〈12〉誰かの陰謀
本日も主――ネストリュートはティエンを室内に残し、官僚とどこか別の部屋で話していた。
正直に言うと、その方が嬉しかった。ネストリュートと一緒にいる人々に同情したくなるくらいだ。主は存在するだけで人の心に波風を立てる。あの存在に慣れているのは、ほんのひと握りの人間だけだ。
その最たる存在は、ネストリュートの弟君である。才走り、頼られもするが、疎まれもするネストリュートを、ただひたすらに尊敬し、兄のためにと付き従う人。
もうすぐだと思えば思うほど、迎える時にはどんな顔で臨めばいいのだろうかと、毎日そんなことばかり考えてしまう。
待ち遠しいけれど、待っているこの時間が幸せだった。
そんな優しい時間は、またしても主によって遮られる。
「ティエン、また紅茶か。お前も好きだな」
「ネスト様がお留守だと、特にすることもありませんし」
しれっと答える。ネストリュートはいつものようにティエンの正面に座った。
「そうだな。ここは退屈なところだ」
「外のことは知りません。この空間は平和でしたけれど」
そう言って紅茶を飲もうとしたが、すでにカップは空だった。仕方なく、持ち上げたカップを下ろす。
すると、計ったようなタイミングでドアがノックされた。
「許す。入れ」
ネストリュートの澄んだ声が飛ぶ。失礼いたします、と妙齢の女性の声が返った。声の主である侍女は、ティーセットのそろったカートを押して室内に入る。
「先ほど紅茶をお持ちしてから時間も経ちましたし、王子殿下もお戻りになったようでしたので、新しいものをご用意させて頂きました」
「気が利くな。丁度、呼ぼうとしていたところだ」
ネストリュートの言葉に、侍女は極度の緊張を感じている風だった。無理もない。
カタカタと僅かな、茶器の触れ合う音を立てながら、侍女はテーブルの横にカートを止める。使用済みのカップを提げ、湯気を昇らせながら、新しい空のカップに紅茶を注いだ。琥珀色の液体が白磁の器に満たされる様子を眺めつつ、鼻腔をくすぐる紅茶の香りをかいだ瞬間、ティエンはがっかりした。
小さく嘆息すると、ネストリュートに目を向ける。それだけで、主は察するだろう。
震える手で侍女が差し出した紅茶を、ネストリュートはにっこりと微笑んで突き返した。
「せっかくだ。まず君に飲んでもらおうか」
「え?」
「私は、毒見もせずに飲食をする習慣がなくてね」
柔らかな口調。
けれど、射るようなその視線から、彼女は逃れられなかった。ガタガタと震え、テーブルの縁にカップを落とした。
カップは甲高い音を立てて粉々になり、紅茶色の染みが純白のテーブルクロスに染みて行く。
「も、申し訳ございません!」
侍女は瞬時に後ろに退き、額を絨毯に擦り付けてひれ伏した。それでも、ネストリュートは冷静にティエンに問う。
「ティエン、カップか紅茶か、どちらだ?」
「紅茶です」
迷わず答える。紅茶の繊細な香りの中に、僅かな臭気がある。常人なら気付かぬ程度の微細なものだ。
ネストリュートは軽く笑った。
「残念ながら、ここにいるティエンは人並みはずれた五感の持ち主だ。お陰で、暗殺をよく免れることができて助かっている」
それが、ティエンが常にネストリュートのそばに控えている理由である。
ネストリュートの危機を察知すること。それがティエンの役目だった。
彼は立ち上がると、侍女を見下ろす形で問う。
「それで、誰の指図だ?」
「お、お許し下さい! 私はただ、脅されて仕方なく……」
がたがたと震えている。緊張していることだけは事実だ。空気の振動が、ティエンに真実を伝える。
「嘘をつくと、空気の流れが変わります。あなたは比較的上手ですけど」
そのつぶやきに、侍女は顔を上げると、カッと目を見開いてティエンを見た。そして、その口がゆっくりと動く。声は出なかったけれど、その口の動きだけで十分だった。ただ、その言葉と、向けられる感情にはすでに慣れている。
侍女は激しく、それでいて暗い表情をネストリュートに向けて立ち上がり、茶器を乗せてあったカート上のナプキンの下から抜き身のナイフを取り出した。けれど、その手首をあっさりとつかみ、ネストリュートは容赦なく彼女の間接を外した。悶絶して床に転がる侍女を、彼は冷ややかに見下ろしていた。
「どうせ、兄上方だろう。誰であろうと、構わぬが」
ティエンは嘆息する。
「この国に滞在中にネスト様を葬り去ることができたなら、この国のせいにできますから。狙われるとわかっていながら、ノコノコやって来たネスト様が悪いかと」
「まあ、そう言うな」
暗殺者をそのままに、ネストリュートはクスクスと笑っている。この状況で笑うのかと、暗殺者の方がぞっとしていた。彼女も、死を覚悟したことだろう。
けれど、ネストリュートの下した決断は、すべてをなかったことにするというものだった。
式典を控えた今、問題が起こるのは好ましくない。迎賓館の中で箝口令を敷き、事実を葬った。
暗殺者の侍女は適当な罪状で投獄されたが、王族暗殺未遂とは比べようもない微罪である。
迎賓館では、ことを荒立てずに対処することを許したネストリュートに対し、深い感謝と敬意をもって接するようになった。頭の固い古株の官僚たちも、もしいずれこの国がレイヤーナに呑まれても、彼ならこの国を導いてくれるのではないかと、そんな気にさえなっていた。




