〈35〉期限の六日目
「おなかすいた……」
ぼそ、とレヴィシアはつぶやく。
ここに囚われてから、食事は不味かった。調理を必要としない、素のパンとミルクくらいだ。それでも、ないよりはましかと思っていたら、それさえ途切れて随分経つ。腹時計によると、二食くらい抜かれた気がする。次第に、おなかの虫も鳴かなくなった。
自分たちの空腹もだが、幼いリュリュまでがそれに耐えているかと思うと、今まで以上に腹立たしさが増して来た。
怒るとおなかがすくけれど、レヴィシアは勢いよく立ち上がる。
「ドア叩いて抗議してやる!」
そんなレヴィシアの手を、ルテアがつかんで引き止めた。
「もうちょっと待てよ。下手に動くとまずいだろ」
「そうだけど……」
リュリュもシーゼもじっとして二人の動きを目で追っていた。
そんな時、向こう側からなにやら争うような声がした。レヴィシアはルテアの手をすり抜け、ドアに片耳を押し付ける。内容までは聞き取れないものの、それらが段々近付いてきていることだけはわかった。レヴィシアは慌ててドアから離れる。
ヘイマンと用心棒の男がドアの前で口論しているようだ。どうやら、鍵を奪い合っている。
時折甲高くなる怒号の中に、ルースケイヴの名があった。何か、あの伯爵が絡んでいるようだ。
「うるせぇな! だから、餞別代わりだって言ってんだろ!」
「何が餞別だ! 飼い犬に手を噛まれるとはこのことだ! この忘恩のクズが!!」
「あんたがルースケイヴに従わないからだろうが!」
「何度も同じことを――」
ジャラ、と金属音が荒々しく鳴り、鍵を奪った男が施錠を解く。その気配を室内の四人は感じ取り、一箇所に固まると、体を硬くして寄り添った。レヴィシアとルテアは、ここから事態は動き、収束に向かうのだと覚悟する。
「おい、止めろ!」
ヘイマンは男につかみかかるが、細身のヘイマンでは体格差がありすぎる。簡単に跳ね飛ばされてしまった。ヘイマンは石壁で頭を打ち、しばらくの間うずくまっていた。その隙に、男は室内に足を踏み入れる。
フゥフゥと荒く息をする男は、シーゼとリュリュを庇うようにして前に立つレヴィシアとルテアを見下ろし、それから視線をレヴィシアに固定した。
「用があるのはお前だけだ。来い」
そう言ってレヴィシアに手を伸ばしたが、メイドは意外にもおびえておらず、ひらりとその無骨な手をかわした。
「嫌に決まってるでしょ。大体、どこに連れてく気なの?」
見てくれよりも気の強いメイドに、男は苛立ちもあらわに言った。
「つべこべ言うな! とにかく、来るんだ!」
その途端、うずくまっていたヘイマンが男の背後から、通路に落ちていた薪の一本をつかんでその背に叩き付けた。
「ぐっ!」
ヒィヒィと息を吐き、髪は乱れ、ヘイマンはゆとりのない目をレヴィシアに向ける。正気を失いかけているような、焦点の合わない目に、レヴィシアはかえって背筋が寒くなった。
そのヘイマンが何か言葉を発しようとすると、今度は用心棒の男がヘイマンにつかみかかる。二人は床に転げ、もみ合い始めた。
ルテアは素早くシーゼに耳打ちする。
「シーゼ、ここは食い止めるから、リュリュを連れて先に行ってくれ。外には俺たちの仲間がいる。外に出さえすれば大丈夫だから」
扉は開け放たれたままだ。これはまたとない好機なのだ。
丸腰のシーゼは戦えない。彼女はルテアに力強くうなずいた。
「リュリュ、行くよ」
シーゼはその背にリュリュを背負う。リュリュはシーゼの細い首にしっかりと腕を回してしがみ付いた。それを確認し、シーゼはもみ合う二人を避けて走り出す。
けれど、用心棒の男はヘイマンの頭を退けると、近くに落ちていた薪を拾い、シーゼの足もとへ投げ付けた。
「!」
出口を前に、走り抜けることしか頭になかったシーゼは、思いのほか派手に転倒した。リュリュを背負っていたため、受身も取れず、入り口の角でこめかみの辺りからぶつかった。
「シーゼ!」
あのぶつかり方はまずいとルテアが思った通り、シーゼはすぐに起き上がらなかった。脳震盪を起こしたのだろう。一緒に転倒したリュリュは、その衝撃から立ち直ると、必死にシーゼの体を揺さぶった。
「おねえちゃん! おねえちゃん!」
小さな目が、涙でいっぱいになる。
予期せぬ事態に、ルテアの背を汗が流れ落ちた。レヴィシアが駆け寄るよりも先に、男はリュリュの首根っこを捕まえる。
「おい、このガキにけがをさせたくなけりゃ、こっちに来い!」
レヴィシアは、ひとつため息をついた。それから、まっすぐに男をにらむ。
「わかった。行くから、リュリュは放して」
まだ、大丈夫だ。外には仲間たちがいる。レヴィシアが出て行けば、男を囲んで一網打尽にするだろう。レヴィシアは武器を隠し持っているし、なんとかなる。
ルテアはそう、自分を落ち着けた。レヴィシアが一歩進むと、今度はヘイマンが動く。
「きゃっ!」
レヴィシアに背後から抱き付く形で彼女の足を止めた。
「そんな子供、どうとでもするがいい!」
最早、最初に出会った時の紳士然とした面影は微塵もない。血走った眼に紅潮した顔。
ルテアはスッと頭から血の気が引いて行くのを感じながら、ヘイマンの首に背後から自分の腕を絡ませ、締め落とした。白目をむいてヘイマンがその場に滑り落ちると、ルテアは冷ややかに吐き捨てる。
「話をややこしくするな」
男はルテアの行動にたじろいだものの、人質がいることを思い出し、やはり強気に出た。
「は、早く来い!」
レヴィシアは視線をルテアに送る。ルテアもうなずいた。考えは同じだろう。
恐怖で声も出せずに泣き続けるリュリュを小脇に抱え、男はレヴィシアを伴って部屋を出た。後に鍵をかける。戻って来るつもりなどないだろうに。
ルテアはまず、シーゼをベッドに運んだ。状態を確かめるが、呼吸は安定しているし、そのうちに目を覚ますだろう。
そして、次にシーツを引き裂き、床に伸びているヘイマンの両手両足を縛り付けた。それらを終え、ひとつ息をつく。
それから、耳をそばだて、扉の向こうの物音を確かめる。男がすでに階段を上がり、遠ざかった後だと確認すると、ルテアは服の下に隠し持っているパーツを取り出し、瞬時に組み立てた。細い筒状の部品はすぐに短槍に組み上がる。
ルテアはそれを、扉にある小窓に突き立てた。バリン、とガラスの割れる独特の音が響き、破片が床へ落ちて粉々になったけれど、意識のない背後の二人はなんの反応も見せなかった。
それから、サイドテーブルを扉の前に置き、その上に乗って割れた窓から扉の外側を覗く。扉の取っ手にやはり鍵はない。ルテアは仕方なく、槍の柄頭でドアノブを何度もしたたかに打った。
ガ、ガ、と荒い音を立て、ドアノブは扉から外れて床に転がった。ルテアはサイドテーブルから軽やかに下りると、足でドアを蹴破る。バン、とドアが壁にぶつかって跳ね返った。
その音で先に目を覚ましたのはヘイマンだった。
「は!」
身動きが取れないことと、顔を上げた先に佇むルテアが武器を手にしていることを知り、ヘイマンはパニックに陥った。
「な、な、君は――!」
ルテアは嘆息した。
「後から説明してやるよ。だから、とりあえずはそこにいろ。そうすれば、命は助かる」
命は助かるという一言で、ヘイマンは急におとなしくなった。何が起こっているのかはわからずとも、身の危険だけは感じ取れたのだろう。それを確認すると、ルテアは部屋を出て上に向かった。
ユーリの言う、一番望ましい形が今、外で起こっているのだろうか。




