〈23〉悩みを抱えて
「ティエン、出かけるぞ。来い――ティエン?」
ティエンは主の声に我に返った。こんな風に何度も呼ばれるまで気が付かないなんて、珍しい。
人よりも感覚が優れているからこそ、主のそばに付き従うように一族から仰せつかっている。それが、この体たらくだ。ため息しか出て来なかった。
そんな彼女に、ネストリュートは言った。
「なんだ、ハルトがそんなに気になるのか?」
図星だが、顔には出さないように努めた。人の心の動きを察することには慣れているけれど、逆に覚られることには慣れていない。
ネストリュートは優美に微笑む。
「まあ、お前でなくともわかるくらいに、様子がおかしいからな。気になるのも無理はないだろう」
「……ハルト様は悩んでおいでのようです。けれど、私では何のお役にも立てません」
バルコニーでぼんやりと空を眺めるハルトビュートの背に、声もかけられずに立ち去る。そんなことを何度も繰り返した。
心優しい人だからこそ、すぐに他人に情を移してしまう。
だから、あまりこの国の人間と関わってほしくなかったというのが本音だ。ネストリュートを第一に考えるのなら、この国の誰かへの親しみが、ハルトビュートを苦しめることとなる。
わかっていたことだけれど、やはりこうなってみると、そんな彼を見ていることがつらかった。
主に対し愚痴をこぼすなど、自分でも馬鹿だと思った。けれど、止めることができずに、言葉があふれてしまう。ただ、ネストリュートは嘲笑うこともなく、同じ思いを口にした。
「私にも、どうすることもできない。――ただ、ハルトはすでに選んだ。いつかは乗り越えるだろう。これは、あいつの問題だ」
そんな二人のやり取りをリンランが聞いたなら、二十代半ばの男に対して過保護だと言っただろうが、彼女はこの場にいなかった。ティエンはうなずく。
「そう、ですね。ハルト様にとって、何よりも大切なのは兄上――ネスト様ですから」
それほどのあたたかな気持ちを自分に向けてくれたらと思うほど、ハルトビュートは兄を尊敬し、案じている。そして、ティエンのことはリンランと同じように妹のように思っている。知りたくなくても、わかってしまう。親しみを向けてくれることは嬉しいけれど、それを不満に思う部分もある、欲張りな自分だった。
それをネストリュートは見透かしたようにクスリと笑った。
「うらやましいか?」
この人の、こういうところが嫌いだと、ティエンは心底思う。にらんでやった。
「で、ネスト様はどちらにお出かけに?」
強引に話をそらす。ネストリュートは肩にかかった髪をゆっくりと払い、笑顔を崩さずに答えた。
「歓迎式典のために王都へ向かう、その下準備の確認だ」
「下準備? 馬車ですか?」
「そうだ。どうせ、何事もなく済むはずがない。多少の小細工は必要だろう。リンはすでにあちらに向かわせた」
それで姿が見えないのだ。せっかく帰って来てネストリュートのそばにいられると浮かれていたのに。
ただ、そのネストリュートの命令では従うしかない。
「何かが起こる、と。また、兄上様方ですか? それとも、この国のレジスタンスですか?」
「さあな」
この主には、敵が増える一方だ。面倒だな、とティエンは嘆息した。
ゆっくりとハルトビュートと紅茶を飲める日が恋しかった。




