死体のごっこ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
晴れの日は死体ごっこ。
いや、まさか自分の子供からこのフレーズを聞かされるときが来るとは思わなくってね。少しびっくりしたものだよ。
昔はちょっとブラックな面がにじんでも、まわりの人の理解というか許容範囲があったからね。なんとなく笑って許されたことが多いけれど、最近はモラル的なものが厳しくなってきているだろ?
大々的にやるのは人様の迷惑かつダークなイメージを持たせやすかったり、シンプルに物騒だったりと、なかなか縛りがきつい昨今さ。
でも海外でも、この死体ごっこならぬ死んだふりアートはカルト的人気があるようで、ときたま取り上げられることがあるようだ。TPOによっては不慮の事故につながりかねないから、いい顔されるばかりとは限らないけどね。
その中にあって、晴れの日は死体ごっこ。これはわたしが子供のときの合言葉だったから、ちょっと懐かしかったり、気味悪かったりも思ったわけ。
――いったい、何を意味しているのかって?
じゃあ、そのときの話をしようか。
雲一つない、カンカン照りの日。それは私たちにとって、絶好の死体ごっこ日和だった。
学校の教室へたどり着くと、机へ突っ伏して死んだふりだ。別に本当に眠っても構いやしないのだけど、朝学活のときにはきっちり起きることが大切。
その後も、空に雲が出ないうちは休み時間に死体ごっこを行うことが推奨される。外で遊ぶとか、好きに過ごしても構わないけれどベストのおすすめは死体ごっこだ。
なぜ、そこまでおすすめされるのか、というと私の地元での言い伝えが関係している。
私たちの地元では、子供時代は世界との調和がうまく取れていないころだ、とみなされているんだ。
特に小さいころは、大人があまり問題としない病気であっても、重篤な症状につながりやすい。その原因を世界に求め、無理に動いて消耗させるより、じっとすることで世界に体を慣れさせるべきだ……という考え。
それが根付いた結果、死体ごっこの実施がなかば容認されたのだとか、なんとか。
特に陽の光をさえぎるもののない快晴のときなどで、差し迫った用事がないときであれば、身体をじっとさせて世界との調和をはかったほうがよい……との考えが根強いんだ。
あくまでゆとりのあるときのみ。果たすべきことがあるときはそちらが優先だから、ずる休みの理由に死体ごっこを使うのは、邪道とみなされて非難の対象だ。
なので休み時間にのみ、この死体ごっこは学校でも通用し、先生たちにも黙認されているという妙な状態だったのさ。
私自身も、ちっこいころからこの話はされてきたから、行うことがむしろ自然と思っていたよ。とはいえ、凝り性というわけではないから、たいていは机に突っ伏して目をつむるというシンプルなものだ。
常日頃、睡眠不足は感じていたところだし、この死体ごっこは私にとって良い昼寝時間でもあった。先に話したように快晴のときでないと許されないから、かえって貴重な機会ということで有難みも感じていたしね。
だからその日も、朝から雲のない晴れを目の当たりにしたとき、遠慮なく死体ごっこができると期待に胸ふくらませていたのだけど。
「今日、死体ごっこをしてはいけません」
よもや、達筆な墨の字でもって校舎にデデンと張り紙をされたのを見たときは、びっくりしたさ。
登校した際の昇降口のみならず、廊下やところどころの掲示板にも、同じ意味の文言を書いたものが張り出されている。これまでにないことだったから、私を含めてみんなも動揺を隠せなかったさ。
やがて迎えた朝学活で、先生たちが「ごっこ」をしてはいけない理由を語る。
「今日は『参観日』です。普段の授業参観のように親御さんがいらっしゃるのとは違います。いわば世界の神様がいらっしゃるのです。ですから『フリ』はやめてください。今日の死体ごっこは本当ととられ、連れていかれちゃいますよ」
先生たちも、皆さんが死体ごっこしそうになったら、遠慮なく叩きますからね、と手に携えた巨大ハリセンで教卓を叩き、パシン! といい音を立てる。
せめてお笑いグッズらしきかっこうで、えぐさだけでも軽減しようというのだろうか。先生の表情は真顔だ。
事実、その日の学校は異様な雰囲気だった。授業を受け持たない先生でも校舎内をハリセン片手に巡回していて、授業の様子を見て回っている。授業見学自体は普段であっても、なきにしもあらずだが、この数は異常だ。
実際、外からもときおりハリセンの響きと誰かの声が届く。本当にぶっ叩かれているのかと思うと、背筋も正さざるを得ない。
けれども、もともと死体ごっこできると思っていたから、寝不足が響いてくる。
昼頃になると、猛烈な眠さに襲われた私。教室で堂々と眠っては先生たちに叩かれかねないので、そっとみんなの目を盗んでトイレへ行く。
用を足したいのではない。眠りたいだけだ。
ちょうど給食の配膳準備時間。15分、いや10分くらい席を外していても、怪しまれないだろう。
そう考えて、男子トイレ奥の洋式便座の個室へ。腰かけるや背中を後ろに預ける形で、うとうととまどろんでしまったのだけど。
ほどなく、ガタンと個室のドアが乱暴に開けられる音がした。
鍵はしっかりかけたはず。普通の人ならノックなどをするところで、開けようとしてもガタガタ揺らすくらいがせいぜいのはず。それが明らかに一発限りでこじ開けられた。
なにが!? ととっさに目を開けようとして、すぐ目隠しをされてしまう。
人の肌と思うには、あまりに冷たい。その冷えは霜柱を貼り付けたまま、眼球の奥へねじりこまれたかと思うほど。
叫ぶことさえできない痛みを、私ははじめて知ったよ。同時に「あ、これ死ぬな」とも直感した。暴れることすら許されず、力が勝手に抜けていく。
スパン、と頭を叩かれたのはその直後だった。
とたん、抜けかけていた力は入るし、目隠しの圧も消える。はっと目を開いたときには、ハリセンを持った生活指導の先生が立っていた。私がトイレへ入るところを、ぎりぎり目にしていたそうだ。
やはり、個室のドアは壊されていた。というか、もぎとられていた。
蝶番もろとも引きちぎり、ドアをただの板材と大差ない状態に置いている。とても人間が一発でできるような代物ではない。もちろん生活指導の先生でも。
どうやら私は、本物の「死体」へ仕立て上げられるところだったそうだ。あれほど致命的なものと思ったのに、実際には血の一滴すらできていない。おそらく、心臓が止まっている以外は問題ない死体ができあがっていた、と先生は話してくれたよ。
なぜ、死体ごっこをしてはいけない日が分かるか。
それはその日になると、地元の大人たちにはそろって悪寒が走るとともに、起床して初めてみる鏡の中に、自分以外の誰かの後ろ姿が入り込むためだという。




