エリーゼの領分
光曜日。休日という概念が希薄なこの世界でも、なんとなく日曜日のような穏やかな空気が流れる日だ。
枕元に飾った一輪の『エリーゼ』に水をやり、私はいつものように朝食を平らげる。中庭でフェリクスアレンジのラジオ体操に励んで体をほぐしてから、王宮の裏手にある庭園へと向かった。
この庭園は私の心を癒やすサンクチュアリであると同時に、ある残酷な真実を突きつける教育現場でもあった。
「……今日もなんていうか、すごい」
目の前には混沌が広がっていた。王妃の庭のエリーゼに任せた一画だ。
私の担当区画では整然と畝が作られ、トマトやナスが順調に葉を広げている。前の世界での朧げな記憶に図書室で得た知識、それにミリアの手厚いサポートのおかげだ。
しかし前の世界以外は同じものを共有しているはずのエリーゼが育てた庭は、ミリアの支援も虚しくまるで熱帯雨林の縮図のようになっていた。
「おはようございます、マリ!」
植物の陰から泥だらけの顔をした無垢な天使がひょっこりと現れる。甘いピンクブロンドに合わせた作業着すらも上品な、エリーゼ・フォン・オルデンブルク伯爵令嬢。
「おはよう、エリーゼ。……あの、これ、大丈夫そう?」
「ええ、ご覧になってくださいまし! みんな、こんなに元気に育っておりますわ!」
元気か。価値観の違いというやつかもしれないと、互いの葉を押し合いへし合い太陽光を求めて徒長した茎がもつれあう植物の群れを見て思う。
本来なら乾燥を好むはずのハーブが湿地帯のように水を含んだ土の上で腐りかけ、日陰を好むはずの花が光曜日の炎天下に晒されている。
水やりすぎ問題。そして、密植しすぎ問題。摘花をしないからトマトの実は小さく、支柱を立てないのでつる植物は地を這っている。
うーん、何から手をつけたものやら。
「エリーゼ。これ、間引きしないと。栄養を取り合って、みんな共倒れになっちゃう」
ひとまず一番深刻なところから指摘すると、エリーゼの輝く笑顔が曇ってしまった。
「間引き……ですか?」
「そう。元気な芽をいくつか残して、あとは抜くの。それにいらない花も摘まないと」
「そ、そんな……せっかく咲いていますのに、いらない花だなんて」
彼女は足元の小さな植物たちを見下ろして悲痛な表情を浮かべていた。人類を皆殺しにせよと言われた愛の女神みたいだ。
「わたくしが選んで、摘み取るのですか? そんな残酷なこと、できませんわ……」
「まあまあ、そうしないと実が大きくならないし。ただの残虐行為ってわけでもないよ」
私の区画のトマトは太い茎に支えられ、青々とした実をつけ始めている。一方、エリーゼのトマトはひょろひょろと細長く、葉の色も薄い。花は立派に咲いているのに実はプチトマトのようだ。もちろん、どっちにしろ食べられはするけれど。
「マリのトマトは、とても立派ですわね。どうしてわたくしは、うまくできないのでしょう」
エリーゼがしょんぼりとして肩を落とす。その姿は雨に濡れた仔犬のようで、見ているこちらの胸がちょっぴり痛む。
「植物を育てる時は、『水をやらない勇気』っていうのも大切なんだって」
「やらない勇気、ですか。でも、喉が渇いているかもしれないと思うと……」
「人間でも飲みすぎてたぷたぷだったら水は飲みたくないじゃない?」
「でしたら、たくさんお日様の光をあげますわ」
「う、うん……」
私はため息まじりに何とも言えない日本人的微笑を返しつつ、内心ではディートリヒの言葉を反芻していた。エリーゼは優しい。優しすぎる。
そして同時にあちらの世界では明言化されていた「優しい虐待」という言葉も脳裏に浮かぶ。
私もやってみてよく分かったけれど、植物を育てるという行為は平和で慈悲深いように見えて、実際には絶え間ない選択と淘汰の連続だ。
限られた土の栄養、限られた日光、限られた水。それを最大限に活かすためには不要な枝を払い、弱い芽を摘み、時には害虫を殺さなければならない。
すべてを救おうとすれば、すべてが共倒れになる。無秩序な優しさは、植物たちの狭い世界の中では毒になる。
「ごめんなさい。わたくし、また失敗してしまいましたのね」
「失敗ってほどじゃないよ。ただエリーゼは、全部に同じように水をあげちゃうでしょ? でも植物にもそれぞれ好みがあって、たくさん水がほしい子もいれば、あんまりいらない子もいると思うんだ」
「……ああ、そうですわね。それは分かりますわ」
教えれば理解してくれる。園芸のコツを掴むくらいならいずれはできるだろう。だけどそういう問題じゃないのだった。
ディートリヒは彼女の教育を試みて、諦めた。それは「教育」ではないからだ。理屈で理解させたところで情に絆されるのはエリーゼ自身の人格だから。
人の価値観は容易には変わらないものだし、他人が勝手に変えていいものでもない。
エリーゼは枯れかけた花を見つめて涙ぐんでいる。
「わたくしが、この子を枯らしたのですね。可哀想なことをしてしまいました」
どう言葉をかければいいのか分からなかった。
すべてを平等に扱っていたらすべてが中途半端になってしまう。エリーゼがディートリヒにそうしたように。
本当に守りたければ他のものを切り捨てて選ばなければならない。ディートリヒがエリーゼにそうしたように。
でもそれを教えることは彼女の性質を否定することになる。一方が間違っているわけでも、一方が正しいわけでもないと、どうやって説明すればいいのか。
「……小腹が空いてきちゃった。着替えてから厨房でも行かない?」
「お料理、なさるのですか?」
「うん。収穫した野菜を持って行って、ついでに何か作ろうよ」
「はい、是非行きたいですわ」
私の言葉を聞いた途端、エリーゼの表情がぱっと明るくなった。本当に分かりやすい人だ。その純粋さが可愛くもあり、危うくもあった。
王宮の厨房は昼食の準備で活気づいていた。忙しいところにきちゃったかな。
「あら、いらっしゃいませ。マリ様、それにエリーゼ様も」
厨房長のクララが作業の手を止めることなく、でも笑顔で迎えてくれる。
「ごめん、ちょっと場所を借りれる? 後でもいいんだけど」
「構いませんとも。奥の調理台を空けております」
「ありがとう。お邪魔します」
エリーゼの言動には貴族令嬢らしい品の良さが滲み出ていて、庭仕事用の簡素なドレス姿でもしっかり良家のお嬢様に見える。
その上からエプロンをつけると、なんというか、最高に「お嬢様、がんばってます」感が出ていて微笑ましい。
「わたくし、お菓子作りなら少し自信がありますの。でもお料理はそれほど得意ではありませんわ」
「お菓子作りのほうが難しいと思うよ。まあ失敗したって食べちゃえば同じだし、とりあえずやってみよう」
簡単にスープでもと思って野菜の泥を落として俎板に乗せる。包丁を入れようとする私をエリーゼは神妙な面持ちで見守っていた。
もしかして、野菜を切るのも負担なのだろうか。スーパーでパック詰めされた肉しか知らない現代っ子なら魚を捌くシーンだってショックを受けることもあるだろうけれど、野菜ですら?
育てた小麦を挽くところなんて見たらお菓子も作れなくなってしまうかもしれない。これは思っていた以上に大変だ。
その時、厨房の扉がノックされ、長身の影が入ってきた。
「失礼します。クララ殿、肉をお届けに……」
爽やかな声と共に現れたのは近衛騎士のフェリクスだ。エリーゼの表情が一瞬華やいで、硬直した。フェリクスの手には毛皮に覆われたままの大きな兎がぶら提げられていた。
「おや、マリ殿にエリーゼ様。お料理中でしたか」
「ちょっと気分転換にね。フェリクスは、今日は訓練じゃないの?」
「非番でして。同僚と近くの森で狩りをしておりました。厨房に差し入れようと思ったのですが、まさかエリーゼ様がいらっしゃるとは」
嬉しそうなフェリクスは世の中の淑女を虜にする笑顔を浮かべて獲物を掲げて見せた。
私が厨房に入り浸っているのはいつものことだけれど、彼にとってはエリーゼに遭遇したのは思いがけない幸運だっただろう。エリーゼにとっては、その手に思いがけない不運を持ってきてしまったけれど。
「スープを作ってらっしゃるので? 新鮮な肉ですよ。よろしければお使いになっては」
「ま、まあ……し、新鮮な……」
エリーゼの顔からさーっと血の気が引いていくのが分かった。彼女の視線は力なく垂れ下がった兎の耳や、まだ少し血の滲む傷口に釘づけになっている。
皮を剥いで、内臓を取り出して、肉を切り分ける……下拵えはクララにやってもらうとしても、兎はかなり食肉よりも愛玩に寄っている。私でもかなり厳しいかな。
フェリクスはすぐに状況を察したようで兎をテーブルに置き、さりげなくエリーゼの視界から隠すように立つ。私からは丸見えですが。
「失礼しました。レディにお見せするものではありませんでしたね」
「そうだねー。ちょっと刺激が強かったかも」
「いいえ! や、やりますわ。わたくし、やってみます」
「えっ」
「だって、お料理をするということは、命をいただくということですもの。わたくし、目を背けてはいけないのです」
エリーゼは真っ青な顔で、決死の覚悟を決めたようにナイフを手に取った。その手は小刻みに震えている。
彼女がお菓子作りや花を育てることが好きなのは、それで嬉しそうな顔が見られるからだ。誰かを喜ばせたい。目の前にいる人を笑顔にしたい。
でも、彼女の魂が死に触れることを拒絶している。フェリクスの後ろを覗き込んで兎に触れようとした瞬間、彼女の目からぽろりと涙がこぼれた。
「……エリーゼ様」
危なっかしい彼女からフェリクスが優しくナイフを取り上げて遠ざける。そして気づかないほど自然にいつの間にか血を拭っていた手で、彼女の震える肩にそっと触れた。
「無理をなさる必要はありません」
「でも……でも、これくらいできなくては……わたくしだって、お肉をいただいているのですもの」
「ええ。ですが人にはそれぞれ領分というものがあります。私は騎士ですから、剣で肉を断つことに慣れています。生きるために命を奪うことも仕事のうちです。貴女は違います。この美しい手を白く保つために、我々がいるのです」
「フェリクス様……」
さすがは騎士道の男、言葉選びがうまい。あくまでも紳士的に、淑女の体面を傷つけることなく諭してくれた。
こう言うのは申し訳ないけれど、ディートリヒにはない器用さだった。
「それに、正直に申し上げますと」
フェリクスの爽やかな笑顔は場の空気をあっさりと変えた。
「肉を食べなくても生きていけます。しかし貴女が作ってくださる菓子がなければ、私は生きる楽しみがなくなってしまいます。私は断然あちらのほうが好きですね」
「お菓子、ですか?」
「はい。甘くて、優しくて、食べた人が自然と笑顔になる。それこそがエリーゼ様の魔法です。無理に向いていないことをして、その笑顔を曇らせることはありません」
エリーゼは瞬きをして、溢れかけた涙を拭った。
「わたくし……わたくし、クッキーを焼きますわ! とびきり美味しいのを!」
「楽しみに待っています」
フェリクスが兎を手に奥の処理場へと消えていくと、エリーゼは憑き物が落ちたように生き生きと小麦粉を計り始めた。ほとんど無意識にてきぱきと作業を進める彼女はプロフェッショナルに見えた。
「ほんと、お菓子作りは得意なんだね」
「子供の頃から作っておりますから。両親や、使用人の方々に喜んでいただけるのが嬉しくて……。わたくしも、とても幸せな気持ちになるのです」
「そっか。焼き上がったらフェリクスにも差し入れたら?」
「はい! とっても楽しみですわ!」
得意なことと苦手なこと。好きなことと嫌いなこと。無理してできないことをする必要はない。笑っているエリーゼのほうが、彼女らしいもの。
もしも彼女が将来的に王太子妃を目指すのなら、苦手だからでは済まなかった。でもただの優しい奥さんになるのに施政者の資質なんて求められはしないのだ。
私だってあちらの世界で肉を食べる時に自分で牛や豚を捌いていたわけじゃない。料理だってろくにしなかったから、生肉や生魚に触れるのもそんなに得意ではなかった。
誰もが自分で殺すのは難しい。できない人がいるからこそ、それが仕事として成り立っているわけで。べつに恥ずべきことではない。
「まあ、トマトの花を摘むくらいはできるようになって損しないと思うけどね。将来の旦那さんにおいしいごはんを作るためにも」
「旦那様、ですか……?」
「リーゼロッテ様だって言ってたじゃない。真実の愛を探しなさいって」
ああ、口が腐りそうだ。ミンネザングは性に合わない。でも『真実の愛』という甘ったるい言葉が嫌味なく似合ってしまう根っから淑女のエリーゼは、誰を思い浮かべているのか顔を真っ赤にして俯いた。
その後、オーブンから取り出された彼女のクッキーは形も焼き色も完璧な出来栄えで、厨房いっぱいに広がった甘い香りに私も料理人たちも大層癒されたのだった。




