〈28〉低めの可能性
今になって初めて、ユミラはルースケイヴの言葉に疑問を持った。
確かに、ヘイマンは市井のことに詳しい。
目先のことに食らい付いて、冷静さを欠いていた。
けれど、よく考えてみれば、何故ルースケイヴはヘイマンの名を出したのか。
彼が言ったように、ヘイマンが少しでも病んでいたのなら、わからなくはない。眼前のヘイマンの笑顔にまったくの曇りがないからこそ、ユミラは疑わしく思った。
そして、踊らされている自分を自覚する。身分も何も関係ない。自分はただの子供だ、と。
残念ながら、それを認めざるを得なかった。
それでも、ユミラは今できることを探すしかない。
「ルースケイヴ卿があなたを大層心配していらしたのですが、どうやらお元気そうで何よりです」
すると、ヘイマンは上機嫌で答える。
「ええ、ええ。ユミラ様がおいで下さったお陰ですとも。年甲斐もなくはしゃいでしまいました」
ははは、と快活に笑う。ユミラはますますわけがわからなくなった。早くレヴィシアに相談したいのだが、茶を用意しに行ったレヴィシアはなかなか戻って来ない。
彼女は普通のメイドではない。茶をいれるのに手間取っているのならいいが、一人でうろうろと館を探索していたらどうしようか。そんな不安が過ぎる。彼女はあまりに活動的だから。
「――というわけで、ユミラ様、もしよろしければ、今度肖像画を描かせて頂きたいのですが」
「え?」
上の空だったユミラは、ヘイマンの発言が唐突に感じられ、驚いて声をもらしていた。ヘイマンは白手袋の手をひざの上でトントン、と跳ねさせている。
「いえ、ね、趣味程度の私のつたない画力でおこがましいとは思いますが、その優美なお姿を絵にして留めておきたいと、前々から願って止まなかったのです」
熱意のこもった口調だが、話がおかしなことになった。
今はそれどころではない。ユミラは若干強張った笑顔でやんわりと言う。
「それは素敵ですね。けれど、しばらくは時間が取れそうもありません。またいずれということでよろしければ」
その一言で、ヘイマンはぱっと顔を輝かせた。少し赤みの差した頬に、ユミラはなんとも言えず複雑な心境だった。
「もちろん、ユミラ様のご都合に合わせますとも。ああ、今日はよい日だ……」
――早く出よう。それだけを思った。
では、と言ってユミラは立ち上がった。ヘイマンは市井のことに詳しいが、手がかりになるような話はまるで聞けなかった。すぐに話が脱線するのだ。
「本日は急な来訪にもかかわらず、お時間を割いて頂き、ありがとうございました」
「いえ、お恥ずかしながらこのような有様で、ろくなお構いもできずに申し訳ありません」
いつまでも名残惜しそうな目をするヘイマンに、ユミラは苦笑した。
「ところで、当家のメイドは?」
ヘイマンは首をかしげる。
「はて? 茶の支度を頼んで来たのですが、そういえば茶もはいらずじまいでしたね。どうしたのでしょうか?」
「呼んで頂けませんか?」
「ええ、少々お待ち下さい」
そう言って、ヘイマンは下がった。ユミラはその間、嫌な予感しかしなかった。
案の定、戻って来たヘイマンは陰鬱な表情を貼り付けている。そして、おずおずと言った。
「あの、どうやら陶器のティーポットを割ってしまったようですね。我が家にあるものなど、ユミラ様のお宅のものとは比べるべくもない安価な代物。その程度の粗相、気にせずともよかったのですが、叱責されると思ったのでしょう。外に飛び出してしまったのかも知れません……」
レヴィシアがティーポットを割る可能性は高い。けれど、だからといって飛び出す可能性は低い。
何かがあった。そういうことだ。
「そうですか。それは申し訳ありませんでした。どうか、当家に請求なさって下さいますように」
ここで問い詰めてはいけない。レヴィシアの身が危険になる恐れがある。
「いえいえ、ユミラ様がそう申されると思いましたからこそ、お伝えするのが心苦しくて……」
よく言う、とユミラは思った。
「では、また後日に。本日はこれで失礼いたします」
「はい。ユミラ様を描ける日を心の支えに、お待ちしております」
背筋が寒くなったけれど、ユミラはかろうじて笑顔を保っていた。
彼は背を向け、ヘイマン邸を後にした。
バタンと閉じた扉の奥で、ヘイマンは小さく声をもらして笑っていた。
レヴィシアがティーポットを割る可能性は高い――。
何気にひどいユミラ様でした(笑)




