咲かなかった恋の話
執務室の重厚な扉が開くと、相変わらず書類の山に埋もれてディートリヒが仕事をしていた。
「マリ。何か用か? 見ての通り私は今、来期の予算案という名の魔物と戦っている最中なのだが」
「差し入れです。もらった花が咲いたので」
私が机の上に鉢を置くと、ディートリヒの視線が花に吸い寄せられた。
「ああ、『エリーゼ』だな」
「はい。きれいに咲きました」
「……そうか」
彼は花に手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れたら壊れると思っているかのような仕草だった。
「エリーゼは、何も気にしていなかっただろう」
不意にディートリヒが呟いた。一瞬意味が分からなくて首を傾げる。どっちのエリーゼの話? 人間のほうか。
ディートリヒがくれたものだとは伝えなかったけれど、エリーゼは確かに一緒に庭仕事をしていても育っていく『エリーゼ』に反応を示さなかったと思う。
他のどんな花とも同じ、花をつけない草木とも同じように、きれいね、と微笑んでいただけで。
「そのはずだ。彼女は私に興味がないからな」
ディートリヒは端的に断じた。私が「なぜ婚約破棄なんかしたのか」と尋ねて「エリーゼは頭が悪いから」と答えた時と同じくらい、率直で悲しげな言葉だった。
「興味がないって。婚約者なのに?」
ましてそれを、エリーゼからすれば心変わりによって一方的に破棄した相手なのに。恨みこそすれ興味がないなんてことはないのじゃないだろうか。
でも私よりもずっとエリーゼのことを理解しているディートリヒは、万年筆を置いて諦観の息を吐いた。
「彼女は私を愛してくれた。それは間違いない。だが、それは『婚約者だから』だ。私に恋していたわけではない」
「でもほら、婚約を解消するって言われた時、泣きそうになってたじゃないですか、エリーゼ」
「自分の至らなさによって義務を全うできなかったのだと勘違いしたからだ。私の裏切りに傷ついたわけではない。……現に、私とすれ違っても彼女は今までと変わりなく接してくれる。“敬愛”すべき王太子として、な」
「え、可哀想」
思わず口に出してしまった。
「同情はやめたまえ。虚しくなるじゃないか」
だからディートリヒは庭を訪ねてくる時もエリーゼを避けているのか。完全に「平気」な彼女を見るのがつらいから。
これではどっちがフラれたのやら分からない。どっちもフラれてはいないのだけれど。
ディートリヒは椅子の背もたれに体を預けた。相変わらず整いすぎた美しい顔立ちをしているのに、セルギウスよりもよっぽど老成して見える。
「物心つくかつかないかの頃に婚約が決まった。私が五歳、エリーゼが三歳の時だ」
「早いですね」
「王族の婚姻などそんなものだ。オルデンブルク伯爵家との結びつきを強固にするための取り決めだった」
でも、エリーゼは政略結婚だからと言って悲嘆に暮れて婚約者を愛せないようなお嬢さんではないはずだ。実際、私が現れるまで二人は仲睦まじさで知られていたというし。
「初めてエリーゼに会った日のことを覚えている。小さくて、泣き虫で、とても優しい子だった。転んだ私に駆け寄って、自分のハンカチが汚れることも気にせず私の傷を拭いてくれた。私の代わりに涙を流しながら」
その声には懐かしさと痛みが複雑に入り混じっていた。
「私は当然のように彼女に恋をした。一人の人間として、男として彼女を愛した」
「……一目惚れ?」
「君に言われると安っぽく聞こえるな」
「すみません」
だって五歳の子供が三歳の子供に一目惚れというのは、ちょっと微笑ましすぎる。それだけに結末が、なんというか気の毒だ。
「成長するにつれ、エリーゼは身も心もますます美しくなった。誰に対しても分け隔てなく接し、困っている人を見れば放っておけない。……エリーゼは誰に対しても同じように優しい。民にも、貴族にも、使用人にも、そして私にも」
それはつまり、彼女にとって『特別な人』などいないということだった。
エリーゼは純粋で善良な、博愛の人。だから政略によって結びつけられた婚約者であるディートリヒのことも当たり前に愛してくれた。
そして婚約関係が解消されれば、当たり前のようにそれを受け入れた。
まさしく“彼女はディートリヒを愛しているけれど、興味がない”のだ。
「私は何度もエリーゼの気を引こうとした。詩を贈り、花を贈り、共に過ごす時間を作った。彼女に恋してほしかった」
ディートリヒは十数年もの間、自分を見てくれない相手に対して一方通行の情熱を燃やし続けてきた。ちょっとストーカーじみているくらい純粋に、熱烈に。
「ある時、彼女が街で出会った孤児に自分の宝石を与えたことがあった。私は嫉妬すらできなかった。彼女にとって、私とあの子供は同じだった」
自分に当て嵌めれば「重くて鬱陶しいな」と思うほどだけれど、ディートリヒの口から聞かされているとなんだか胸が痛くなってきた。確かに切ない。
ディートリヒは『エリーゼ』の花をもう一度見つめた。
「彼女は私がどんな想いでこの種を選んだかも知らない。知ろうとはしない。ただ慈しんでくれる。この花でなくとも、贈ったのが私ではなくとも。それがエリーゼだ」
沈黙が落ちる。重苦しい空気だった。私は何と言えばいいのか分からなくて、とりあえず窓の外を見た。
青い空、白い雲。ああ、平和な光景だなあ……。
リーゼロッテ様に結びつけられ、フェリクスの都合で近づくことになり、エリーゼと親睦を深めてきた。私にもなんとなく分かる。
道端に倒れている浮浪者にも、自分を害そうとする政敵にさえも、同じように慈悲の微笑みを向けて手を差し伸べる。そんなエリーゼの姿が容易に想像できた。
「愛される王妃にはなれるんだろうけど」
「そうだな。彼女は惜しみなく愛情を与えさえすれば理想は実現されると信じている。私は、私が政治を担えばエリーゼはそのままでいて構わないと思っていた」
でも、あの慈善事業の件が起きてしまった。エリーゼの無思慮な善意が経済に混乱をもたらした。
「エリーゼは心を痛めた。彼女は頭は悪いが愚かではない。自分が人を傷つけたことを理解していた。私と結婚すれば、彼女は何度でもあんな顔をすることになる」
王太子妃として、次期王妃として。非情な判断を迫られて冷静に決断をくだし、時には誰かを切り捨てなければならない。
エリーゼにはそれができない。
庭仕事をしている時、彼女は雑草を抜くことを嫌がる。害虫を駆除できない。それらすべてが彼女にとっては等しく愛すべき生命だから。
だけど政治とは選択の連続だ。限られた資源を誰に配分するか。誰の意見を採用し、誰の意見を却下するか。生かすために適切に殺すことが施政者に求められる資質だった。
「裁判なんてさせたら、有罪判決一つ出すたびに心が死にそう」
私の言葉がストレートすぎたのか、ディートリヒはナイフで刺されたみたいな顔をした。
「彼女に裁判官は務まらない。原告も被告もどちらも救うべきだと言うだろう」
そしてディートリヒは頭を抱えた。
「税の徴収も無理だ。『皆さんに苦労はかけられません』と言って免除してしまう。外交もできない。敵国の大使にすら同情して、機密情報を漏らしかねない」
彼女に恋し、彼女を深く愛してきたからこそ、ディートリヒは分かってしまったのだ。王太子である自分だけは彼女と結婚してはいけないことに。
完全に詰んでいる。エリーゼは素晴らしい人格者であっても王妃に向いていないのは明白だった。
いくらでも次の求婚者は現れるだろうと言ったディートリヒの声の震えを思い出す。
「正直、エリーゼが他の人とくっついても大丈夫なんですか?」
フェリクスとか、かなりうまくやっている。平民あがりで領地を持っていないとの話だけれど、オルデンブルク家には彼の出自など問題にならない資産があるようだ。本来エリーゼはただ自分の好みだけで結婚相手を選べる身分だった。
ディートリヒの顔があからさまに強張る。
「……耐え難い」
「ですよね」
「だが、彼女が幸せならそれでいい」
「本当に?」
「本当だ。私は彼女を愛している。だからこそ、彼女の幸せを願う。たとえそれが私の手の届かない場所にあったとしても」
不意に大学時代の友人を思い出して切なくなった。彼女は推しの熱愛発覚に血涙を流しながらも歯を食いしばって「幸せならOKです」とSNSで祝福していた。
「ちゃんとエリーゼを愛してくれる男なら譲ってやろう、って感じですか」
「その条件なら私に敵う者はいない」
即答だった。自信満々すぎて笑ってしまう。
「重要なのはエリーゼ自身の気持ちだ。彼女を愛さない人間など、どんな世界にも存在しないのだからな」
まあ、うん……そこまで言う? いや、そうかもしれない。嫌うのが難しい人柄であるのは確かだった。
この男、外面はクールな王子様だが、中身は粘着質な情熱の塊だ。エリーゼの博愛に甘えて結婚してしまうことだってできたのに、あくまでも彼女自身の主体性を尊重したいのだ。
「私は誰よりもエリーゼを愛している。だが彼女はもっと分かりやすい恋でなければ……甘い恋人を演じられる男にでなければ、彼女も恋をできない」
彼女の「頭の悪さ」は厄介だ。知能が足りないのではなく、いわば幼児が厳しくも優しい両親より年末年始にだけ会う祖父母に懐くような無分別。
ディートリヒは国の未来を背負う王太子で、個人的な愛情のために責任を放棄することはできない。施政者としての義務を背景とする王太子の愛にエリーゼは、貴族の義務を背景にした婚約者の愛を返してしまう。
彼と結婚したとして、エリーゼは良き妻、良き母になってくれるだろう。でもそれはディートリヒにとって最も愛しい相手の人生を奪う行為なのだった。
「ちょっと思ってたこと言ってもいいですか」
「なんだ」
「私、あなたを愛してないですけど」
ディートリヒは短く笑った。
「私は愛など求めない。君もそうだろう」
「確かに」
私は恋愛に興味がない。社畜生活で消耗したせいもあるのだろうけれど、ここで癒されても恋愛の欲求は湧いてこない。もともとそういう性質だったのだ。
彼は有能な経営者であり、ビジネスパートナーとして理想的な相手だ。それ以上にもそれ以下にもなりはしない。愛が求められないのならディートリヒの思惑に乗ること自体に異論はないのだけれど。
ただ、白い結婚となると気になることもあるわけだ。
「後継ぎとか大丈夫なんですかね?」
ディートリヒ王太子殿下には弟妹がいない。結婚するのはいいとして、子作りはしたくなかった。
「問題ない。父上が激務から解放された今、私に弟ができる可能性は充分にある。現に最近の父上は妙に若々しい」
「……」
元気だな、国王陛下。でも確かにリーゼロッテ王妃はまだまだ若々しいから、これから第二子が生まれても不思議ではないかもしれない。
「それに公爵領にいる甥や姪も優秀だ。私が無理に直系を残す必要はないのだ」
じゃあ、まあ、いいか。結婚しても。
聖女としてここにいて、呑気に美味しいものを食べて、のんびりと庭いじりなどして、それだけでこの世界が救われるというなら割のいいお仕事だ。
私は『エリーゼ』の花を指差した。
「大事にしてくださいね。婚約者が育てたんですから」
彼は花を見つめて少し淋しそうに微笑んだ。
「ああ」
一方通行の恋。それでもディートリヒは一途にエリーゼの幸せを願い続ける。この先もずっと。
ディートリヒの執務室を出て庭に帰ると、ミリアの隣でエリーゼが花に水をやっていた。
「マリ、今日は遅かったですわね」
「ごめんごめん。ちょっと寄り道してて」
「また何か新しい花を植えますの?」
「花もいいけど、トマトでも育てようかなー」
「よい考えですわ! できた果実で温かいスープを作って、皆さんに振舞いましょう」
「果実……トマトって野菜だっけ、果物だっけ」
なんて些細な疑問をもうスマホで調べることもできないけれど、そんなことすぐに忘れてしまうくらい毎日が色彩豊かに過ぎていく。
ソース・シンクバランス。
エリーゼは愚かではない。もしもディートリヒとの婚約関係が続いていたら、きっと自分で言っていたように「もっと勉強して、もっとがんばって」王太子妃に相応しくなろうとしたに違いない。
目先の慈善行為ではなく大局を見て他者を「選択」できるように。彼女を愛していない他人はそれを成長だなんて呼ぶのだろうが、ディートリヒはそうしなかった。
彼はエリーゼを王太子妃の枠に押し込めることなく、彼女自身のままでいられるほうを選んだのだ。たとえ自分の恋を捨てることになっても、エリーゼを実らせるために。
心の底から可哀想な、そして最も尊敬に値する婚約者を、末永く見守ってやろうじゃないかという気持ちになっていた。




