〈36〉いらない子
「わかってるだろうが、普通に歩け。変な動きをみせたら、ガキの首を絞めるぞ」
レヴィシアは薄暗い屋内で、男をじろりとにらんだ。それくらいで怯むわけではなかったけれど、腹立たしかっただけだ。
「その代わり、リュリュを傷付けたら許さないからね」
男はフン、と鼻で笑う。リュリュは嗚咽を漏らさないよう、小さな体を震わせながら耐えていた。そんな姿が、レヴィシアには痛ましかった。みんなが来たら覚えてろ、とレヴィシアは気を引き締める。
玄関の扉を男は顎で指した。レヴィシアは無言で鍵を外し、扉を開く。しばらく太陽の光とは無縁の生活をしていたレヴィシアは、その明るさに目が眩んだ。
次第にそれに慣れると、眩い風景の中に味方は誰もいない。けれど、多分その辺りに潜んでいると信じた。
レヴィシアは一度振り返る。そんな彼女の背を男は押した。
「横を歩け。後ろに立つな」
意外と用心深い。レヴィシアは言われるがままに、男の隣に並んだ。リュリュは反対側の腕に抱えられており、覗き込まないと顔も見えなかった。
そのまま歩み、鬱蒼とした庭を横目に抜ける。その時、視界の端で何かが動いた気がした。男は気付いていないけれど、あれはシェインだ。赤毛の頭が見えた。レヴィシアはあまりそちらを見ないように気を遣いながら、正面を向く。
男は再びレヴィシアに目で合図する。レヴィシアは錆びた門に手を触れ、それを開いた。そして、周囲を見回しながら外に出る。
外はまばらに人が行き交う普通の日常だった。その人々の大半は、平民である。貴族は往来を歩いたりしないのだと、今回嫌というほど思い知った。
屋敷の右側を、男はレヴィシアに時折視線を向けながら歩き出す。小脇に抱えていると怪しいせいか、男はリュリュの抱え方を変えた。父親が娘にするような抱き上げ方だ。それでも、リュリュの怯え方に変わりはないのだけれど。レヴィシアは仕方なくその隣を歩く。
その抱え方により、リュリュの視線は男よりも高くなった。それがいけなかった。
屋敷の切れ目、角のところに潜んでいた人物と、リュリュの目が合う。他の誰かなら、リュリュは何も言わなかっただろう。けれど、不安と恐怖でいっぱいだったリュリュは、その顔を見て叫ばずにはいられなかった。
「にいちゃま!」
レヴィシアの心臓が、痛いほどに跳ねた。男は身を強張らせ、リュリュの視線の先に体を向ける。後ろ向きになっても、リュリュは体をよじって兄に手を伸ばし続けた。
「にいちゃま!!」
声を嗄らし、おとなしいリュリュが声の限り叫ぶ。それは、痛々しい姿だった。
それまでは耐えていたユミラも、限界だったのだろう。思わず踏み出して応えていた。
「リュリュ!」
それをハルトがつかんで止めた。その傍らにユイの姿もある。
レヴィシアはこんな状態だというのに、安堵のため息をついた。ユイが来てくれたのなら、もう大丈夫だと。
「ク、クランクバルド――」
敬称も忘れ、男は呆然とつぶやく。男はユミラの姿に動揺したけれど、ユミラは息をひとつついて、年齢に似合わない冷静さで言った。
「僕の妹を返して下さい」
「妹? これが?」
そんなやり取りの中、レヴィシアはユイの視線を感じた。その目が何を言いたいのかに気付く。
下手に動くなと、釘を刺されたようだ。仕方なく、黙って成り行きを見守った。
男は次第に人の目が気になり出したようで、急に早口になる。
「こいつに用はない。用があるのはこっちの娘だけだ。この娘が黙って付いてくるなら、すぐにでも返してやる」
その一言に、ユミラはすぐに返答できなかった。ほんの少しの動揺が見て取れる。
「何を言うんですか! どちらもあなたに差し出すつもりはありません!」
いいよと返事をしてくれれば、リュリュは解放されたのに。レヴィシアだけならば、どうとでもなる。真面目すぎるユミラに、レヴィシアは嬉しいけれど苦々しい気持ちも感じた。
そんな押し問答が続く中、周囲の野次馬が極端に増えて来ていることに気付いた。ざわざわと、当事者たちを取り囲むようにして外野がいる。多分、サマルの仕業だろう。故意に人を集めたのだ。
男の怒鳴り声に体をすくめ、兄の困惑する姿を目にし、リュリュは幼いながらに理解した。グズグスと泣くのを我慢しながら、震える声をもらす。
「いいよ、もう。リュリュ、いらない子だから」
「え?」
その一言に、ユミラは呆然とする。けれど、リュリュは堰を切ったように、抱えていたすべてをさらけ出した。
「ママに言われたもん。いらないって。だから、いいよ。リュリュ、もう、たすけてって言わないから」
こんなにも小さな子供に言わせていい言葉ではない。もちろん、言っていい言葉でもない。レヴィシアは、心の底から憤りで震えていた。
けれど、その何倍も苦しかったのは、間違いなくユミラだ。
「違う!! リュリュが来て、僕がどれだけ救われたか、お前が知らないだけだ! 誰が要らないなんて言おうとも、僕が全力で否定してやる! お前は要らない子なんかじゃない! 僕の大事な妹だ!」
普段の優美な装いも、年齢に似合わない落ち着きもかなぐり捨て、ユミラは悲痛な声で叫んでいた。赤くなった目から涙がこぼれ、それでもユミラは苦しげに歪めた顔を拭わなかった。ただ必死で叫び続ける。
「だから、がんばれ! 絶対、助けるから!!」
ここを突破できたとしても、結局はあの家に帰らなくてはならない。そうしたら、二人は一緒にいることはできないかも知れない。
そうだとしても、こんなにも必死に、自分を大切だと言ってくれた叫びを、リュリュは生涯忘れることはないのだろう。
そんな人と出会えたことで、リュリュは間違いなく強くなれた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、力強くうなずく。
男は、自分をそっちのけで繰り広げられる兄妹愛に、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
子供を盾にしてルースケイヴのところへメイドを連れて行くつもりが、クランクバルドの不興を買うことになる。しかも、気が付けば人だかりで逃げ場もなくなっていた。
考えがまとまらず、ただ脂汗をかき始めた男に、前に出て来たユイが涼やかなよく通る声を響かせて告げる。
「あなたはヘイマン卿と共に人身販売を繰り返した。この場で言い逃れなど無意味だ。おとなしく人質を解放してもらおう」
妙に芝居がかった口調だな、とレヴィシアは思った。そこでなんとなく、言わされているのだと気付いた。多分、彼女に。
ユーリに、人攫いは民衆にさらした後で捕らえるようにと指示を出されたのだろう。陰で裁くのでは、組織の評価に繋がらない。町の人々の支持を得るため、あえて大立ち回りを演じろ、と。
そういえば、最初にそんな話をしていた。勝手に飛び出したレヴィシアは、ユーリの筋書き通りにことが運んでいるのだと安堵した。
ただ、高らかにそう告げられた男は、顔を赤くして憤慨した。
ユイのように整った容姿の、大衆受けのいい青年に正義をかざされると、必要以上に腹が立つのだろう。
「うるさい! 大体、なんなんだ、お前らは!」
男は顔を歪めると、腰に帯びていた剣を抜いた。民衆は悲鳴を上げて少しずつ後退して行く。
ユイも緩やかな動作で剣を抜いた。人質を取られていても抵抗する姿勢を見せたユイに驚きながらも、男はリュリュに剣を向けかけた。
けれど、その時、対峙する二人の間に影が落ちた。ヘイマン邸の囲いから誰かが跳んだのだと理解するよりも先に、その人物は柔らかいひざを使って着地の衝撃を最少に抑え、軽やかに地面に下りた。彼、ルテアは槍を振るい、そちらに気を取られた男は、正面から切り込んだユイに剣を弾き飛ばされた。滑り落ちたリュリュをユイがそのままが抱きとめる。
人質のリュリュを取り戻そうと、つかみかかろうとした男に向かい、レヴィシアはスカートの下のダガーを引き抜く。初めて実戦で使うというのに、驚くほど手に馴染んだ。ピン、と軽い音を立て、光る刀身が現れる。スレディの注意通りに素早くその刃を固定し、レヴィシアは男ののどもとに突き付けた。
ぞっとするほど、よく切れそうな輝きに、男はようやく観念したらしい。
ユイはリュリュを地面に下ろす。恐怖のせいか、ろくに歩けないリュリュは、それでもユミラに向かって両手を伸ばした。ユミラは弾かれたように駆け寄り、小さな妹を抱き締める。その腕の中で、リュリュはようやく普通の子供のように泣き喚くことができた。
「こわかったよぉ。こわかったぁ……」
「うん、うん……ごめんな、リュリュ」
レヴィシアがほっと息をついたのも束の間で、今度は屋敷の敷地内からわめき声がした。
「こら、放せ! 無礼者!」
「うるさい。好きで触ってるんじゃないし」
縛られたヘイマンと、それを引きずるシェインだった。
「そっちも片付いたみたいだな。ほら、これでいいか?」
シェインは民衆をかき分け、へたり込んでいる男の隣にヘイマンを突き飛ばして座らせた。ヘイマンはそれでも往生際が悪い。
「わ、私は何も知らない! こいつが勝手にやったことだ!」
男は鬼の形相で、ヘイマンの胸倉をつかんで揺さぶった。
「なんだと! 俺はお前が指示した通りに動いただけだろ! この気違い男爵が!!」
こうして墓穴を掘り合う二人に、民衆は冷ややかな視線を送りながら遠巻きにささやき合う。そんな中、青年の哄笑が響いた。サマルの声だった。
「貴族が人攫いなんて、聞いてあきれるよ。でも、これで安心できる。礼を言わなくちゃな」
サマルの目が、レヴィシアに締めろと言っている。メイド服ではさまにならないけれど、仕方がない。
レヴィシアはひとつ深呼吸をして声を張り上げた。
「あたしたちはレジスタンス組織『フルムーン』です。今回はこの町で人が攫われ、虐げられていると聞いて動き出しました。あたしたちの目的は、みんなが幸せになれる国を目指すことです。だから、こういった事件を見過ごさずに、みなさんの助けとなれたなら幸いです」
では、お騒がせして申し訳ありませんでした、と頭を下げたレヴィシアに、群集から声が飛ぶ。
「もしかして、あんた、レブレム=カーマインの――?」
レヴィシアはしっかりとうなずく。
「はい。娘のレヴィシアです」
その返答を聞くや、野次馬から割れんばかりの歓声が渦巻いた。その声の質量が、そのまま期待の現れであるのだろう。それに対し、レヴィシアは高らかに手を振って応えた。
その、大歓声が響く熱気の中、ユイは自分の手が震えていることに気付いた。
レヴィシアは、間違いなく人々の希望となる。
その考えに誤りはない。
そう確信することができた。
けれどもし、ユーリが言うように、彼女が志を投げ打つ時が来たとしたら――。
そんな日は来ない。あり得ない。
そう思うけれど、もしそんなことになったとしても、自分はきっと、彼女を守る。
レヴィシアを傷付けることだけはしないでいたい。
それだけは絶対であろうと、この時確かに選んだ。
何に換えても、何を犠牲にしても、レヴィシアを守ろう、と。
体の芯から込み上げる感情に震えるこぶしを、ユイは強く握り締めた。




