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遥かなる恋人に  作者: Ono


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7/22

先代聖女

 人間というのは環境に慣れる生き物で、どれほど奇妙に思える異世界でも一定のリズムを作ってしまえばそれは私に適した日常になった。


「マリ様、おはようございます。本日の朝食は採れたてベリーとアイスクリームを添えたふわふわパンケーキ、新鮮なミルクのポタージュでございます」

「おはようミリア。ありがとう」

 怠惰にも着替えすら済ませずベッドで朝食をとったって、ミリアも誰も怒らない。怒るどころか彼女はサイドテーブルでアイスクリームを食べながら一緒に朝を過ごしてくれる。

 これが現代日本だったら私は今頃、満員電車のドアで顔を押し潰しながら自分の人生のどこからボタンが掛け違っていたのかを呆然と考えていただろう。

「本日のお召し物はどうされますか?」

「んー、動きやすいのがいいな。午後はエリーゼと庭仕事だし、あれもあるし」


 朝食を済ませた後の私のルーティンは、もはや騎士団の間で一種の怪異として定着しつつあった。

 中庭で行われる近衛騎士団筋肉祭り、もとい朝の訓練を眺めながら覚えている範囲でラジオ体操を行う。

「……腕を前から上にあげてー、大きく背伸びの運動ー。いち、に、さん、し……」

 最初は「聖女様が謎の祈祷を捧げている!」とざわついたものだが、今では私が現れるとちらほら真似をする人が出始めていた。

 あちらの世界でもそう知られていたようにラジオ体操は究極的に効率の良い運動となっているらしく、筋肉を愛し筋肉に愛された騎士たちにかなり好評だった。


「下半身が鍛えられないところだけが惜しいですね」

 すでに私の動きを完璧にマスターしているフェリクスが呟く。一曲まるごと記憶しているわけではないから私のお手本自体が不完全なのだけれど、確かに足腰を鍛えるようなパートはあまりなかった気がする。

「マリ殿、是非とも屈伸とスクワットを足しましょう」

「うん、お好きにどうぞ。私はそれはやらないけど」

 そのうちアレンジが加わって体系化された「フェリクス体操」として定着しそうな勢いだ。ラジオ体操第一、恐るべし。その健康な肉体への執着は異世界の屈強な男たちをも惹きつけるらしい。


 午前中は図書室で本を選んで、お気に入りの木陰で読書に励む。ここ最近はエルハーフェン王国の歴史書や魔法理論書を読み漁っていた。知識が増えるのは純粋に楽しい。

 お昼は厨房でクララたちとおしゃべりしながら料理を嗜む。新作メニューを誰よりも早く味わわせてもらい、プロの監督のもとで今度は何を作ろうかと考える時間が至福だった。

 そして午後はエリーゼが庭にやってくる。ミリアも加えて三人で土いじりをして、花や野菜の成長を穏やかに見守った。

 日が暮れ始めたらフェリクスがエリーゼを送り、私は部屋に戻ってお風呂に入る。

 夕食のあとは読書の続きをしたり、あるいは窓からぼーっと夜景を眺めて、眠くなったら毎日ふかふかで清潔に保たれているベッドに倒れ込む。


 完璧なルーティン。完璧な日常。健やかなる一週間。


 風曜日の朝、ふと先日のセルギウスの言葉を思い出した。

『聖女様には魔力が一欠けらもございませんな』

 一国の聖女を捕まえてなんて言い草だろうか。

「マリ様、今日は図書室の後、どちらへ?」

「ちょっと魔法研究室に行ってみようかな」

 魔力が一欠けらもない。それはつまり、私はこの世界で魔法を使えるようにはならないということなのだろうか。


 魔法研究室は王宮の北棟にあった。私が呼ばれた「召喚の間」と同じ建物だ。

 石造りの廊下を歩いていると奥のほうから薬品臭い独特の匂いが漂ってくる。白い扉をノックして、中から若い女性が顔を出した。

「あら、聖女様! いらっしゃいませ」

 彼女はソフィア・ブラウン。研究室に勤める若き神官見習いで、セルギウスの弟子らしい。

「お忙しいところすみません。ちょっと質問があって」

「もちろん、どうぞ。セルギウス様をお呼びしますね」

 ソフィアが呼び鈴を鳴らすと、研究室に張り巡らされた伝声管のような筒を伝って音がセルギウスのもとへ駆け抜けていく。魔法効果でより速くより遠くへ届くらしいけれど、やっぱりどうしようもなく地味だった。


 研究室は結構ごちゃごちゃしている。本棚には図書室にあるよりも専門性の高そうな書物が並び、ソフィアの机の上には魔方陣の図面や測定器具が散らかっていた。

「あの……ソフィアも魔法を使える?」

 単刀直入に聞いてみる。ソフィアは驚いたように目を瞬かせた。

「もちろんです。お見せしましょうか?」

「えっ、見たい!」


 彼女は本棚から適当な書物を取り出した。開かれて初めて分かったのは、米粒みたいに小さな字がぎっしり詰まっていること。死ぬほど読みにくそうだ。

「本当は土の魔法をお見せできればいいのですが、私は光魔法が得意なのでご容赦くださいね」

「いや、光魔法のほうがいいよ」

 土はもうお腹いっぱいだよ、と言えるほどたくさん見せてもらったわけでもないけれど。

 開いた本のページの上でソフィアの指先が円を描く。するとそこに透明な円盤状の膜が現れた。それを通して本に書かれた文字が大きく見える。

 えっと、これはもしかして……。

「マジックレンズという魔法です」

 光の屈折を見せられただけだった。いや、すごいけど。すごいけれども! 要するにそれは「場所をとらない虫眼鏡」だ。


「消費魔力が少ないうえに、これがあれば字を極限まで小さくできます。つまり紙の節約にもなるのです」

「そうなんだ」

「執筆は水の魔法でインクを操って行います。セルギウス様ほどの精密性がなければ、こんなにも小さな字を書くことは難しいのです!」

「すごいね、さすが神官長……」

 すごいけど、地味なんだよなあ。


 やがて呼び出しを受けて胡散臭い、じゃなくって、柔和な笑みを浮かべたセルギウスがやってきて、ソフィアが魔法ではなく普通にお湯を沸かして淹れてくれたお茶を飲みながら差し向かいで話すことになった。

「マリ様。このようなむさ苦しい場所にどのようなご用件で?」

 魔法研究室って、もっと色とりどりで華やかなイメージだったな。

「前にセルギウスさんが言ってたことについて聞きたくて。私って、魔力がないの?」


 セルギウスは法衣の袖を整え、講義でも始めるかのように人差し指を立てた。

「そうですな。そもそも『魔力』とは、この世界の動植物が魂に宿している根源的なエネルギー。大気に溶け込み、命の中に流れているものです。マリ様が生まれ育った世界には、魔法が存在しましたか?」

「ないですね。ゲームとかアニメとか……物語の中にはあったけど」

 ではそれが原因だろうとセルギウスが頷いた。魂の構造そのものが違う。私には魔力を宿す器官のようなものがそもそも備わっていないのだ。


「マリ様の魂は世界の理から外れた、いわば空の器。それが浄化の魔法に代わって周囲の荒ぶる魔力を吸い込み、正常化するという聖女の役割を果たしておられるのでしょう。自ら魔法を生み出すことはできずとも、魔力を統べることはできる。それがあなた様の聖女たる所以です」

 なんだか魔力の差込口コンセントにでもなった気分だ。エネルギーの供給はできても私自身に発電の能力はない。つまり、派手な魔法を使えるようにはならない。

 聖女というからには聖なる魔法の一つや二つ、使ってみたかったというのが本音だった。


 そういえば、他の聖女はどうだったのだろう。本に書かれているのはそれこそ歴史に残る代々の聖女ばかりで、つい十年前に亡くなったばかりの先代についてはまだ文字上の記録が少なかった。

「先代聖女様はどんな感じだったんですか?」

 私がそう尋ねたら、セルギウスの表情が柔らかくなった。

「ガートルード・ファン・グリュン様は、土の魔法に非常に長けていらっしゃいました」

「はあ。土の魔法……」

 またか。この国の人たち、土魔法が好きすぎる。


「ガートルード様は穏やかで優しいお方でした。庭を愛し、植物を慈しみ、その手で触れたものすべてが生命力に満ちていくようでした」

 セルギウスは遠い目をしている。十年前に九十八歳で大往生したということは、彼が幼い頃には「年上のお姉さん聖女」だったことになる。

「今日、土の魔法が騎士団や民の間で高く評価されているのは、間違いなくガートルード様の影響でしょうな」

「なるほど」

 聖女様が高い実用性を示したからこそ憧憬として残されている面もあるわけだ。

 もしそのガートルード様が派手好みの火魔法の使い手だったりしたら、今頃は騎士団も「紅蓮の炎を纏わせた一撃必殺の剣!」とかやっていたのかもしれない。それはそれで、あれだけれども。


 あまり個人的な内面を見せないセルギウスが、先代聖女様のことを語る瞳はどこか穏やかで懐かしそうに見える。

「もしかして、ガートルード様のこと憎からず思ってました?」

 少し意地悪な質問を投げかけてみると、老神官はいつものように胡散臭い、でも親しげな微笑みを浮かべた。

「マリ様。人の間にある絆は、色恋だけではございません。……私は彼女の作る、瑞々しいトマトが大好きだったのです」

 まあ、それはそうか。私自身も恋に現を抜かすタイプではないし、現実主義的なセルギウスが聖女様に一途な憧れを抱く姿というのは想像がつかない。

 もっとドライで、だけど親密な、信頼のおけるビジネスパートナー。そんな感じだったのかもしれない。


 魔法研究室を出て廊下を歩いていると、ミリアが小走りで追いかけてきた。

「マリ様! お庭にいらしてくださいませ!」

「どうしたの?」

「『エリーゼ』が咲きました!」

「えっ、もう?」

 慌てて庭へ向かう。ディートリヒが贈ってくれたあの薬草が、薄いピンク色の可憐な花を咲かせていた。

「かわいい」

 小さくて繊細な花びらが陽光を浴びて輝いている。名前の通り、エリーゼにぴったりの花だ。


 この世界にはもともと明確な四季がないらしい。属性の影響によって曜日ごとに気温や天候が大きく左右される。

 ただし聖女がエルハーフェン王国に鎮座することで気候の変化が穏やかになり、常春に近くなるのだった。

 私がこちらにやってきて約一ヵ月。エリーゼの花が「この暖かさなら咲いてやってもいいかな」という気になる程度に、世界の魔力は安定してきたようだ。

「これ、ディートリヒに届けてあげようかな」

「素敵なアイデアですわ。花に似合う鉢をご用意しますね」

 手際のいいミリアはすぐに上品な陶器の植木鉢を用意してくれた。花を丁寧に移植する。桜に似た淡い香りが鼻腔をくすぐった。

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