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遥かなる恋人に  作者: Ono


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3/22

聖女の仕事

 朝の光が優しく瞼を撫でる。心臓を握りつぶすようなアラーム音ではなく、ミリアの「おはようございます、マリ様」という天使の声音で起こされる。なんて穏やかな目覚めだろうか。

 昨夜はあれだけぐずぐずもやもやしていたのに、やっぱり質の高い睡眠は偉大だった。熟睡したおかげで気分はすっきり。

 バルコニーの向こうに青い空が広がっている。きっと今日も良い天気だ。会社に行かなくていい平日の朝、それだけでどんな世界も素晴らしい。

 肉体的なコンディションは人生最高潮だ。


「マリ様、今日はどんなご予定になさいますか?」

 ミリアが朝食の支度をしながら尋ねる。予定。予定ねえ。

「聖女に課せられた仕事っていうのはないんだよね」

「はい。聖女様は、お好きにお過ごしいただければ」

 存在するだけで世界が安定するって、つまり何もしなくていいってこと。ニートの夢だ。

 やらなければならないことがないのなら何もしたくないのが本音。でもきっと今のうちにやっておいたほうがいいことはいろいろある。遅延報酬というやつだ。


「よろしければ、昨日お約束していた薬草園や図書室のご案内をいたしましょうか?」

「うん、お願いしたい。できれば図書室がいいかな」

 ある程度、この世界の歴史や文化を知っておかなければいざという時にうまく立ち回れない。いちいちショックで気絶しなくて済むように最低限の教養は身につけておきたい。

 朝食を済ませてミリアに着替えを手伝ってもらいながら、昨夜のことを思い出した。


「そういえば、アイスクリームってこの世界にもあるの?」

「アイスクリーム、ですか?」

 シックな色合いのドレスを手にしてミリアが首を傾げる。やっぱりないよね。こんな中世的な世界で氷菓子の類いは贅沢品だろうし、冷蔵技術だってどの程度のレベルか怪しいものだ。

「冷たくて甘いお菓子なんだけど。牛乳とか卵とか砂糖を混ぜて凍らせて……」

 説明しながら自分でも無理そうだと思う。冷凍庫がない世界で氷菓なんて。でもミリアはぱっと表情を輝かせた。

「ああ! それでしたらございます!」

「え、まじで?」

 思わず素が出た。あるんだ。


「王宮には地下に大規模な氷室がございます。冬の間に山から切り出した氷を運んで冷やしているのです。厨房で作ることができますよ。マリ様がお望みなら、すぐにお持ちいたします」

「ほ、本当に!?」

 予想外の展開に心が躍る。まさか異世界でアイスが食べられるなんて。

 着替えが終わるとすぐにミリアが厨房に連絡をとってくれて、三十分後にはちゃんとした銀のカップに盛られたアイスクリームが運ばれてきた。

 コンビニのプレミアムアイスどころかお高めの喫茶店の贅沢なやつだ。スプーンですくって口に運ぶ。濃厚なミルクの甘みが舌の上でとろけ、冷たさが脳をシャキッとさせてくれる。

「ふぉおぉ……」

 思わず変な声が出た。こんなささやかなことで幸せを感じられるなんて、私って安上がりな人間だ。


「ふふ。お気に召していただけて何よりです、マリ様」

 気持ち悪そうにすることもなくミリアが微笑んでくれる。幸せを噛みしめながらアイスを食べ、ふと気づいた。

「氷室ってことは魔法で凍らせてるわけじゃないんだ?」

 魔法と聞くと指パッチンひとつで氷点下を作り出し、杖の一振りでテーブルの上にごちそうが現れる、そんな光景を想像してしまう。

「はい。この国では魔法に頼りすぎないようにしております」

「どうして?」


 ミリアは少し真面目な顔になった。

「聖女様がいらっしゃらない時代には、魔力が不安定になります。魔法頼みの生活をしていると、いざという時に困ってしまうのです」

「あー……」

 なるほど。だから中世ヨーロッパ風の外見なのにインフラがやけにしっかりしているんだ。上下水道も整備されているし、街並みも清潔だった。

「先代聖女様がお亡くなりになってからの十年間、魔法が使いにくい時代が続きました。その間も王国が維持できたのは、こうした備えがあったからだと聞いています」


 聖女が不在の十年間。その間、人々はどれほど苦労したのだろう。

 私が召喚されて、世界は再び安定する。

 責任の重さを改めて実感するとアイスがちょっとほろ苦くなった気がした。


 おやつの後にミリアが連れてきてくれた図書室は想像以上に巨大だった。天井まで届く本棚がずらりと並び、何万冊あるのか見当もつかない蔵書が整然と収められている。

 窓から差し込む光が埃っぽい空気を照らして、静謐な雰囲気を醸し出していた。まるで知識の要塞だ。

 これだけの本は一生かかっても読み切れない。


「マリ様、こちらがエルハーフェン王国の歴史に関する書物です」

 案内された一角に、革装丁の古い本がぎっしり並んでいる。

 適当に一冊手に取って開いてみると、そこに書かれている文字はアルファベットでも日本語でもない記号の羅列だ。なのに、私の脳にはすらすらと意味が入ってくる。

 不思議な感覚だった。文字の形は明らかに見慣れたものではないのに、ちゃんと読める。

 これが聖女の力なのか。翻訳いらずのチート能力。前の世界でこれを持っていれば海外事業部でばりばり働けたのになあ、なんて嫌な記憶を振り払い、本の内容に集中する。

 実感はないけれど、確かに私の中で何かしらの力が働いているらしい。まさにファンタジー。


 本を読み進める。エルハーフェン王国の成り立ちを少しずつ理解する。

 建国は約五百年前、初代国王が聖女とともにこの地を治めたのが始まりだという。以来聖女は常に王家と深い関わりを持ち、時には王妃として、時には王の姉妹として、王国を支えてきた。

 といっても王家の血筋が聖女の力を持つわけではなく、王族の力を利用して聖女を常に王室に招いているということだろう。ファイナンシャルプランナーにして顧問弁護士、さらに産業医も兼ねるような要職。

 そして前の聖女が亡くなると、どこかで新しい聖女の資質を持つ子供が生まれるらしい。二人以上の聖女が同時に存在した例はない。


 先代聖女が亡くなってから十年。新しい聖女が見つからなかった。生まれていないのか、あるいは見つかる前に不幸に見舞われたのか。

 そして現王家は神官長セルギウス主導のもと、異世界から聖女を召喚するという手段に出た。

「……重いなあ」

 ため息を吐くように呟きながら本を閉じる。


 次に手に取ったのは『聖女と魔力』なるタイトルの専門書だった。魔力の性質や聖女の役割について詳しく書かれている。

 この世界の生き物は、人間も獣も植物も、その魂のなかに魔力を宿している。

 魔力とは熱エネルギーのようなもので、生命活動の源だ。しかしこれには困った性質がある。放っておくと、魔力は無秩序に増殖して淀んでいく。エントロピーが増大するみたいに。

 個体レベルでは大した量ではなくても、世界全体で見れば膨大な魔力が日々生み出されている。

 世界に満ちる魔力が一定の飽和状態を超えると、空間そのものの法則がバグる。そのバグの結果として生まれるのが魔力過剰な獣――魔物なのだという。

 インフラ整備のためにおいそれと魔法を使えないわけだ。持続可能な開発目標(SDGs)ならぬ、持続可能な魔法利用(SMUs)ってところ。


 魔力の淀みで自然災害が頻発し、やがては世界そのものが崩壊してしまう。その淀みをフィルタリングして世界の魔力の均衡を保つことができる唯一の存在が「聖女」だった。


「なるほどね」

 仕組みが分かると少しだけ気が楽になった。つまり私は人間空気清浄機。あるいは存在しているだけで周囲に良い影響を与えるパワークリスタル、歩くパワースポット。

 私がここに座っているだけで魔物の発生が抑えられ、天候が安定し、農作物がよく育つ。特に何もしなくても、生きているだけで高額納税並みの社会貢献をしていることになる。

 前の世界では、馬車馬のように働いても「代わりはいくらでもいる」と言われた。ここでは、私がただ「いる」ことが最高の業務成果《KPI》なのだ。

 三食昼寝付き、実務はゼロ。そんな甘い考えが頭をよぎった瞬間、昨夜の光景が脳裏をフラッシュバックした。


 そうだった。実務はないが、王太子殿下によって人間関係という名の地獄のプロジェクトに勝手にアサインされていたのだ。


 本を読み続けていると、あっという間に時間が過ぎていった。

 気づけばお昼過ぎ。ミリアが軽食を持ってきてくれて、飲食OKな図書室の隅のテーブルで食事をとる。

「マリ様、お勉強は進んでおりますか?」

「うん、だいぶこの世界のことが分かってきた」

「素晴らしいです! 熱心でいらっしゃいますね! こちらに興味を持っていただけて嬉しいです」

「あ、う、ありがとう」

 暇つぶしがてらの自己防衛なんだけどな、という言葉はサンドイッチと一緒に腹の底へ流し込んだ。


 聖女の力、魔力の仕組み、王国の歴史。理屈は分かった。でも昨夜の出来事、ディートリヒの婚約破棄については、まだ納得がいっていない。

「ねえミリア、王太子殿下って普段はどんな方なの?」

「ディートリヒ様ですか? とても聡明で、お優しい方ですよ。次期国王としての自負を持たれ、立派にお務めを果たしておられますし、民からの信頼も厚いです。それに……」

 流暢に褒め称えていた言葉が不意に詰まる。

「エリーゼ様のことを、本当に大切になさっておられました」

 過去形かあ。


「じゃあ、どうして婚約破棄なんてしたんだろうね」

「分かりません。私たちも驚いています。でもディートリヒ様のことですから、何かお考えあっての決断だと信じています。理由もなく人を、ましてエリーゼ様を傷つけるような方ではありませんから」

 そうなのかもしれない。でも、だとしたら余計に分からない。

 聖女の重要性は分かったけれど、あんなエンタメを衆目に晒す必要があっただろうか? 私をエルハーフェン王国に留めるならお布団とアイスクリームを与えるだけで充分だ。

 聖女に求婚するために評判のいい婚約者を捨てる必要性を感じない。一体どういう思惑があるのか。


「……ちょっと本人に聞いてみようかな」

「え?」

「王太子殿下に、直接」

 いつまでも気後れしていたって仕方ない。背負ってしまった責任を楽に果たしていくために、そろそろ自分でも動いてみることにしよう。

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