュートだ。
不意に、ふわりと柔らかく笑う。
「久し振り、とでも言うべきか?」
それに対し、侵入者は黒い前髪がかかった眉根を寄せた。
「そうですね。けれど、本当はもうお会いするつもりはありませんでした。それなのに、僕がここへ来た理由は、きっとあなたにはわからないでしょうね」
ティエンは、かつて共に過ごした一族の若者に聞こえるよう、ため息をついてみせた。
「しばらく会わないうちに、愚かに成り果てたものですね。それとも、私に心を隠せるほどに強くなったと思うのですか?」
その一言で、彼が動揺したことも、ティエンには手に取るようにわかる。彼の迷いは、彼の中で渦巻いて、まるで嵐の夜のようだ。
「そうか。ティエン――君が付いていたんだったね」
平静を装っても無駄だとわかっているくせに、取り乱すところも見せたくないようだ。
「それで、連絡を絶ってからどうしていたとは、今更訊かない。何か優先すべきことを見付けたのだろう? 今後、お前に何かを求めることはない。好きにするといい」
ネストリュートはそう言った。
一族の命令を、彼は放棄した。それが何を意味するのか。何故なのか。
理由など、今更だ。
いないなら、いないでいいと思った。探しもしなかったし、罰も与えられない。
それとも、必要ないの一言が、彼にとっては罰なのかも知れない。
彼は、平静を装いつつも、言葉を探す。そんな心の動きは、ティエンには筒抜けだった。
これならば、昔の方がまだ思考も読めなかった。弱くなったものだと思う。
「ただ、お尋ねしたかったのです。あなたがこの国をどうされるおつもりなのか。あなたのご決断を――」
そんな彼の言葉に、ネストリュートは口の端を持ち上げて微笑し、髪をかき上げた。
「まず、この国の内乱を平定し、そして、導く」
その強い意志を、彼は虚ろな心で受け止め、ぼそりとつぶやいた。
「あなたが、この国の王になると? それとも――」
彼の問いに、ネストリュートは答えなかった。それに答えてやる義理はない。当然だ。
すると、彼は不意に声を立てて笑った。
「『王様のいない国』なんて、存在できると思いますか?」
「なんですか、それは?」
なんの戯言だろうかと、ティエンは思う。彼の心は今、入り乱れた感情でにごり、明瞭に見渡せなかった。それでも、視線だけはネストリュートを見据えている。
「民主国家だそうですよ。それが実現できるのなら、つまり、あなたのような王者も、僕――いえ、一族も、不要の存在だということです」
ネストリュートは不適に笑っていた。
「おもしろいな。夢物語でないのだとしたらな」
「その夢物語が実現するのか、あなたの現実が勝るのか。僕はどちらも望みませんけれど」
「だとするなら、お前の望みはなんだ? 宿命からの解放か?」
その一言に、また彼の心が揺れる。それは、ネストリュートにさえ伝わるものだった。
ネストリュートは唐突に、自分の襟元を緩め、首筋から鎖骨にかけてあらわにしてみせる。
「私を殺すことができたなら、お前は自由になれる。私こそが、お前たち『フーディアの民』の総意である。お前にその覚悟があるのなら、この首、獲ってみるか」
レイヤーナの先住民が祖とされる、『フーディアの民』。
国の歴史の中、少数民族である『フーディアの民』は謀反を企んでいるとされ、軍に滅ぼされかけた。けれど、当時の王が彼らの身体能力の高さを惜しみ、自らに従えたという。
ただ、その王の死後、その跡継ぎは惰弱な暗君であり、『フーディアの民は』その王子を弑し、賢弟を王位に就けた。それが始まりである。
最初は、生きるために従った。けれど、時の中で従うために生きるようになった。
国民であろうとも、その存在を知る者はほとんどいない。歴史とは、為政者の都合により改竄されるものである。
そうして、『フーディアの民』は細々と命脈を保ち、レイヤーナの歴史に深く関わって来た。時には暗殺を、時には警護を、時には諜報を。あらゆる手段で真の王を擁護する。いわゆる、国の最深の闇である。
一族の掟は絶対であり、逆らうことなどティエンの頭にはなかった。
だから、彼が何故、こうなってしまったのか、一族の者にはわからなかった。
ただ、彼は所詮『落ちこぼれ』である。
やはり、彼の震える手には『一族の総意』を葬り去れるような強さはなかった。
「なんの罠ですか? そんな誘いには乗りません」
その一言は、言い逃れではなかっただろうか。それでも、彼は続ける。
「……この国は、あなたのためにあるのではない。あなたが望むようには動きません。それが、僕からの最後の調査報告とさせて頂きます」
一礼し、彼は外に続く大窓のひとつに素早く体を滑り込ませ、次の瞬間には溶けて消え失せたかのようにいなくなった。
ティエンは、この時、形容しがたい感情を胸に抱えた。
手負いの獣のような、見るに堪えない姿を今更さらしてほしくなかった。
ただ、共に育ったよしみ――最後の情けとして、彼の心のうちを秘密のままに飲み込んだ。
二章でユーリがリッジに言った言葉は、
「あなたは『フーディアの民』ではありませんか?」
でした。ユーリは物知りなので(笑)
リッジはレイヤーナ人です。
王を選別する一族に生まれ、その手足として生きて来た彼でした。リッジにとって、『自分だけが選んだ王』を立てるという行為は、一族の末端としての自分ではない、言わば、一族、運命からの解放の意味を込めていたのでした。
周囲が思う以上に、リッジにとってロイズの心変わりはつらいものでしたし、『王様のいない国』なんてとんでもない発想です。
あ、『フーディアの民』とフーディー老人は無関係です(紛らわしい……)




