〈30〉言ったはず
追っ手は、レヴィシアたちがいた向こう側ではなく、矢の放たれたこちら側を選んで登って来た。隠れるべきだが、とっさにどう動けばいいのかわからなくなった。
どこかでユイが応戦しているのか、射手の見えない矢の雨は止んでいた。
けれど、すでに追っ手の騎兵たちは顔が見える位置にまで迫っている。今から来た道を戻れば、吊り橋を渡り切る前に落とされるだけだ。レヴィシアは少しでも冷静になれるよう、唇を噛み締めた。
騎兵の数は六騎だ。その中に、あの正装の人物の姿がある。騎乗したその姿は、やはり兵士などとは違い、戦いを好まない柔和なものだった。
「どこかで会った?」
場違いなほどの、のん気なフィベルの声に、馬上の高貴な青年は苦笑した。
「会ったかも知れないな」
その顔は、服装が違っても変わるわけではない。
レヴィシアはもう、わけがわからず、他に言葉も出なかった。
「ハル……ト……?」
そんな彼女に、あの門番だったはずの青年は言う。
「だから、言っただろう? 次は助けてやれないって」
まるで王族でもあるかのような格好のハルトが何者であるのか、この時のレヴィシアにはわからなかった。ただわかるのは、今の彼は味方ではないのだということ。
レイヤーナの兵士を連れ、レイヤーナ大使一行の馬車から降りて来た。判断するにはそれで十分だ。
今は、何故だと嘆いている場合ではない。こちらは三人。ユイを入れても四人だ。
圧倒的に不利だというのに、フィベルは落ち着いていた。
「隙見て逃げて」
と、いつもの調子でぼそりと言う。
「逃げてって、あなたはどうするの? わたしも加勢するわ」
「いらない」
「いらないって――」
「数いるだけ。ちょろい」
真顔で言うから、強がりや冗談なのか、まるでわからなかった。シーゼも納得し切れていない。
「正規兵をちょろいとか言ってくれるなよ」
思わず脱力するハルトの姿は、以前と同じ親しみやすさがある。けれど、仲間ではない。それは間違えてはいけないことだ。
「すぐわかる」
フィベルはそう言うと、一人で前にすたすたと歩いて行ってしまった。馬鹿にされた兵たちは、内心では腸が煮えていただろうが、ハルトの手前か、口汚く罵ったりはしなかった。騎兵はまるで狼のように、彼の周りをゆっくりと回り出す。ハルトだけはその場から動かずに勝負の行方を見守っていた。
レヴィシアとシーゼも動かなかった。
ただ、その時、はるか向こうの方で茂みが切られるようなガサ、という音がした。ユイがそちらで戦っているのかも知れない。レヴィシアがそう思った瞬間、シーゼの手がレヴィシアの肩を抱く。彼女のもう片方の手は、剣の柄に添えられていた。
その音のせいで、にらみ合いが続くかと思われたこちらの戦いの火蓋も切って落とされた。
フィベルに向け、一人の騎兵が剣を水平に薙いだ。その一閃を、彼は後ろに飛び退いてかわす。それは彼を後ろに下がらせ、背後にいる仲間に討たせるためのものだった。まんまとその策に乗ったフィベルだった。ただ、退けられる自信があったからこそ、あえて乗ったのである。
後ろに飛び退き、フィベルは振り返ることもせず、後ろに目が付いているのかと思うような正確さで、軍馬の腹からそのレイヤーナ兵の脚に切り込む。その動きに目を奪われた一瞬の隙に、フィベルは他の三騎の手綱の一箇所を切断するという早業をやってのけた。馬から落馬して昏倒する二人と、息が詰まってむせる一人。無事である後の二人も、気付けば脇腹を切られ、腕を切られ、戦闘不能状態で馬にしがみ付くしかなかった。
一連の動きが、この眠たそうな青年のものとは思えない鮮やかさだった。頭などは使わず、感覚で戦っていると言ってもいい。これは、天性のものだろう。
乗り手が滑り落ちた何頭かの軍馬は、いなないて走り去った。あっさりと敵を撃退したフィベルは、得意げでもなんでもなく、ただ淡々としていた。
「ちょろい」
ハルトはすでに否定できなかったようだ。温和な顔で困ったように眉尻を下げ、嘆息した。
「……分が悪いか」
そうつぶやく。兵たちはかろうじてハルトを守るように彼の周囲を固めた。フィベルは相変わらずの無表情で、剣先をぴたりとハルトに向ける。その剣は、スレディが持たせてくれたのだろう。陽に輝く刀身は、血に濡れてもまだ美しかった。
負傷した兵士たちは得体の知れない青年の構えに、恐怖を覚えたようだった。小さく悲鳴のようなものが上がった。
「もう帰る?」
帰るなら見逃してやると言いたいのだろう。けれど、ハルトが何かを言いかけた瞬間に、横からフィベル目がけて矢が飛んだ。
「フィベル!」
思わずレヴィシアが叫ぶ。フィベルは剣で叩き落すことはせず、ほんの僅かに頭を揺らしてそれを避けた。その次の瞬間に、ハルトの騎乗していた軍馬の首もとに、ふわりと黒い影が下り立った。




