放課後のスケッチブック 前
お手洗いから戻ってくると、向こう側から見たことのある男の人が歩いてくるのが見えた。
足下を見れば、この一年生の教室のある廊下じゃ珍しい、青い線の入った上履き。
それを確認して、私は、ああやっぱりと一人頷く。
ただでさえ学年が違うのに、背が特に高くて容姿も良いから、とても目立っている。周りの女子なんかは、ちょっと離れたところできゃあきゃあ言っている。
その彼を見ていたら、あちらも私に気がついたようで、やあと手を振ってきた。
話しかけられるなんて思ってなかったから驚いてしまった。慌てて頭を下げる。
「こ、こんにちは」
「おう、こんにちは。小川さん、だよね?せいら、いる?」
やっぱりね。
学年の違うこの人がこの階に来るなら、用事は他に見あたらない。
そう。彼は、私の親友、せいらの彼氏になった人。
あの日、せいらが何かの用事で三年生の教室に出かけていって、私は先に部活に向かったんだ。後から来るんだと思っていたのに、その日は珍しく部活をさぼったせいら。
おかしいなあと思いながら教室に戻ったら、机の横にうずくまったせいらがいて。
気持ち悪いのかとびっくりして顔を上げさせたら、リンゴだって負けるんじゃないかと思うくらい顔を真っ赤にしていた。
そして。
付き合うことになっちゃった、と小さな声で教えてくれた。
同じ部活で仲良くなって、それからずっと一緒だったせいら。
それが、休み時間や放課後にせいらが彼氏と過ごすようになって、私と一緒に過ごす時間が減った。せいらを取られたような感じで、少し悔しい。
でも、せいらにとってはとても喜ばしいことだから、親友として嬉しい気持ちもあって・・・今はとても複雑なんだ。
その彼氏が、目の前の園村淳平さん。
悔しい、本当に悔しいんだけど・・・頼りがいがありそうで、せいらにはとても優しくて、いい人だ。
だから私は、悔しい気持ちは我慢して、せいらと園村さんを応援しようとこの前決めたんだ。
「ちょっと待ってくださいね。呼んできます!」
「おう、さんきゅ」
教室に戻ってせいらに言うと、ガタンと椅子を倒しそうになるくらいに勢いよく立ち上がった。
顔はもちろん真っ赤。そろそろ慣れてもいいんじゃないかなあ。まあ、可愛いから良いんだけどね。
そして、教室のドアへと急いで駆けていった。
あの調子じゃ、部活へ行くのはもう少し遅くなるかな。
まだ部活までは時間があるけれど、二人に気を遣わせたら悪いかなと思って、先に教室を出て部活へと向かった。
賑やかなグラウンド。明房高校は、この辺りじゃかなり大きくて、グラウンドもサッカー場も野球場もある。
サッカー場も野球場も今は空。どちらの部活もランニングに行ったらしい。マネージャーらしき女の子が飲み物やらの準備をしている。マネージャーはもっといるはずだから、あとのマネージャーはランニングに一緒について行ったんだろう。
グラウンドでも、陸上部がトラックをそれぞれに走っている。端では、何人かがハードルを運んでいた。
みんな部活頑張ってるなあとぼんやりと思いながら、グラウンドがよく見える芝に腰を下ろして、鞄からスケッチブックを取り出す。
だけど、開かずに横に置き、そのまま大きく手を広げて寝転んだ。
「・・・あーあ」
なんだか心にぽっかり穴が開いた感じ。
私、こんなに独占欲があるなんて思ってもみなかった。きっと、高校に入って一番最初に仲良くなって、一番の仲良しだから、特にこんなに感じるんだろうな。
目をつぶれば、あれほど賑やかだと感じた喧騒から離れたような感覚に陥る。視覚が使えなくなったことで聴覚が研ぎ澄まされて、より明瞭に聞こえるのに、どうしてだろう。
お日様の光が当たって、少しぽかぽかと温かくなってきた。木々などの光を遮るものがないから、少しまぶしい。
部活の時間だけど、陽気に誘われて、眠くなってきた。
でも寝たら怒られちゃうよなあ・・・・・・。
寝ちゃだめ。そうは思うけれど、睡眠欲にはかなわない。怒られたら怒られたときだよねなんて、もう回らない頭で考えていたとき。
「わ、うま」
「・・・っ!?」
思わず起き上がる。はっと後ろを振り向くと、すぐ側に男の子が立っていた。
太陽を背にしているから、顔がよく見えない。
聞いたことのない声。クラスメイトじゃないと思うけど。誰だろう。
「え、と」
「あんたが書いたの?これ」
「え、あ、そ、そうだけど」
「上手だな」
そう言って、まじまじとスケッチブックを眺めている。
・・・・・・スケッチブック?
「あ、これって」
「きゃあああっ」
「あ」
「ちょ、やめ、返してください!」
はぎ取るように奪い戻す。
取られないようにぎゅっと抱きしめてから、もう一度顔を上げると、太陽が少しずれてようやく顔が見えた。
この人。
「内海くん」
「よく知ってるね」
「え、あ、そ、それは・・・」
「いいよ、知ってる。変人って言われてること。気にしなくていい」
「え、と、あの・・・」
二つ隣のクラスの、内海結くん。一学年の有名人だ。
なぜ有名かって?それは・・・写真オタクだから。ほ、本当のところは分からないけれど・・・常にカメラを持っているイメージがある。もちろん、授業中とかはカメラを持っていないんだけど、昼休みや放課後に見かけるときにはいつもカメラを持っている。
この学校には写真部なんてなかったんだけれど、内海くんが入学式の後に校長先生に直談判して、一人で写真部を作ってしまったんだ。それが広まって、あっという間に有名人になった。
ちなみに、一年経ちそうな今でも、写真部部員はまだ内海くん一人らしい。
内海くんは、話しかけられない限り自分からはほとんど話さないらしく、暗い人だ、関わりにくい人だとみんなで噂している。
そんな感じで、いい噂はあまり聞かない人。
私はクラスが違うから、噂とか聞いても気にとめていなかった。だけど、あまりにみんなが噂しているものだから、いつの間にか噂の内容を覚えてしまった。
「地味で暗くてカメラが好きな写真オタク」
「・・・・・・」
「そんな感じでしょ?」
「それは・・・」
「別に良いよ。カメラを壊されたり写真が破かれたりするのでなければ、それで」
そう言って、どっこいしょと声に出して、私から少し離れたところに座った。
そして、カメラをすす、と優しく撫でてから、カメラを通してグラウンドの方を見る。
不思議な人だ。少なくとも、私の知ってる同級生とはちょっと違う。
内海くんがカメラをのぞいたまま黙ってしまったから、私はスケッチブックを抱きしめていた腕を解いて、膝の上にそっと乗せた。
スケッチブックに絵を描こうという気も起きず、そのまま内海くんを見つめていると。
(あ)
口の端が少しゆるんだ。
笑った?
つい内海くんが見ている方を私も見るけれど、面白そうなことは特に見あたらない。
何が面白くて笑ったんだろう。というか、内海くんも笑うんだなあ、なんて彼に知れたら失礼なことを思い、内海くんとこんな風に横に座って話をしている状況がなんだか不思議でおかしくて、私も笑った。
その時。
カシャリ。
「え?」
横を見れば、内海くんがこちらを見ていた。違う。カメラが、だ。
「え?え、何、今」
「撮った」
「撮った!?」
「うん」
「な、ちょ」
「どうもありがとう」
「ど、どういたしまして、じゃなくって!」
こんな、すごい近くで、いきなり、何なんですか!
「現像したらあげるよ」
「そ、そういうことではなくって、ですね」
「あれ、いらない?」
「い、いる!いや、そうじゃなくって、ど、どうして・・・」
「笑って可愛かったから、残しておきたいなあと思って」
「かわっ」
「ああ、そっか。いきなりはダメだよね。撮っていい?あ、っていうか、もう撮っちゃったんだけど」
「事後報告すぎるでしょ!」
変な人だ。やっぱり、変な人だ。絶対!
彼のペースにどんどん飲み込まれてしまいそう。
「そういえば」
「まだあるの!?」
「怒らないでよ。さっきさ、それ」
「え?あ、スケッチブック?」
「うん、勝手に見てごめん」
「え?」
「俺だって勝手に見てほしくない写真とかあるのに・・・風でさ、何枚かめくれてちょっと見えちゃったんだよね。それで、どうしても気になって。断ろうと思ったんだけど、小川さん寝てるし。だから・・・って、言い訳でしかないな」
ごめん、ともう一度しっかり頭を下げた。
こんなに面と向かって、頭を下げて謝られた事なんてないから、どうしていいか分からなくなる。
反対に・・・私は、悪いなと思ったときに、ちゃんとこんな風に謝ることができていたかなと思う。謝るって、簡単なようで難しいから、こうやって謝ることができる内海くんに素直に感心してしまう。
「べ、別に気にしてないよ。だから頭を上げて」
「本当?」
「ほ、本当!」
そう言ったら、ほっとしたように顔を上げてくれた。それに、私もなんだかほっとする。
噂だと、なんだか人間味のないように思えた内海くん。だけど、こうやって話せば、とっても小さいけれど表情は豊かだ。それを知ることができたことが、なんだか嬉しい。
「べ、別に見せられない絵を描いたわけじゃないし・・・だけど、見せられるほど上手なわけじゃないから・・・恥ずかしくて、過剰に反応しちゃった。私もごめん」
「そんなことないよ。すごく上手だと思う」
「お、お世辞でも嬉しい。あ、あの、ありがとう」
「お世辞じゃないよ。良かったらもう一度見せてくれない?」
「そ、それは・・・」
「ダメかな」
「べ、別に良いけど・・・」
そう言ってスケッチブックを渡すと、また少しだけ口元をゆるめてありがとうと言ってくれた。
はらりはらりとゆっくりページがめくられるのを、ドキドキしながら見つめる。
美術部なんか名ばかりで、顧問は運動部と掛け持ちのためにほとんど部室に来ないし、部員だってそれぞれで絵を描いているだけで、見せ合いっこなんてほとんどしない。私が絵を見せるのは、親とせいらだけだ。
だから、他の誰かに見られることに慣れていない。
心臓の鼓動が早くなっていく。私、緊張しているんだ。
ドキドキが大きくなって、何もしないでただ座っていることに耐えられなくて、膝をぎゅっと強く抱き抱えた。
「上手だね」
「え?」
「とても丁寧だと思う。色の使い方も、筆の運びも。・・・俺は、絵がそんなに詳しいわけじゃないから、専門的なことは言えないけど」
「う、ううん・・・」
「風景画ばかりだね。風景画が好きなの?人物が一人も出てこない」
「そ、それは・・・」
ありがとう、ともう一度お礼を言って、スケッチブックを返してくれた。
そして、私が答えるのを待っている。
理由はある。人物を描かない理由。でも、今日初めて会った人に、こんな話をしていいのかな。
答えあぐねていると、私より先に内海くんが話し出した。
「話したくないことなら、言わなくて良いけど」
「・・・・・・」
「変な事聞いちゃったかな。ごめん」
「ち、違うの・・・あ、あの、そんなに面白い理由じゃないんだけど・・・」
「別に面白さは求めてないよ」
「あ、うん、そうだよね・・・。あ、あの、中学校の頃にね、友だちの顔を描いたんだ。そうしたら」
『私、こんな顔じゃない。もっと可愛く描いてよ』って、怒られたことがあった。
私は可愛く描いたつもりだったんだけど・・・だから、すごくショックで。
喜ばせようと思って描いたのに、がっかりさせちゃったことがとても残念で。
だから、顔を描く練習をいっぱいしたの。毎日、毎日、どうすれば可愛く描けるか、喜ばせられる絵を描けるか。
だけど、練習すれば練習するほど下手になってきて。
「とうとう、顔を描けなくなっちゃったんだ」
「そう」
「これ、スランプっていうのかなあ。今じゃ、人を描こうとすると、筆を持てないくらいになっちゃって。でも、風景は描けるんだよ。どうしてだろうね。・・・って、こんなこと言われても困っちゃうでしょ?」
内海くんの表情は変わらない。何を考えてるのかな。やっぱり、こんな暗い話、言わない方が良かったかも。
後悔を覚え始めているときに、ようやく内海くんは口を開いた。
「じゃあ、いつか描けたときには、見せてくれる?」
「え?」
「風景画はもちろん上手だけど、俺、人物画も好きだから。描けるようになるの待ってるよ。早く見たい」
「え・・・・・・」
「俺、小川さんの絵、好きだよ。だから待ってるよ」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。
私はなんと言ったらいいのか分からなくて、何も言えずに彼を見上げたまま。
彼は、ズボンについた草や土を払ってから、それじゃあまたねと歩いて行ってしまった。
あまりにあっさりとした最後に、やっぱり何も言えずに、遠くなる背中を見つめる。
待ってると言われたって。早く見たいと言われたって。
私だって描けるものなら早く描きたいけど、できないんだってば。
頭の中ではそう反論の言葉がいっぱい出てくるのに、声にはならない。
その代わり。
「ま、待ってて!」
気がついたら、なぜかそう口に出してしまっていた。
もうだいぶ遠く離れてしまった内海くんは、背中を向けたまま手を振り返してきた。
それを見て私は、待ってて、そうもう一度小さくつぶやいてスケッチブックを抱きしめた。