〈5〉不安だから
走るというほどではなかったけれど、極力早足で宿から離れた。レヴィシアは必死だが、ユイはそんな彼女を眺め、悠然としている。レヴィシアは勢い余って人にぶつかりそうになり、何度か謝りつつ、目指す場所もないくせに先を急いだ。
ユイはどこに行くとも尋ねない。引かれるままに歩いている。
不意に不安になって、レヴィシアは振り返った。ユイはそんなレヴィシアの心境に気付いているのか、そっと微笑む。
迷惑がっているかも知れない。けれど、それを表には出さない。気が済むように付き合ってくれている。
その笑顔に、ズキリと胸が痛んだ。
逆らわないと知っているから、わがままに振舞える。ずるいのはわかっている。けれど、不安が何にも勝っていた。
レヴィシアはユイの隣に回り込み、すがるように腕にしがみ付く。泣き出したくなる気持ちを抑えるのに必死だった。
「どこにも行かないでね……」
喧騒に消されてしまうような声だったけれど、ユイはそれを確かに拾った。そして、自由になる方の腕で、レヴィシアの頭をそっと撫でる。
「レヴィシアがそれを望む限り」
ユイにとっては、自らが殺めた命との最後の約束だ。
何を捨てても、守ってくれる。疑うわけではないけれど、それでも拭い去れない気持ちにさせるのは、シーゼの存在が眩しすぎるから――。
※※※ ※※※ ※※※
エディア=メデューズは、父の言葉に耳を疑った。
「お父さん、今、なんて……」
エディアの父、ロイズ=パスティークは、不自由な脚をさすりながら、穏やかな顔で言った。
「私はリレスティに残ると言ったんだよ」
ロイズは以前、レジスタンス組織を立ち上げ、活動をしていたのだが、それがもとで投獄され、その時に受けた拷問のため、足の自由を失ってしまった。組織はそのままレヴィシアに預け、今では後方に控えている。ロイズという名も偽名なのだが、組織ではすでに本名よりも通りがよいので、未だにそれを名乗っていた。
「どうして急に……」
すると、ロイズはかぶりを振った。
「急じゃないんだ。以前からずっと考えていた。リレスティは、領主クランクバルドとの繋がりができたお陰で、我々にとっては安全になった。ここなら、私を残して行っても、皆が不安になることはないだろう?」
この先、激しい戦いが予想される中、足手まといにしかならない自分を、ロイズは理解していた。連れ回すことに対し、皆が申し訳なさそうにする様子も、当人にとっては周囲が思う以上につらかったのかも知れない。エディアも、それを薄々は感じていた。
だから、いつか組織から離れることも覚悟はしていた。けれど、いざそうなってみると、答える声に覇気がなくなってしまう。
「わかりました。私も残ります。身の回りの世話をする人間が必要でしょう?」
すると、ロイズは娘の目をまっすぐに見つめた。
自らが家を空け、その後で病み付いた母親を一人で看取らせた娘に、彼は常にやましさを持って接していた。だから、これほどまでにまっすぐな父の眼差しに、エディアの方が戸惑ってしまう。
「その必要はない。それは、お前の望みではないはずだ」
穏やかな声だった。けれど、エディアはひどく落ち着かなくなる。
「必要がない? 望み? ねえ、放っておけるはずがないでしょう?」
それでも、彼の決意は固かった。
「お前なら、わかるはずだ。今、真にお前のことが必要なのは、私なのか、彼女たちなのか」
その一言が、エディアを導く。
あの日、初めて活動を目の当たりにし、あの凄惨な光景に叫びを上げた。
あんなことを許してはいけないと思った。
けれど、今になって思う。
あの時、彼らを否定した自分は、あのまま過ごしていたらどうだったのかと。
きっと、安全な場所で、争いを厭い、消え行く命を嘆いていた。
けれど、それは何もしないでいるということだ。
否定はたやすい。
ひどいと叫ぶことなんて、誰だってできる。
あの時の叫びと、今の自分との矛盾をどう埋める。
自分は何のために、何を目指すのか。
もっと明確に、確かなものとして前に進みたい。
みんなを支えたい。力になりたい。
それを、ロイズは見透かしていた。
そうして、ぽつりともらす。
「それから、私の願いを――」
父の願いもまた、エディアには知り得た。しっかりとうなずくと、エディアは父の視線を受け止める。その決意を伝えるために。
「わかりました。では、私はレヴィシアさんたちと共に行きます。お父さんの無念……私が引き継ぎます」
体が思うように動かず、消えかけた憂国の心。
レジスタンスの仲間たちに、王にと望まれ、一人ですべてを背負ったつもりになっていたと語った。そうではないと、国の未来は皆で背負うのだと、レヴィシアが再び照らし、火を灯してくれた。
それでも、再び希望を抱いたからこそ、荷物にしかなれない自分が歯がゆく、きっと人知れず涙したことだろう。どんなに嘆いても、再び戦える体には戻れない。
いつもその体を支え続けたエディアだからこそ、その震えを我がことのように知っている。
「ありがとう」
力強い眼差しの娘に、あふれる気持ちの中から、それ以上の言葉を探せなかった。そんな彼に、エディアは笑った。
「でも、必ず元気で戻るから。心配しないでね」
この芯の強さは、母親譲りだ。いつだって笑って送り出してくれた妻のように、笑っている。
ロイズは微笑み返しながら、頬が濡れた理由を考えた。




