〈26〉ヘイマン
レヴィシアとユミラは、ルースケイヴ家の馬車から降りる。
そこは、ヘイマン邸の敷地の外だった。クランクバルドやルースケイヴの屋敷とは違い、ヘイマン邸は格段に小さかったのだ。馬車で中まで乗り付けるほどの距離がない。十分に立派な館なのだが、ここ数日でレヴィシアの感覚は狂っていた。
ルースケイヴ家の御者は、簡素な扉に備え付けられていたベルの紐を引く。来客を知らせる音がカランカランと鳴り響くと、待っていたかのようなタイミングで奥の扉が開いた。
中から出て来た白い手袋をした中年男性は、恍惚とした表情と声をユミラに向ける。
「ああ、ユミラ様! このようなところにおいで下さるとは、光栄の極みにございます!」
その勢いに、ユミラは少し引いていた。この人がヘイマンだというなら、元気そうだと思う。
「ご無沙汰しております、ヘイマン卿」
それに水を差すかのように、御者がヘイマンに手紙を差し出した。
「こちらは我が主、ルースケイヴからの書状にございます。どうぞ、お目通しを」
どうせ、自分が口ぞえしてやったのだから、ありがたく思えという内容だろう。レヴィシアはヘイマンが顎に手を当てながら、それを読む姿を眺めていた。御者はそうして去る。
ヘイマンは書状を懐にしまうと、ユミラと、それからレヴィシアに笑いかけた。
「大したお構いもできませんが、どうぞ中へ」
ヘイマンは明らかにうきうきとしていた。本気で嬉しそうだ。
「君も、ご苦労だったね」
笑いかけたかと思うと、声までかけて来る。レヴィシアは少々戸惑ってしまった。
「あ、いえ……」
ユミラのように、貴族らしくない貴族だっているのだ。ヘイマンもその口なのだろう。ルースケイヴとは随分と違う。
レヴィシアは、できるだけ静々とユミラたちの後に続く。
この屋敷は少し薄暗かった。人の気配がしないせいか、寂しいと言った方がいいのかも知れない。廊下にずらりと並んだ絵画の縁にほこりが見えた。
「ユミラ様はこちらの部屋でお待ち頂けますか? すぐに茶を用意して来ますので」
開けた扉の先は、唯一まともな部屋なのではないかと思った。きっと、ここだけ来客用に取り繕ってある。そんな気がした。
ユミラはどう感じたのかわからないが、穏やかに微笑んでソファーに腰かけた。ヘイマンはレヴィシアに言う。
「君も手伝ってくれないか? 何せ、人手がないのでね」
掃除が行き届いていないのは、使用人がいないからだ。レヴィシアは納得した。貴族なのに、寂しいだけじゃなくて貧乏なんだ、とヘイマンがかわいそうになった。
「はい!」
勢いよく返事をし、ヘイマンに付いて行く。
厨房は、ガランとしていた。わかってはいたが、誰もいない。火の気もなく、石壁が寒々しい。湯を沸かすにも時間がかかりそうだ。
「そこの戸棚の中に茶葉があるから、取ってくれないか? 黒い缶だ」
「はい」
黒い缶。レヴィシアは指さされた棚を見上げる。その棚は、レヴィシアの背よりもずっと上に備え付けてあった。背伸びをして手を伸ばせば、ようやく届くというところだ。
レヴィシアは精一杯背伸びをして、棚の中を手探りで探した。黒い缶と言うが、色なんてわからない。取り出してから確認するしかなかった。
手も足も限界まで伸ばし、注意力などまるでなかった。だから、背後でヘイマンと雇われた男が目配せしてうなずき合っていたことなど気付きもしない。
無防備な状態のまま、背後から伸びた大きな手で口を塞がれる。
「!」
その後、胴を抱え込まれるように拘束された。
「ほら、捕まえたぞ」
その男の声に、ヘイマンは嘆息する。
「あの方も無理な注文をされる。ユミラ様に怪しまれたら、どうしてくれるのやら」
レヴィシアは、んー、と顔を赤くしてうなった。けれど、力が緩むことはない。
「そこはあんたの腕の見せどころだろ。上手くごまかせよ」
耳障りな笑い声だった。
探していた人攫いに遭遇したけれど、こういう形では出会いたくなかった。せめてもの抵抗に、レヴィシアはヘイマンをにらんでやった。けれど、ヘイマンは嬉しそうに笑った。
「さすがクランクバルドと言うべきか、メイドも上等だ。もしかすると、このメイドはユミラ様のお気に入りなのだろうか? 連れて歩いているくらいだからな」
「だとしても、仕方ないだろ。とりあえず、他と一緒にぶち込んどくからな」
「ああ。騒がれるなよ。それから、絶対に傷を付けないように」
「へいへい」
他と一緒ということは、その先にルテアがいるのだろう。その一言で、レヴィシアに不安はなかった。
ただ、急にいなくなってしまったら、ユミラはどうするだろうか。ヘイマンを疑うだろうか。疑ったとして、一人でどうするだろう。
全部片付いたら、助け出したリュリュを連れて行く時にちゃんと説明しよう。
レヴィシアは冷静にそう思った。




