〈32〉想いの残滓
狂わんばかりに叫んでも、起きてしまった現実は変えられない。
自分だけが助かって、なんの罪もない二人を殺してしまった。
落ちればよかったのは自分なのに。
そばにいて守りたいと言ってくれたルテアも、こんな自分を庇ってくれたシーゼも、自分が犠牲にした。
泣き叫ぶレヴィシアと、呆然と立ち尽くしているユイに、フィベルがいつになく鋭い声を飛ばした。
「泣かない!」
泣く資格もない。
レヴィシアはびく、と体を強張らせ、ぐしゃぐしゃになった顔でフィベルを見た。けれど、彼の顔にあったのは怒りではない。
「まだわからない」
こんなところから落ちたのに、助かったかも知れないというのだろうか。そんな希望を持ってもいいのだろうか。
「助かった……かもって……?」
彼はうなずく。
「諦めちゃ駄目」
この希望が潰えた時、もう一度絶望が押し寄せる。そうだとしても、無事を祈り、すがらずにいられなくなった。
「うん。行こう」
レヴィシアは涙を拭き、差し伸べるユイの手を取らずに立ち上がった。
二人がもし、谷底まで落下していたなら助からない。けれど、運よくどこかに引っかかっていてくれれば、可能性はある。三人は急いで谷を下った。道中、ハルトたちに出会うこともなかった。すでに遠くに行ってしまったのだろう。
レヴィシアは、震える脚に鞭打って先を急ぐ。何度も涙があふれそうになるのを、歯を食いしばってこらえた。ただ、目を凝らして二人の痕跡を探す。
そんな時、フィベルがある一角を指した。
「あれ」
レヴィシアたちがいる場所の少し下に、二人の姿がある。
「!!」
目撃した光景のため、心臓が動きを止めたかのように感じられた。折り重なる二人は、動かない。
レヴィシアは必死で駆け下りる。ユイとフィベルも無言でその後ろに続いた。
少しでも早く。心臓なんて破れてもいい。後のことなんて考えずに、全力でそこに辿り着いた。
ごつごつとした岩場に、二人は重なり合って倒れている。
とっさに、悲鳴すら上げることができなかった。荒々しく肩で息をしながら、レヴィシアはユイを振り返る。
血に染まったシーゼの白い顔を眺めるユイは、今、自分がどんな表情でいるのかを自覚していないのだろう。感情を隠すことに慣れている彼が、痛々しいまでに顔を歪めた。
忘れてなんかなかった。
ユイの心は、今もシーゼにある。そう確信するには十分だった。
自分が傷付く資格はない。
彼女を選べずに、見殺しにした。そのことを、ユイは一生苦しみ続ける。
『――罪を贖うつもりが、新たに罪を重ねているだけかも知れないのに』
そう言ったリッジの言葉が鮮明に蘇る。ユイの苦しみを増やし続けているのは、他ならぬ自分自身だ。ユイのせいではない。これが罪だというのなら、罪を犯させているのは自分だから。
そして、こんなにも醜い自分を、好きだと、守りたいと言ってくれたルテアも――。
シーゼの下敷きなり、服はところどころが裂けて、赤い染みを作っている。顔も擦りむいた跡があり、砂にまみれていた。
彼には、どうやったら償えるのだろう。今、ルテアが起き上がってくれるのなら、なんだってする。
笑って、大したことないと言ってくれるなら――。
けれど、二人は動かなかった。
近寄ることもできずにいるレヴィシアとユイを尻目に、一人冷静だったフィベルは淡々とルテアたちに歩み寄る。そして、重なっている二人の間に手を滑り込ませた。それから、上を見上げる。
そのまま、フィベルは顔をレヴィシアたちに向けた。
「運ぶの手伝って」
このままにしておけない。こんな場所に置いていけない。
みんなのところへ連れて帰ってあげなければ。
レヴィシアは、再び流れていた涙に気付かないまま、二人に近付く。ユイも隣に在った。
「早く診てもらわないと」
その一言で、レヴィシアは我に返った。
「え……?」
言葉が少ないフィベルとの意志の疎通は難しかった。
「生きてるよ」
レヴィシアはひざを付き、這いつくばるようにしてシーゼの背中に耳を付けた。トクトク、と心音が確かにある。ぬくもりも、失われていない。ルテアの首筋に震える手で触れても、それは同じだった。確かなことだった。
先ほどとは違った意味で涙が止まらなかった。泣いている場合ではないのに、止め処なくあふれる。
「多分、ルテアのお陰」
ユイは岩肌を引っかくように付いた傷と、その裂け目に突き刺さったままの細身の剣の破片を見付けた。シーゼのものだ。折れた剣の半分は少し離れた場所に落ちている。
ルテアがシーゼの剣を抜き、落下する途中で岩肌の裂け目に差し込んだのだろう。
彼のわき腹の、切り口の鮮やかな傷は、その時に自分で傷付けてしまったのかも知れない。
二人にとって、もうひとつの幸運は、落下した場所である。遮蔽物のなかった断崖は、吹き荒れる谷風が、下から上にかけて吹く。体は押し上げられ、落下速度を緩和してくれた。谷底まで行かず、途中の岩場に落ちられたのも、強い谷風のお陰だろう。
レヴィシアは、安堵から頭が痺れるような感覚がした。きっと、ユイもそうだったはずだ。
けれど、この血は本物で、二人がけがをしているのは事実だから、まだ安心はできない。レヴィシアは気を取り直した。
まず、上に被さっているシーゼをどかさなければ。
「ユイ、シーゼをお願い」
ためらいなく、そう言えた。醜い嫉妬はもう湧かない。
ユイにシーゼを託したかった。二人のために、そうしたかった。
彼はそんなレヴィシアの気持ちを汲み取る。うなずくと、シーゼの体を抱き上げた。
これでいい――と、レヴィシアは晴れやかな気持ちだった。
※※※ ※※※ ※※※
ハルトビュートとリンランは相乗りのまま王都を目指していた。他の騎兵たちもいたのだが、けが人がいるため、王都ではなくエトルナに引き返すように指示を出した。
二人が乗るのは屈強な軍馬であるため、二人が乗ったくらいではものともせずに走り続ける。
リンランが手綱を握り、ハルトビュートは、馬の扱いに長けているため手加減のない彼女に振り落とされないよう、彼女の腰につかまっていた。こんな体勢だが、彼女との間には甘ったるい感情は一切ない。
ハルトビュートはそんなことよりも、あの光景が頭から離れなかった。リンランが馬の腹に蹴りを入れて走らせた瞬間、投げ出された彼女の体と、黒髪の端が見えた。レヴィシアの絶叫がまだ耳から離れない。馬の蹄の音も、風の音も、それを消してはくれなかった。
思わず歯を食いしばったハルトビュートに、リンランは平然と言う。
「ここ、戦場よ? 甘えないで」
彼女の言うことは正しいのかも知れない。ここは戦場で、あれは戦いの結果だ。
けれど、そう思えば思うほど、戦いの虚しさを痛感する。戦う以外の選択をいつだって望むのに。
リンランは戦闘に特化するよう教育された一族の中でも天才肌だという。技だけでなく、心さえも。
だから、こんな甘さは口にしたところで愚かだと叱られるだろう。
そんなハルトビュートの苦悩とは無縁の明るい声でリンランは言う。
「それにしても、あの美形のおニイさん、レジスタンスだったなんて。二回も会って、危うく運命感じ始めたところだったのに」
「ああ、ユイのことか」
「結構手こずっちゃった。その上、あの糸目でしょ? さすがに疲れたわ。あたしがこんなに働いてるのに、あのウスノロは王都でぬくぬくよ? 腹立つわぁ」
彼女にかかれば、誰もがウスノロである。
王都に潜むのは、ヤンフェン=ヤール。彼女と同じ一族の者だ。彼は確かに、兄がそばにいなければ手を抜いているかも知れない。
「いや、でも、ティエンだけに兄上の護衛を任せるのはかわいそうだ。ヤンも合流しているかも」
「そう願いたいけど。まあいいわ。とにかく、急がなきゃ。ネスト様の凛々しいお姿を見逃したくないし」
「うん」
ハルトビュートはうなずく。
走る馬の背で、この国の人々、それから自分たちの未来はどこへ向かうのかと考えた。
答えなど、そう簡単に見付かるはずもなかったけれど。
ユイ、弓矢一式置いて来てしまいました。
しかも、置いて来たことにまだ気付いていません(笑)
何気にかなり動揺してますね。




