〈7〉ネストリュート
この国には三つの港がある。
ひとつは、アスフォテ。スレディの工房のある町だ。まだひと月程度しか経っていないのだが、レヴィシアが拘束された場所であり、あまり近寄りたい場所ではない。
もうひとつは最も王都に近い、ゴルドという町。そして、最後のひとつが、東端にある町、エトルナだ。レイヤーナに最も近い港ということになる。迎賓館も設けられている町なので、外国船をそのまま受け入れ、来賓が滞在することの多い場所だった。
ここもあまり近寄るべきではない場所と言えるが、大使が滞在中の今回ばかりは、下調べとして潜入は必須だ。
ザルツとプレナ、二人のいた部屋に、寝ぼけ眼のサマルがやって来た。情報収集に忙しく、昨晩も遅くなり、昼近くになってようやく起き出して来たのだ。
ザルツはいきなり本題に入る。
「サマル、報告は?」
サマルはプレナが取り置きしてくれてあったライ麦パンをかじりながら、ザルツを見遣る。口の中身をミルクで押し流し、ようやく喋り出した。
「うん、ついに来たかってところだな」
その一言に、ザルツも表情を引き締めた。
「式典も派手なはずだ。なんて言っても、大使は王族だからな」
「そうか」
返答は素っ気ないが、そのつぶやきにはいろいろなものが収束されていた。サマルは更に続ける。
「レイヤーナ王国の第五王子、御歳二十八歳のネストリュート=イル=レイヤーナ――」
それが、レイヤーナ大使の名だった。
サマルのカップにミルクを注ぎ足していたプレナが、手を止めて不思議そうに言った。
「第五王子? 王太子でもなくて、五番目? レイヤーナにとって、この国の価値はその程度なのかしら?」
いくら王族とはいえ、第五王子だ。よほどのことがない限り、王太子となることもない。言わば、あぶれた人材だろう。手の空いていた者を差し向けられた。プレナはそう感じたようだ。
そんな妹に、サマルはかぶりを振ってみせる。
「まさか。その逆だ」
「え?」
「ネストリュート王子といえば、レイヤーナ国内で絶大な人気を誇る傑物だ。文武両道、冷静沈着、容姿端麗、嘘みたいな冗談みたいな人物だよ」
ザルツも嘆息する。
「俺も、噂で聞いたことがある。王位に就くことはないかも知れないが、間違いなくレイヤーナの今後を左右すると言われている存在だ」
困惑するプレナに、サマルは苦笑した。
「できれば、この国には関わってほしくない相手だよな。ほんとは、下手な手出しもしたくないんだけど」
ザルツは静かに腕を組むと、押し殺したような声を出した。
「それでも、何事も仕掛けず、ただ式典を見過ごせば、この国はレイヤーナを受け入れると受け取られても仕方がない。困難は承知で、それでも今回は動かなければならない」
「そうだなぁ」
仕方がない、とサマルもうなずく。
そこでザルツは、二人に向けたのか独り言なのか、判別のできないような声をもらした。
「――困難は予測されるのに、レヴィシアはあの調子だ。ここに来て、結束に不安があるなんてな」
プレナはとっさに、ソファーに腰かけるザルツの正面に回り込んだ。ザルツが目を向けると、プレナは少し怒っているようにも、困っているようにも見えた。
「それでも、ザルツが直接レヴィシアに怒っちゃ駄目よ」
「何?」
「あの子なりに苦しんでるの。頭ごなしに叱らないでいて」
女心なんてわからないくせに。暗にそう言われている。
否定はできなかったが。
「個人的な事情は持ち込むべきじゃないとは思うが……そう割り切れるタイプじゃないとわかっていて、リーダーに据えたのも事実だからな。もう少しだけ様子を見るか」
その言葉に、プレナはほっと胸を撫で下ろす。
個人的な感情を抜きにしたら、そもそも誰もレジスタンス活動などしないのかも知れない。感情が、想いがあるからこそ、必死でここまで来られたのだ。都合の悪い時だけ切り離せとは言えない。
ザルツ自身でさえ、できなかった。
一人の女性のために、一度は国の行く末も組織の仲間も、自らの命も放棄しようとしたのだから。
厄介なものだと思う。けれど、それを制御できるようにならなければならない。
選べるものはひとつだから。
※※※ ※※※ ※※※
レヴィシアは、宿に戻るには勇気を振り絞らなければならなかった。けれど、いつまでも逃避しているわけにも行かず、恐る恐る足を踏み入れる。絶対に、ザルツは目をつり上げて怒ると思った。
ところが、廊下で鉢合わせた彼は、表情ひとつ変えずに眼鏡を光らせて言った。
「レヴィシア、ユイ、打ち合わせをしたい。部屋まで来てくれ」
「あ、うん」
少し拍子抜けした。けれど、同時に助かったとも思う。レヴィシアは背後のユイを一度だけ見上げると、そのままザルツの後ろに続いた。
ザルツの部屋に呼ばれていたのは、ルテアとサマルとプレナだけだった。シーゼの姿がなく、そのことが気になったけれど、訊けなかった。それでも、そんなレヴィシアの心情など見通しだったらしく、ザルツは言った。
「シーゼなら、用を頼んだ。今は隣のエイルルーに向かっている」
何も答えられず、レヴィシアは黙ってソファーに腰かける。正面のルテアも気遣わしげに見えたけれど、気付かない振りをしてやり過ごした。
ザルツはサマルのつかんで来た情報を皆に話す。初めて耳にする名前なのに、その名はレヴィシアの奥深くに刻み込まれた。
「ネストリュート……王子……」
シェーブル国王はすでに崩御し、レイヤーナ軍と言っても、これまでは、天辺の見えないおぼろげな相手と戦っているようだった。それが、今になって初めて、明確な形を現した気がした。
胸の鼓動が強くなる。それを感じながら、レヴィシアは震える唇で問う。
「式典は王都……でも、王子は今、エトルナに滞在してるんだよね?」
「ああ。俺もそこまで足を運んだわけじゃないけど、迎賓館にいるって噂だ」
サマルが答えると、レヴィシアは力強くうなずいた。
「じゃあ、あたしがエトルナに行って来る」
その場の誰もが凍り付くような発言だった。
「レヴィシア!?」
ルテアが難しい顔をして問い質そうとする。それよりも先に、レヴィシアは口を開いた。
「そのネストリュート王子を、ひと目でいいから見ておきたいの。相手を知らずに戦うわけには行かないじゃない」
言いたいことはわかる。けれど、それはひどく危険なことだ。
賛成しかねるメンバーたちに、レヴィシアは更に強い口調で言った。
「王子はどんな人なのか、あたしは知りたい。何を思ってこの国に来たのか、この国がどうあるべきだと思うのか。それから、何を一番大切にする人なのか……自国の民か、すべての人か、自分自身か。それによって、今後のシェーブル国民が左右される。そうじゃないの?」
ザルツはとっさに、言葉を返すことを忘れた。
時折、驚かされる。感情的だと思えば、こちらがハッとするような部分も持っている。
ただ、敵だと見なし、退けるだけが戦いではない。争いを回避する術があるのだとしたら、それに全力を傾けることこそ、本当の戦い方であるのかも知れない。
エトルナに行ったところで、会えるとも限らない。話なんてもちろん無理だ。
それでも、近くに行けただけで感じることはあるのかも知れない。それは、無駄足などではない。
「……そうだな。確かにお前は知らなければならない。同時に、それは俺たちにも言えることだ。俺たちは、知らなければならない」
ザルツは意識せずに微笑んでいた。
思いがけない相手の賛同に、レヴィシアは少し驚いていた。ユイとルテアはレヴィシアが危険にさらされることに不満げだったけれど、止められないこともわかっていた。
「じゃあ、明日、ユミラ様が合流したら出発だ」
サマルがまとめる。それぞれに心中は複雑だったけれど、とりあえずは皆うなずいた。




