王妃の庭
静かな緊張感に満ちたお茶会の後、私は自分の部屋へと逃げ戻った。高貴な方々との会話はサービス残業三時間分くらいのエネルギーを消費する。
「ミリア、土を触りたいよ……」
「えっ? 土、ですか?」
「なんかこう、生産性のある手作業をしたい」
大工仕事でもいいけれど、そこまで疲れたくはない。ベランダでプチトマトを育てるレベルの仕事がしたい。
まさか自分から「働きたい」と思う日がくるなんて。社畜からニートへ、生活が激変しすぎて反動がきたのだ。
そしてミリアが案内してくれたのは、王宮の一角にある小さな庭園だった。薬草が植えられていて、色とりどりの花が咲いている。
誰の庭だろう。勝手に弄って大丈夫かな。ミリアが連れてきてくれたのだから、許可は得ているのだろうけれど。
「王妃様がマリ様に、と。もとは代々の王妃様が使っておいででしたが、十年前までは先代聖女様がお世話をしてくださっていました」
「うーん」
抜け目ない、リーゼロッテ様。聖女として次期王妃として私に引き継げというメッセージを感じざるを得ない。まあ、もらえるのならありがたくいただこう。
作業用の簡素な服に着替えて、庭の隅にある手つかずのスペースにしゃがみ込んだ。
ミリアに頼んでいくつかの花の苗と野菜の種を用意してもらった。まずはこれを植える場所づくりだ。
「ここ、整備しちゃってもいい?」
「もちろんでございます! 私もお手伝いいたします!」
私が住んでいたコンクリートジャングルでは、土に触れる機会なんて駅までの道にある植え込みを見る時くらいだった。
「マリ様は本当になんでもお上手ですね」
「こんな作業に上手も何もないと思うけど……ありがと」
自分の手で土を掘って石や雑草を取り除いていると、恵みや慈しみという言葉を自然と受け入れられるような気がする。
ミリアと二人で作業に没頭していると、背後から低い声がかけられる。
「……マリ。何をしているんだ?」
「あ、ディートリヒ殿下」
通りすがりの彼は執務服のままで、怪訝そうにこちらを見ていた。ミリアが慌てて礼をしようとするのを制して苦笑する。
「聖女が泥にまみれて庭弄りとはな。庭師の仕事を奪ってくれるなよ」
「そこまで本格的なことはしないです」
やろうと思ってもできないだろう。
「ほら、私がこうして触ってたら魔力が安定して、いい土になるかもしれないし?」
適当なことを言ってみたらディートリヒは少し黙り込んだ後、なるほどと頷いた。あれ、冗談だったのに。
「それは考えるに値する。経過を記録するよう魔法研究室に命じておこう」
「え、あの、ただの息抜きにしたいんですけど」
「ああ。君に手間はかけさせない。好きに使うといい」
そもそも先代聖女の長年の浄化があったから今まで保たれていたのかもしれない、とかなんとかぶつぶつ呟きながらディートリヒは職務に戻っていった。
「王太子殿下は、本当にいつも真面目でいらっしゃいますね」
ミリアはその後ろ姿に尊敬の眼差しを向けている。
「真面目と言えば真面目なんだろうけど」
稀にいる、根っから仕事が好きすぎるタイプの人間だ。働くことがそのまま生き甲斐になるなんて、ある意味で羨ましくはある。
その翌日、ディートリヒから花の種の贈り物が届いた。
ミリアによると陽光を浴びて薄いピンクの花を咲かせる、『エリーゼ』という名のかわいらしい薬草らしい。
王太子殿下が仕事以上に大好きなものがここにあった。まだ未練たらったらのようだ。
それから毎日の趣味の一つに庭仕事が加わった。いずれはこの庭で野菜を収穫し、それを使って厨房でおいしいものを作って食べるのだ。
そんな目論見が育つ庭園に、思わぬ来客があった。
「マリ様、お客様が……」
困惑した様子のミリアの声に顔を上げる。庭の入り口に立っていたのはエリーゼだった。作業服姿で泥だらけの私とミリアを見て目を丸くしている。
「エリーゼさん。どうしたんですか?」
「わたくし、フェリクス様に……騎士団の方に案内していただいて、こちらに」
おお、訓練所にきてくれない彼女をフェリクスのほうから迎えに行ったのか。ライバルは着実に前進している、どうするディートリヒ殿下。
でもどうして私の庭に連れてきたんだろう。……あ、そうか。フェリクスは私の護衛を任されているから、エリーゼが私と親しくなってくれたら彼女に近づきやすくなるのか。
「何をなさっているのですか?」
「庭作りです。エリーゼさんもやりませんか? 土を触ってると癒されますよ」
私は半分やけくそで彼女を誘った。王妃も密かに顔色を窺う有力貴族のご令嬢が相手だもの、実情は違うとはいえ私も「婚約者を奪った異世界人」という立場は脱却しておきたいところだ。
お淑やかな名家のお嬢様が土なんて触りたがらないかとは思ったけれど。
「……わたくし、やってみたいです」
エリーゼは決然とした表情で靴を脱ぎ、裸足になって私の隣にやってきた。
「えっ、その格好で」
「エリーゼ様! お召し物が汚れますわ!」
ミリアが慌てて予備の作業着を持ってきてくれるとエリーゼはそれをぎこちなく着こなし、私の隣に座り込んだ。
「ここに穴を掘ればいいのでしょうか?」
「そうそう。で、そこに苗を置いて、土を被せて」
「はい。……ふふ。なんだか、お料理に似ていて楽しいです」
「もの作りという意味では似てるかも」
一国の聖女と、元王太子妃候補の伯爵令嬢、そしてメイド。三人の女性が泥まみれになって庭仕事をしている。変な光景だ。
その日以来ガーデニング部にエリーゼも加わり、彼女は毎日私を訪ねてくるようになった。
「マリ、そちらは薬草ですわ」
「あっ。ほんとだ。抜いちゃうとこだった」
エリーゼがくすくす笑っている。花が綻ぶような笑顔とはよく言うけれど、実際彼女はとても愛らしい。顔の作りからして美少女なうえに人柄の良さが滲み出ている。
ディートリヒに見せられた報告書のことが頭に浮かんだ。
あれは確かに施政者として致命的な欠点だけれど、エリーゼなら夫の隣でのほほんと微笑んでいるだけでもそれなりに良い王妃になれそうな気がしてしまう。
ましてディートリヒ殿下は彼女のことをよく理解しているようなのだから、二人で乗り越えていくこともできたのではないだろうか。
それともやっぱりディートリヒが仕事人間すぎて、お馬鹿な婚約者への愛よりも王太子の使命を優先させたということか。
「そうは見えなかったけどなあ……」
背筋を伸ばすついでに空を仰ぐと、新たな訪問者が私の顔を覗き込んでいた。
「何をやっているのですかな、皆さん」
矍鑠とした老人、神官長セルギウスだ。
「聖女様、庭仕事とは良い趣味をお持ちで」
白髭を揺らして目を細めるセルギウスは満足そうに頷いた。
「リーゼロッテ様もお喜びでしょう。近頃はなかなか手をかけられず、先代聖女の愛したお庭を枯らしてしまうのかとお嘆きでしたからな」
「はあ。恐縮です」
この人はどうあっても私を救世主扱いしたいようだ。聖女を召喚した張本人なのだから当然のことかもしれない。
久しぶりに顔を見たことだし、一応聞いておこう。
「ところでセルギウスさん、私を元の世界に帰す方法って見つかりました?」
「いいえ。まだでございます」
「……本当に探してます?」
「もちろんでございます。召喚の魔方陣自体がようやく見つけ出された非常に高度な術でして、送還となるとまた容易には参りません」
嘘くさい。本当はもう分かっていて隠しているんじゃないだろうか。あるいは最初から帰る方法なんて存在しないのか。
でも今の私は厳しく追求する気もなくなっていた。
充実した日々、心地よい疲労感に包まれながらミリアやエリーゼの他意のない笑顔を見ていると、すべて「まあいいか」と許せてしまうのだ。
「今はいろいろ楽しいので、急がなくてもいいですけどね」
「それは結構なことです」
セルギウスはにこやかに笑って、なぜか法衣の袖をまくった。ん?
「私もお力添えいたしましょう。土の魔法は得意ですぞ」
みんな土魔法ばっかり使う。私にファンタジーらしい魔法を見せてくれたのは、今のところリーゼロッテ様だけだ。
一国の聖女と、元王太子妃候補の伯爵令嬢、メイド、さらに神官長が加わって土いじりをしている。シュールな光景だ。
でも、ちょっと楽しい。
「マリ様、このハーブは魔力を高める効果があるんですよ!」
「そうなんだ。じゃあこれでパン焼いたら私も魔法が使えるかも」
「残念ながら、聖女様には魔力が一欠けらもございませんな」
「一欠けらも!?」
「この草、抜いてしまうのは可哀想ですわ。このまま育ててはいけませんかしら」
「エリーゼ、それ雑草だから。抜かないと栄養とっちゃうから」
かつての王妃の庭園は混沌の集まる場所になった。
私、ミリア、エリーゼ、時々セルギウス、それにエリーゼがいる時に限ってフェリクスと、エリーゼがいない時に限ってディートリヒも顔を出す。
不恰好ながらも居心地のいい、私の家庭菜園だ。
夜、温かいのに肌触りが滑らかすぎて着ていることを忘れそうな寝間着を羽織って、一人でバルコニーに出た。眼下に広がる街並みにぽつぽつと明かりが灯り始める。
空には日本で見ていたものよりもずっと大きくて鮮やかな星が瞬いていた。
私は聖女として、この国に最大限の尊重を受けて迎えられている。衣食住は完璧。娯楽も充実している。退屈すれば適度な仕事すら与えられる。
仕事……王太子ディートリヒとの婚姻も、私の中では仕事の一部だった。恋愛感情はない。求めてないし、求められてもいない。
このエルハーフェン王家という組織は極めて有能だ。
前の世界の上司たちは自分の手柄のために部下を犠牲にした。けれどディートリヒは、エリーゼの心を守るために自分を犠牲にする。
リーゼロッテ様は国の安定のために私という異物を取り込み、「嫌がる」という選択肢を巧みに潰している。
単純明快で血の通わない論理を振りかざすのではなく、人を想い、責任を果たし、そのためのコストとして私的な感情や評価を惜しまない。
確固たる現実を土台に幻想を形作る、彼らは信頼できる経営者なのだ。
隠居した大企業の名誉会長が、豪邸で何不自由なく好き勝手に暮らすような聖女生活。
ディートリヒと結婚して王太子妃になるのは、いわば優良企業の経営者夫人になるということ。
そこに愛が求められないビジネスライクな関係ならそれほど悪い話ではない。
「……さすがに短絡的すぎるかな」
自嘲と自戒をこめて息を吐き、部屋に戻ってベッドに飛び込む。
帰らないと宣言するのはまだ早い。でも、あの暗い部屋で一人、期限切れの納豆を食べる生活には戻りたくない。
どうせ外堀が埋められるつつあるのなら、自分から一番居心地のいい場所に座りに行ってやる。
日本の社畜として培われた空気読みと適応能力は、この職場でもきっと通用するはずだ。




