月下美人
寮のロビーに入るとなぜか人だかりができていた。
彼らの頭の上に飛び出ている物から察するに、何かの植物のようである。
「きれいだねー」
「めっちゃでかくね?」
「パンテーンみたいないいにおいがする」
どうやら、花が飾ってあるようだ。
日頃ゲームの事しか眼中にない男子達までもが見ているということは、よっぽど綺麗な花なのだろうな等と思っていると、
「あ、憂飴。一年に一回しか咲かない花だって。しかも夜のうちだけっていう」
人ごみの最前列からひょいっと友人が顔を出してきた。
「一年にたった一晩?」
「うん、すごいよ。こっちおいでよ」
彼女に手を引っ張られて私はショーットカットで花の前まで行った。
とても大きな、純白の花だった。
横にあるプレートをみると、「月下美人」とある。
説明文は「一年に一日、しかも夜のうちにしか咲かない貴重な花です。香りもとてもいいです。ぜひこの機会に目に焼きつけてください」だった。
花の形に見えるめしべを包んでたくさんのおしべがふさふさと覆いかぶさり、さらに守るようにして丸みのある花弁がそれを包んでいた。
花弁は外側にいくにつれて次第に細くなっている。
蛍光灯の光に照らされたその花弁に、うっすらと筋が浮かび上がっている様は、月の下でなくても十分に美しかった。
形だけならず、ほのかだが、確かにその存在を意識せずにはいられないかすかに甘く、胸の中が満たされるような匂いまで、どこからどこまでも美しかった。
それが、純白の、大きな花。
少し触ってみたいが後ろがつかえているのでただ見るだけにとどめる。
「ね、綺麗でしょ」
友人が、まるで自分が見つけたかのように囁いた。
「うん」
「よし、じゃあ夕飯食べに行こう」
「そうだね」
もっと眺めていたい。
しかし、やっぱり後ろの人達に気を使って私達はそこを離れた。
いい匂いが追いかけてきていた。
その夜中、私はウォーターサーバーに用があるという名目で、水筒を片手に、再びロビーに入った。
今はもう蛍光灯も付いておらず、人もいない。
そのままウォーターサーバーに歩み寄る。
夕方よりはっきりとしている月下美人の、視線を感じた。
ちらりと見やると、一瞬誰かと目があった時のような気まずさを覚え、思わず目をそらしてしまう。
植物にも魂があるのかも知れない。
水筒に水を注ぎ終わってから、私はもう一度月下美人を間近で見た。
白は暗闇の中でもよく目立ち、まさに今が満開だというように咲いている。
それもこの晩で限りで、あと何時間かしたら散ってしまうというのに、桜などにあるような寂しさやはかなさといった印象を感じない。
ただ、いまここで咲いていることをひたすら誇りに思っている、そんな咲き方だった。
私は水筒を机に置き、手で水を救うような形で彼女を包みこんだ。
ちょうど私の手にすっぽりとおさまり、大人しくしている白い彼女は、やはり綺麗だった。
少し冷たい、すべすべした手触りが心地よく、香りはさらに濃さを増している。
かわいらしいめしべをなんとなく見つめてみる。
そこで突然、誰かの足音が聞こえてきて、私はあわてて手を離した。
ひとりで花と見つめあっているなんて、変人に見えてしまう。
水筒を手に持ち、離れようとしたところで小柄な男子が姿を現した。
ちらっと私を見てからウォーターサーバーに向かっていくので、やはり彼もこの蒸し暑さに耐えかねたのだろう。
最後にもう一度、私は月下美人を見た。
急に手を離したものだからまだゆらゆらと揺れている。
心の中で別れを告げて、私は飲みもしない水の入った水筒を片手に自室へと戻った。
次の日の朝、月下美人はすでにしおれ、太い茎をその体ごとだらんとぶら下がらせていた。
昨夜は感じなかったその疲れというか、悲しさというか、なんとなくそこにあるだけの存在感が見るからに哀れである。
もう近寄ってみる気はおこらない。
しおれてしまった彼女を見たくはなかった。
職員が3人出てきて、鉢を持ちあげた。
どこに行くのかは知らないが、私はくるりと背を向けてロビーから出て行った。