断章 王の闇/03
ヴァイロン・アークライトは、オープンオフィスの一角に設えられたバスケットボールコートのセンターから、ゴールへ向けてボールを放った。
ポスッ、と気の抜けるような音を立てて、ボールはゴールリングのど真ん中を通過する。
落下したボールは、まるで最初からそうなると決まっていたかのように、ヴァイロンの足元へと戻ってきた。
つまらなさそうにそれを拾い上げ、同じ動作を繰り返す。
再びボールはリングの中央を穿ち、床を転がり、やはり彼の足元で止まる。
これが、現在のヴァイロン・アークライトの状況だった。
PROMETHEXという企業を、ヴァイロン・アークライトは現実時間で三年ほど前、アメリカ合衆国デラウェア州に登記した。
州の名前に意味はない。
重要なのは、そこが最も余計なものを要求しない場所だった、という事実だけだ。
以来、プロメテックスは現実世界において、登記されたレンタルオフィスを本社とし、借りっぱなしのスペースにワークデスクが一つ――。
現実ではそれ以外には、何も持っていない。
週に三日分、現実へ戻る義務。
ヴァイロンに言わせれば、あれは人類がまだ片足を泥に突っ込んでいる証拠でしかない。
本社と呼ばれる場所での活動といえば、そのワークデスクに、仮想現実への適応が困難な高齢者を雇用し、名目上の役員として当番制で座らせていることくらいだ。
近隣の老人ホームとの提携。
半ば寄付に近い、その業務提携だけが、プロメテックスの現実における唯一の事業と呼べるものだった。
創業当時、プロメテックスは、カリフォルニア工科大学で脚光を浴びた処理機関理論を背景にしたシンクタンクとして活動していた。
とはいっても、その実態はヴァイロン一人による、個人シンクタンクそのものだった。
独自の解釈理論を武器に、大手ではなく中小の企業へと切り込み、取り入っていった。
ヴァイロンはそこで得た情報のすべてを投資へと注ぎ込んだ。
現実でやればインサイダー取引そのものを、特定の企業都市国家に身を置くことなく、あえて敵対関係に近い企業の拠点を行き来しながら行い、仮想現実上の資産を増やしていった。
エンジニアとしての才能と、キャピタリストとしての才能。
ルールという存在そのものを、ゲーム盤としてプレイする感覚。
現実時間で創業からわずか一年。
ヴァイロンはアインシュタインブリッジと呼ばれるこの企業都市国家を支配していた企業ごと買収し、拠点としての体裁を整えた。
その後は、仮想現実世界専門の研究企業兼兵器産業として活動を続けている。
表向きには、中堅の新興企業として。
無駄なものを持たず、無駄なことをせず、ただ単純に、簡単に事を成したに過ぎなかった。
場所さえ用意すれば、人は自然と集まった。
中小企業相手に蒔いた種は、自分と同年代の人材として向こうから飛び込んでくる。
引き抜きなどしていない…… あくまでも職業選択の自由の結果だ。
もっとも、恨み言を叫ぶ抜け殻については、容赦なく買い叩いているが。
気がつけば、まるで投げたボールが必然のようにゴールへと吸い込まれ、再び自らの足元へと戻ってくるような状況が生まれた。
手広くやって、集中していない、散漫な企業を演じてみても、結果だけはついてくる。
最近はやっかみも酷い。
怒り…… 相手にそんな感情が湧くほどの興味はない。
でも靴の中に小石が入ったような不愉快さは感じる。
いっそ、気づかれないように―― 裏から火をつける方法はないものか。
最近はそんなことすら、考えはじめていた。
とはいえ、派手に油を撒くには時期尚早だ。
「――社長、そろそろ先方がお着きになります」
再びボールを放とうとした、そのとき。
クルエラ・ラブレスの声に、ヴァイロンはわずかに手を止めた。
手から離れたボールはリングに弾かれ、コートへと落ちると、あらぬ方向へと転がっていった。
「フフフフッ…… ハッハッハッ――」
「……社長、いかがなさいましたか?」
突然笑い出した上司に、珍しくラブレスはキョトンとした顔を向けた。
「いや、ね―― ラブレス君。 やっぱりいいよねぇ、想定外ってさ」
ラブレスからジャケットを受け取りながら、ヴァイロンは答えた。
「はぁ……。 社長が楽しそうで何よりです」
有能な秘書は感情が抜けたような表情に戻り、いつもの何もこもらない返事をした。
そんな態度が実に落ち着くとヴァイロンは安堵する。
こんな貴重な秘書は、やはり手放せない。
支配者のアポイントはまさに想定外だ。
――プロメテックスにはメサイアと取引できるような材料は無い。
――いやいや、そもそも支配者が自分に何の用だ?
――表敬訪問なんてことはあるまい……。
――やはり裏の顔はバレていると考えるべきか?
ボールがどこへ飛ぶかわからない。
一寸先が予想できないとはなんと楽しいことか。
思いつきで会社を興した時以来のワクワクした気持ちを思い出す。
ヴァイロンはジャケットを羽織ると、オフィスとほぼ境の無いエントランスへと歩みを進めた。
エントランスの扉が開き、客が訪れると同時に、ヴァイロンは到着した。
会社とは思えないフリーダムな空間へ、場違いなスーツの一団が足を踏み入れる。
対して迎えるのは、まるで大学生のような男と、氷のような静けさを湛えながらも、秘書としてはいささかセクシーに寄せた服装の女――。
そんな二人組だった。
Tシャツにスラックス、そしてスニーカー。
ジャケットを羽織っているのは、ヴァイロンなりに社長として客を迎える最低限の礼儀のつもりだ。
だが、その姿に一団のほとんどは白けた視線を向ける。
その先頭に立つ男を除いて――。
真っ黒な革のスーツ。
それが、この男の若い頃からのトレードマークであることを、ヴァイロンは知っている。
仮想現実世界の軍拡を正当化した、伝説のプレゼンの頃から変わらない装い。
そして―― 支配者と呼ばれる現在では、ローマ皇帝を思わせる首飾り付きの二重回しを羽織り、王杖のようなステッキまで携えている。
確かに年齢を重ね、かつては真っ黒だった撫で付けられた髪と上品に蓄えられた髭は、見事なグレーへと変わっている。
だが体格は今なお堂々たるものだ。
むしろ、ヴァイロンより遥かに筋肉質に見える。
生で見るのはこれが初めてだが――。
この男の現在の姿が、段階的な演出のアップグレードによる賜物であり、そしてそれが本物の説得力を宿していることを、ヴァイロンは心底感じていた。
ヴァイロンは軽く片足を引き、わざとらしいほど大仰なお辞儀をしてみせる。
ボウ・アンド・スクレープ。
この男の風格には、少々やり過ぎなほどの演出がちょうどいい。
「いやー。 メサイアの皆さん、我がプロメテックスへようこそ」
体を起こし、今度は大きく手を広げる。
「うちは若い人間ばかりで、社風もご覧の通りオープンなもので―― 見慣れた会社とは勝手が違う点は、ご容赦いただきたい」
これほど大袈裟に出迎えられてしまえば、白い目を向けていた連中も、憮然としながら黙るしかない。
余計な茶々を入れさせない空気を作った上で、ヴァイロンは先頭の男へ視線を向けた。
「僕のことはヴァイロンで結構です。 ――ミスター・ゴールドマン? それとも、ドミネーターとお呼びした方が?」
ラリー・ゴールドマンの眉が、一瞬だけ跳ね上がった。
「ふむ…… そうだな、若いヴァイロン君。 ミスターでもドミネーターでもないとすれば、君は私をどう呼ぶ?」
ラブレスの目が、メガネの奥でわずかに険しくなる。
その一瞬の緊張を背後に感じながらも、ヴァイロンは内心で愉快さを隠せなかった。
――ああ、そう来るか。
威嚇も威圧もない。
だが、返答次第でこの場の格が決まる。
一瞬の間を置いて、ヴァイロンは答えた。
「そうですね…… では、ご老体ではいかがでしょう?」
一団がざわめいた。
次の瞬間、広いホールにステッキを打ち付ける「カツーンッ!」という乾いた音が響く。
メサイアの一団だけではない。
客など気にも留めずホールを行き交っていたプロメテックスのスタッフまでが足を止め、空間は一瞬、完全な沈黙に包まれた。
ステッキを鳴らした当人――。
ラリー・ゴールドマンは、ニヤリと口元を歪める。
「老体、か。 なるほど…… 君の年齢からすれば、実に的確な表現だ」
そう言って、彼は右手を差し出した。
「それで結構。 実りある話し合いになることを期待しよう」
差し出された手を、ヴァイロンは迷いなく掴む。
短い握手の後、ラブレスが「こちらです」とゴールドマンを促した。
ごく自然な流れで、ヴァイロンは支配者と並び立ち、メサイアの一団を引き連れて歩き出す。
――どうやら、最初の一手は合格らしい。
ヴァイロンは確信していた。
自分はメサイアという組織ではなく、ラリー・ゴールドマン個人と対話するための切符を、確かに手に入れたのだと。




