〈42〉運否天賦
ユーリは、ぼうっと青い空を見上げていた。隣には、それを見守るリトラの姿がある。
二人は列に並び、順番を待っていた。シェーブル王国東部にある港町へ向かうため、このセベレス大橋を抜けるための関門にいる。通行税のかかるこの大橋は、同時に身分証明も必要となるが、二人は旅行者であり、目印となる手首の腕輪がある。そう丁寧に調べられることもない。
順番が巡って来た。
リトラはコートの懐から身分証明書を提示する。関門の兵士は、それに目を通した。
「リトラ=マリアージュと、その妻ユーリ。スード皇国出身か。……何も新婚旅行にこんな物騒なところに来なくたっていいのにな」
けれど、ユーリは張り付いた笑顔のまま、何も答えなかった。多分、それについて何も喋りたくないのだろう。
「こいつがどうしてもと言うもので」
リトラは通行料の紙幣を手渡すと、偽の身分証明書を受け取った。そして、堅牢な造りの真新しい大橋に向けて、二人は歩き出す。
「ここまで来れば、あいつらは来ないな。それにしても、期限ギリギリだ。時間の無駄だ」
そう、リトラがぼやくと、ユーリは強い眼差しでリトラを見上げた。
「あのね、これは私たちにとって必要な寄り道だと言ったじゃないか」
「必要? 何が? 友達ができたとか、いい体験をしたとか言うなよ」
すると、ユーリは大きく嘆息した。
「君は随分おめでたいことを言うようになったね。私が、彼女たちを助けたい一心で、貴重な時間を割いて手伝ったと本気で思っていたの?」
「は?」
リトラは思わず声をもらした。そんな彼に、ユーリは不敵に笑う。
「今回、なんと言っても、私がこの国の有力者、クランクバルド公爵に単独でお会いできたことは、今後の『我が国』にとって、大きな意味を持つよ」
この時点になって初めて、リトラはユーリの思惑の一端を知り得た。
「お前の目的はそれか……。最初から、お前は自分がこの国の有力者に会う機会を作るために動いていた。ただし、レジスタンスのためというより、『こっちの事情』のために」
「彼女たちのような力のある組織と公爵を結び付けたかったのも事実だよ。この内戦を一刻も早く終わらせることが最大の目的だし。この国がいつまでも不安定であってはいけないんだ。諸島の均衡は、このままでは保てない。そうなった時、真っ先に危うくなるのは『我が国』だからね」
ユーリがただ一人で動いたとして、限られた日数で公爵のもとへ辿り着けた可能性は低い。だから、それを可能にするべく、レジスタンスと共に動いたのだ。
「お前が俺にだけ、クランクバルド邸には立ち寄るな、身分は高めで人間性に問題のありそうな貴族のもとに滞在しろとか、わけのわからない指示を出したのは、最初からリッジへの対策だったんだな。そうなると……もしかしてあの時、レヴィシアが宿を抜け出してクランクバルドの屋敷へ向かったのは、お前が仕向けたのか?」
と、リトラはひとつの疑惑を口にする。それに対し、ユーリはあっさりとうなずいた。
「そうだよ。そうなるように誘導した」
「あいつに何かあったら、そこで終わりじゃないか。随分運任せだな」
「時間がなかったからね。それさえあれば安全策を取ったけれど、時には大胆さも策には必要だから」
平然と言ってのけるから、リトラは思わず嘆息した。それでも、ユーリは微笑む。
「彼女にはね、リーダーとしての素質がある。それは、人心と運命を引き寄せる力だよ。私は彼女が、事態を好転させると信じて賭けたんだ。あの強力なカードをしまっておくなんて、宝の持ち腐れだからね」
緻密な策を練ることよりも、その思い切りが常に恐ろしい。この決断力が、いつもユーリの力であり、いつか自らの身を滅ぼすのではないかという気がしてならないから、不安になる。
「リッジはレヴィシアに危害を加えるつもりはないみたいだし、そういう意味で言うなら、あいつが一番、一人歩きの危険が少なかったわけか……」
すると、ユーリは意外そうな顔をした。
「なんだ、よく気付いたね。そう……それができたら、彼はもっと手強くなるんだけれど、そうしたくない気持ちが残ってるんだね。彼だって、人だから。そう割り切れるものでもないよ」
気持ちが割り切れるものではないと言いながら、割り切ろうとするくせに。なんとなく、ほろ苦いものが口の中に広がるようで、リトラは会話の流れを変えた。
「……それで、あの公爵に俺たちの事情を話したんだな。まあ、権力者の一人くらいには知っていてもらった方が、今後楽になるのは確かだけどな」
「一人じゃないよ。二人だ」
「二人?」
「そう。君のせいでね」
「は?」
ユーリはあきれたような目をした。その理由が、リトラにはまるでわからない。
「ザルツさんだよ。あの時、君があの本を彼に見せてしまった。その時点で、彼には私たちがどこから来たのか、わかってしまったはずだ」
「あの本?」
藍色の表紙を思い浮かべる。ユーリがザルツに譲ったあの本の題名は――。
「あれ、じじいが昔書いた本だろ?」
その敬意も何もない一言に、ユーリは目くじらを立てた。
「私の敬愛する先生に、なんてことを言うんだよ!」
『メトローナの河』の著者、ラスタール=メトローナ。
リトラは、じじいで十分だと思う。
「あの本は十三年前に先生が書き直され、発刊された完全版だ。本来なら、この国にあるべきものじゃない。『我が国にしか存在しない』はずのもの。国外に持ち出すべきではなかったけれど、お守り代わりにと先生が私に持たせて下さったんだ。あの本の持ち主がどこから来たのか、ザルツさんは気付いていた。けれど、口にしないでいてくれたんだよ」
「…………」
このブルーテ諸島の中央に位置し、三十年もの昔に鎖国した小国家アリュルージ。それこそが、二人の祖国である。
鎖国状態は今も続いており、こうして国外に人が派遣されたためしはない。だからこそ、二人は秘密裏に動いている。
開国を検討するための調査の旅。
その道中に、クランクバルド公爵のような要人と知り合えたのだから、その利は大きい。
ユーリにとっては、それも計算の上でのことのようだが。
「まあいいよ。彼は今後も他言しないだろうし。もし、改革が成功した時、ザルツさんは重要な位置を占める人になるかも知れないからね」
色々なことを考え、先を見据えるユーリは、時折見ていて苦しくなる。
抱え切れないほどのものに押し潰されたりはしないだろうかと。ユーリが支える手を必要としなくても、今後、自分に手を差し出す自由はなくても、見守ることだけは許してほしい。
そんな視線に気付いたユーリは、逆にリトラをにらみ付けた。
「言ったはずだよ。私は子供じゃないって。自分の決断で人を傷付けたとしても、それを私は受け止めるから。泣いたりなんかしないよ」
それが真実か、強がりか、見抜かせようとしない。そんな姿勢を、リトラはただ崩してやりたくなった。横を歩くユーリの腰を引き寄せ、その耳元で低くささやく。
「この前はビービー泣いてたくせに。そんなやつが、子供じゃないって?」
その途端、ユーリは先ほどまでの落ち着きが嘘のように、ヒッと小さく悲鳴を上げた。腰に回った手を剥ぎ取ろうと必死にもがいている。そのゆとりのない顔に、リトラは笑った。
「夫婦って『設定』なんだから、そう見えるようにしろよ」
「うるさいな! 夫婦げんかの真っ最中って言えばいいんだよ!」
大橋を行き交う人々が、二人のそんな姿を横目で見遣る。けれど、リトラはまるで気に留めた風ではなかった。
「ほら、俺たちにはまだまだやることがあるんだ。急ぐぞ」
ユーリが大きく嘆息する音がした。
「……わかってると思うけど、今回のことはあちらでは内緒だからね」
「ああ。レイヤーナ行きの船、ちゃんと出てるんだろうな?」
「関係者の行き来があるんだから、それは大丈夫……って、いい加減に放してよ」
「嫌だ」
その一言と一緒に更に体を引き寄せると、ユーリはまた目に見えてうろたえ出した。
「何それ! 嫌とか言って済ませないでよ! 嫌で済むなら、私だって嫌だよ!!」
放せ放せとわめくユーリを満足そうに見下ろし、リトラはクスクスと楽しそうに笑っていた。
こんなじゃれ合いも、もうすぐ終わってしまうとしても。
色々なことがあったこの国に、再び足を向ける日が来るのかはわからないけれど、その頃には今回のことが無駄ではなかったと思えるだけの成果を見せてもらいたいものだと思った。
そうしたら、ユーリはきっと喜ぶだろう。
どんなに理屈を並べ、利害を説いたところで、彼女を動かした理由のひとつは、あの組織の面々を助けたいと思ったことなのも事実だ。本人は、認めたがらないだろうけれど――。
第三章、終了しました。
ザルツはいわゆる『秀才』。少し頭のよい『民間人』だと思って書いています。軍事関係者でもありませんから、読みの浅さも甘い考えもたまにあります。ユーリは、彼の一段上の存在です。
ただ、公的なことにはどこまでも冷静な彼女ですが、私的なことにはめちゃくちゃ動揺します。両極端なんですね(笑)
ちなみに、第二章後半のユーリのセリフの欠落した部分は、○○のトップシークレットなので、ユーリは秘密にしたまま去ります。誰にも言いません。次章で明らかにはなります。
では、お付き合い頂きありがとうございました。




