〈37〉暗殺者
ヘイマン邸前でそんな捕り物が行われる少し前、ルースケイヴ邸の主の部屋で、ルースケイヴは今日届いたばかりの手紙を開封していた。美麗な装飾のペーパーナイフを慣れた手付きで動かし、中の手紙を傷付けないように開く。
内容に目を通すと、日常的に催されるパーティーの招待状だった。
これから忙しくなるというのに、のん気な連中だ、とルースケイヴは鼻で笑った。
そんな時、背後に風を感じた。窓は締め切っている。ルースケイヴは不審に思って振り返った。振り返ろうとした。
けれど、のどにぴたりと当てられた、ぞっとするほどに冷たい硬質なものに動きを止められた。それから、ゆっくりと侵入者の指の感覚が加わり、のどを圧迫する。その指は、顎に張り付いたかのように動かない。
ルースケイヴの体中の筋肉が硬直した。それでも、彼のどこか冷静な部分が、こんな状況を分析していた。
首を回すことはできないけれど、何者かに刃物を突き付けられていることだけは理解する。その人物は、想像以上に若い声で言った。
「これは私怨ではありませんが、あなたが悪いのですよ」
背中にまだ風を感じた。どうやら、侵入者は窓からやって来た。私兵はあっさりと侵入を許したらしい。これは厳罰ものだ。解雇処分だ。そう思う反面、この最上階、しかも日の高いうちに進入するなど、誰も思わなかったかも知れない。
ルースケイヴはうめくような声しか出せなかった。けれど、諦めてはいなかった。
自分が死ぬことなどないと、どこかで信じていた。運は自分に向き始めている。それを確信した今だからこそ、助けが来る、と。
そして、ドアの向こう側からノックする音がした。
「ルースケイヴ卿、少しよろしいですか?」
リトラ=マリアージュだ。
彼にとっても自分は必要な存在だ。ルースケイヴはその希望にすがり、彼が室内に踏み込んで来る時を待った。
暗殺者はぴくりと指先を動かしたが、刃物を下げる気はないらしい。
ルースケイヴの望み通り、リトラが扉を開けた。そして、彼の表情に張り付いた緊張を、ルースケイヴは確かに見た。
「は、早く、たすけ――」
思った以上にみっともない声しか出なかった。後で笑われるかも知れないが、それくらいは許す。
リトラはいきなり踏み込むこともできなかったのか、腰に佩いている幅広の剣の柄を握りながら、ルースケイヴを通り越して暗殺者を見据えた。
「また出たな」
その一言に、暗殺者はクスクスと場違いに笑った。
「お互いさまだよ。君こそ、首を突っ込まないでくれないか?」
「顔、痣になってるな」
と、リトラは親指で自分の口の端に触れた。途端に、暗殺者の声が尖る。
「誰のせいだか」
どうやら、二人は顔見知りのようだ。けれど、それがどういうことなのか、考えることはできなかった。
「卿をどうするつもりだ?」
「それは愚問だね。この状況ですることはひとつだ。この距離で、君に僕は止められない」
暗殺者が言うように、リトラが一歩踏み込むと同時に、ルースケイヴは頚動脈を掻き切られて果てるだろう。
今になってようやく、ルースケイヴはことの重大さに気付いた。ヒィヒィと歯の隙間から息をする。
死が迫った。死神の鎌に捕らわれた自分を救える者はいないのだと、恐怖から涙が流れた。
「頼む。卿を助けてくれ」
リトラは剣から手を放し、暗殺者にそう懇願する。情に訴えるしか術がなかったのだろう。
そんな手段が通用する相手でない。それでも――。
暗殺者は、この高慢な貴族の男を屠るのに、なんのためらいもなかった。
「断る」
短く鋭い言葉と共に、ルースケイヴののどから赤い飛沫が上がった。本人は痛みすら感じることなく逝ったと思われる。それだけが唯一の救いだろうか。
暗殺者は素早く身をひるがえし、血の一滴すら被ることはない。
そして、感じることは何もなかった。悲しみも、喜びも、何もない。
リトラはその鮮血が絨毯に染み込むさまを見守り、それから小さくつぶやいた。
「哀れなやつだな」
その一言は、暗殺者である彼が何よりも厭う言葉だった。彼は漆黒の眼をつり上げ、リトラを見据える。
「哀れ? この状況で言うことがそれとはね」
すると、リトラは苦笑した。その表情に、暗殺者は違和感を覚える。そんな彼に、リトラは続けた。
「じゃあ、言い換える。愚かだ」
この時、彼は自分のしたことの意味を考え始めた。けれど、結論が出るのをリトラは待ってくれなかった。追い討ちをかけるように言う。
「やっぱり、お前は馬鹿だよ。なあ、リッジ――」
「気安く呼ばないでくれないか」
精一杯の殺意を込めて、リッジは返した。けれど、リトラは怖気付くこともなく、口の端を持ち上げていた。
「じゃあ、シュティマと呼ぶべきか?」
「っ!」
その一言で、自分が踊らされていたことを知った。込み上げて来たのは、憤りよりも虚しさだったのかも知れない。
リッジは渇いたのどで、気付けば笑っていた。その音を、リトラは遮ることなく聞いている。その表情から彼の心を読み取ることは難しかったけれど、リッジは彼を斜めに見遣った。
「利用しているつもりが、逆手に取られたなんて、確かに愚かだな」
リトラは小さく嘆息する。
――ユーリの手紙に、すべてが書き記してあった。
前回のプレナの拉致に始まり、どこかからリッジへ組織の情報が漏れていると察したユーリは、まず新参のゼゼフを疑った。そして、シュティマの存在を知る。
ユーリは、なんでも親友に話したがるゼゼフの性格を把握し、逆に偽の情報をつかませた。協力者には、ルースケイヴ卿がなって下さる、と。リトラとザルツがあの屋敷から動かないでいるのは、そういうことだと。
そうすることで、クランクバルドにリッジが向かうのを避けさせた。そして、クランクバルドがレジスタンスと接触したと噂になった時、ルースケイヴのような野心と影響力を持つ人物が健在であると、厄介なのだ。要するに、リッジを利用して消すという決断を、ユーリは下した。
そして、もうひとつの目的のため、ここからが肝心なのだ。まだ、終わりではない。
「そういう意味で言ったわけじゃないけどな」
リトラは嘆息すると、剣を引き抜いた。リッジは外套の懐に手を差し込み、短刀を取り出す。暗殺用の刃だけでは分が悪いと覚悟した。
お互いに、油断をすれば首と胴が離れる。
先に動いたのはリトラだった。不規則で、速く重いその一撃を知るからこそ、リッジに刃を合わせて競り合うつもりはない。上手く滑らせて受け流すだけだ。
力で劣るとしても、速さではその上を行く自信がある。
リッジには、この青年を生かしておくつもりなどなかった。
シュティマの正体、お気付きでしたか?
第二章、あのタイミングでリッジがプレナの前に現れた理由は、すぐそこにいたからです。ようするに、ついででした。攫おうと思って狙っていたわけではなかったんですね。
『ある○○の風景』は、推理小説でいうところの叙述トリックをしてみたくて書いていました(笑)
章をまたぐ、長い仕込みでしたが。
こういうのって、小説ならではですよね。
シュティマが風邪だといって大きなマスクをしているのは、リトラに殴られたところが痣になっているのを隠すためでした。それ以外にも、なんとかのらりくらりと組織入りを延ばすため、いつでも風邪だと言えるように、せきをしておいたりとか、リッジは細かい小細工をがんばっていた、と……。
どう見ても密偵とは思えないタイプという理由で、リッジはゼゼフを手懐けて使いました。そのために、いつもゼゼフと芋の皮をむいていたんですね。刃物の扱い上手ですから、速くむけます(笑)




