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遥かなる恋人に  作者: Ono


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2/22

婚約破棄


 枕が変わったら眠れない。そんな繊細さから程遠い私はふかふかのベッドで翌日の昼過ぎまで誰にも起こされることなく眠りこけ、目覚めてすぐには重たいはずの豪華な食事もたらふく詰め込んでからバルコニーで外の景色を眺めていた。

 この城はほとんど断崖に近いところに建っているらしい。遥か眼下に広がる街並みの通りを豆粒みたいな人間たちが蠢いているのが見える。

 正直、悪くなさそうな暮らしだ。ブラック企業で働くことと比べれば至れり尽くせりの、神様にでもなったみたいな生活。誰にも怒鳴られないし、残業もない。


 もしかしたらこのまま帰らなくてもいいかもしれない。むしろ帰らないほうがいいんじゃないだろうか。

 セルギウスさんが無事に私を元の世界に戻せたとしたら、私を待っているのは無断欠勤の謗りだ。

 何日先になるかも分からない帰還の日までにどれほどの有給が泡と消えているだろう。というか社内から私の席ごとなくなっている可能性が高い。

「……あれ。帰りたくないかもしれない」

 そんな身勝手なことを考えていたら、扉がノックされた。


「聖女様、王太子殿下がお会いになりたいとのことです」

「あ、はい、どうぞ」

 多すぎてまだ覚えられていないメイドさんの誰かの声が聞こえたので反射的に答えてから硬直する。

 え? 王太子殿下?


 慌てる間もなく扉が開き、一人の男性が部屋に入ってくる。

 彼は、あの巨大ホールで見かけた気がする。やたらときらきらした人の群れで一際高貴な輝きを放っていた、そう、玉座っぽいものの近くにいた青年。

 よくよく考えたら十年も待ち望んだ聖女の召喚成功を祝うあの場には当然ながら国王様や王妃様や王子様やお姫様なんかもいたわけだ。

 そんな中で立ったまま気絶していた私。偉い人たちから何か話しかけられていたとしても無視したことになる。

 ひょっとして私は今から首を切られるのだろうか。もし世界を救うとかいう使命が死体でも機能するのだとしたら聖女とてあっさり処刑されてしまうのでは。

 元の世界でクビになり、異世界でも物理的に首になるなんて。


 二十代半ばと思われる、端正な顔立ちの彼。金髪に青い瞳、背は高く、物腰は優雅。絵に描いたような王子様は私の青褪めた顔を見て少し戸惑った様子だった。

「時間を割いていただき感謝する。ディートリヒ・ギュンター・フォン・エルハーフェンだ」

「いえ、こちらこそ!」

 何がこちらこそ? とは思いつつ王族に対する礼儀作法など分からないまま慌てて直角にお辞儀をする。土下座のほうがいいかな。メイドさんに着せられたこのドレスは膝をつくには不便だ。

「聖女殿、君に尋ねたいことがある。昨夜の君は混乱していたようで、何を聞いても返事をしてくれなかった」

「あっ、すみません。ノン! 大変申し訳ございません」

 その混乱はまだ続いているらしく、言葉遣いに迷いすぎて私の中の謎のフランス人が顔を出した。


 昨日は気絶していて何も覚えていないのだと正直に話すと、ディートリヒ殿下は意外にも「それは無理もない」と頷いてくれた。

 とんでもなく不愛想で無表情、でも声音は静かで怒っている気配は微塵もない。よかった。

「私はただ、君の名前を知りたかったのだ。今のところ聖女であることしか知らないのでな」

 そういえば誰にも聞かれなかった。おそらくあの魔方陣から現れた存在でさえあれば私が「誰」であるのかは大した意味を持たなかったんだろう。

 ということはまず名前を尋ねてくるディートリヒさんは、とてもまともで誠実な人柄なのかもしれない。


「えっと、私は、空木真理と申します。スカイの空にツリーの木で……」

 つい癖でそこまで言って口を閉ざす。漢字の説明をする必要はあるのだろうか。当たり前のように日本語で話しているけれど、セルギウスといいディートリヒといい漢字表記のありそうにない異国のお名前だ。

 私の日本語が通じているのなら、彼らが話しているのも日本語だということになる。それとも聖女パワーで勝手に翻訳されているだけ?

「ウツギ、マリです。マリがファーストネームです」

 逆にファーストネームという言葉は通じるのだろうかと不安に思い、日本語のちゃんぽんさを憎みながら自己紹介をする。

「マリ。よろしく頼む」

 そのよろしくが「世界を」という意味なら頷きたくなかった。


 王太子殿下の碧い瞳がじっと私を見つめている。動揺してもいいくらいの美形なのに私の心臓はぴくりとも反応しない。ちょっと枯れすぎていた。

「セルギウスから君が元の世界に帰りたがっていると聞いている。もしそれが叶わずここに残らねばならない場合、このまま暮らしてくれるか。それとも王宮を離れたいか?」

「えっ」

 意外なことを聞かれた。その言い様、もしも私が田舎で暮らしたいとか望めば叶うのだろうか。閉鎖的で実力社会な田舎で苦労したいなんて一ミリも思わないけれど、自由に出歩けるのならそれは魅力的かもしれない。

「それはー、正直そもそも帰りたいかどうかをちょっと迷ってるところです。王宮での暮らしに不満があるわけじゃないし」


 今日以降、メイドさんたちが時間を見つけて薬草園や図書室、魔法研究室に案内してくれるという。アパートと会社の往復、精々コンビニに出かけるだけの生活よりも趣味が増えそうな予感がしている。

 部屋の掃除も食事の支度も無料で他人がしてくれて、新生活を始めてから敷きっぱなしだったせんべい布団と比べ物にならない快適な寝床が与えられて。

 家族や友人に二度と会えないかもしれないという淋しさはこれから実感が増すだろうけれど、もともとそんなに連絡をとっていなかったわけで、地球の反対側にでも転勤になったと思えば気は済んだ。

 大したデメリットがなく、あらゆる面においてQOLが向上するここでの暮らし。

 気がかりと言えば聖女の実際的な価値、要するに私の安全性がどれくらい保証されるのかということくらいだ。


「つかぬことをお伺いしますが、先代の聖女って、なんで……えー、おいくつで亡くなられたんですか?」

「九十八歳。エルハーフェンの歴史に刻まれる大往生だった。いずれ王位を継いでしっかりと国を守ってゆくよう私に言い残して」

「この国に骨を埋めることを誓いました! 今!」

「……そ、そうか」

 現代日本で九十八年も生きて憂いを残さず安らかに死ねる人間が一体どれほどいるのだろう。

 存在するだけで世界に安定をもたらす代わりに命が削られるとか精神が摩耗して発狂するとかならお断りだけれど、そうでないのなら、社畜に戻ってストレス社会に生きるよりも聖女としてここで大往生するほうがいい。


 愛着よりも先に打算でこの世界を受け入れた私を相変わらず綺麗な瞳で見つめて、殿下は満足そうにまた頷いた。

「君が我が国に居てくれれば、個人的にも非常にありがたい。時間をとらせたな」

「あ、いえ。こちらこそ」

 だから何がこちらこそなのかと自分でつっこみながら、さっさと踵を返した彼を見送る。用事はそれだけだったようだ。

 なんと、つまり王太子殿下はただ私の名前と要望を聞きに現れたのだった。聖女よ救世主よと崇め奉られるよりもよっぽど私を尊重してくれるその問いかけに、心の扉が音を立てて開くのを感じた。

 彼の人柄をすっかり理解したわけではないけれど、少なくとも元の世界の上司や同僚や後輩よりはずっとずっと信頼に足る相手。


 午後の散歩で、私の担当になったというメイドのミリアさんから王太子殿下のことを聞かせてもらった。

 彼には幼い頃から婚約している伯爵家の令嬢がいるらしい。とても美しく、優しく、評判の良い女性だと。


 そしてその日の夜、コンサートホールのごとき城の大広間で聖女召喚の祝宴が開かれた。

 ミリアに「ドレスは何色がよろしいでしょうか?」と聞かれて「何でもいい。スピーチと挨拶回りはしたくない」とわざとずれた答えを返したところ、私はただ自分の席に座っていればいいことになった。

 こういう優遇なら大歓迎だ。


 三段高い場所に立派な玉座、国王ヴィルヘルムと王妃リーゼロッテが座っている。近衛騎士が彼らを守り、そして大広間を埋め尽くすように礼服を着た貴族と騎士の群れ。

 厳粛な面持ちで立っている彼らが私に向ける視線は柔らかくあたたかい。ああよかった。殺伐とした政治抗争の真っ只中とかじゃなくて。


 色鮮やかなドレスの波から出てきた若い女性がディートリヒ殿下のもとに歩み寄る。

 ふわふわの美味しそうなピンクブロンド、大きな青い瞳、陶器のように白い肌。御伽話から抜け出してきたお姫様かのごとき可憐な、エリーゼ・フォン・オルデンブルク伯爵令嬢。

 彼女が王太子殿下の婚約者だ。


「ディートリヒ様」

 声もかわいらしい。エリーゼ嬢は、ディートリヒを見て心底嬉しそうに微笑んだ。恋する乙女という感じだ。私よりも彼女のほうが「聖女」の称号が似合う。

「エリーゼ」

 彼女に答えるディートリヒの顔は私からは見えないけれど、その肩が微かに震えて深く息を吸ったのが分かる。

「君との婚約は、今この場をもって解消する」

 広間が静まり返った。エリーゼ嬢の笑顔が凍りつく。なんだなんだ、微笑ましい光景かと思ったのに、まさかの修羅場?


「え?」

 彼女の声はか細く震えていた。青い目に涙が浮かぶのがここからでも見える。

「ど、どうしてですか。わたくし、何か悪いことをしましたか」

 王太子妃というにはおっとりしすぎている気もするにせよ、こういう場で恥をかかされる謂れがありそうな人には見えないのにな、なんて他人事のように考えながらワイングラスを傾ける私は完全に野次馬だった。

「努力が足りませんでしたか。わたくし、もっと勉強します。もっとがんばります」

「違う。君は……君はあまりにも純粋すぎる。私は君を愛している。だが、エリーゼ、君のような人は王太子妃の地位に相応しくない!」


 ん? 今、さらっと「愛している」って言わなかった? 婚約破棄って「君のような悪女は〜」とかそんな風にご令嬢の非をあげつらうものじゃないの?

 どうにも奇妙な展開に首を傾げる私を唐突に振り返って、ディートリヒは高らかに告げた。

「そして、ここに宣言する! 私は異世界より現れた聖女マリと結婚する! 彼女こそ我が国の真の守護者であり、私の伴侶に相応しい!」

 視線が私に集まった。国王と王妃が「あちゃー」みたいな顔をしてため息を吐いている。

 あちゃーで済ませないでほしかった。


 エリーゼ嬢も私を見ていた。彼女の表情には純粋な驚きと困惑、そして深い悲しみがあるだけで、私への悪意などこれっぽっちも見当たらなかった。

「聖女、様……」

 涙が流れ落ちる寸前に素早くハンカチで目元を隠し、彼女は、広間から走り去ってしまった。お付きの侍女たちが慌てて後を追っていく。

 大広間は重苦しい沈黙に包まれ、私は何も言えなかった。

 たとえばあの純粋な令嬢の婚約者を奪った悪女のように扱われるならまだ異議を申し立てることもできただろう。

 事態はより一層厄介で、ディートリヒを中心に波紋が広がるようにこの場の皆さんが「殿下がそう仰るのなら」と納得の表情を浮かべているのだ。

 さすがは王族に貴族の皆さん、突然の事態にも肝が据わっていらっしゃる。私以外は。


「ディートリヒ」

 玉座から国王陛下の重々しい声が響く。

「これは、本気なのか」

「はい、父上。エリーゼにはより相応しい相手が見つかるでしょう」

 あんなにも毅然としていたディートリヒは彼女が去ってから初めて声を震わせた。

「エリーゼほど素晴らしい女性なら、いくらでも求婚者が現れるはずです」


 キャパオーバーでまた気絶しそうな私に、そばにいた騎士が声をかけてくる。

「災難でしたな、聖女殿」

 銀色の鎧を纏い、短く整えられた黒髪。涼しげな目元に理知的な光を宿し、清廉潔白や騎士道精神という言葉を擬人化したような男性だ。

「あ、ええと……はい。何が何だか……」

「申し遅れました。私は近衛騎士団のフェリクスと申します。あなたの護衛を拝命いたしました」

「はあ。どうも」

 護衛。昼過ぎまでは、いやついさっきまでは聖女にそんなものが必要だとは思ってもみない平和な世界だったのに、王太子殿下の暴挙によってやはり何かしら物騒なことは起こるものだと認識を改めさせられる。

 ああ、これだから責任重大な立場というのは嫌いなんだ。


「あの、今の……どういうことなんですか?」

 騎士さんも少し困ったような顔をする。

「私もよく分からないのです。ディートリヒ殿下とエリーゼ様は幼い頃から仲睦まじく、理想の夫婦になると誰もが信じていました」

「そうなんですか」

 そうでしょうねとも思う。お昼に話した王太子殿下はちょっと堅物そうでも真面目な雰囲気で、ふわふわ令嬢なエリーゼさんとはとてもお似合いに見えた。

 じゃあ、なぜ? 彼らの恋愛事情なんてどうでもいい。なぜ、婚約破棄のあとに「では代わりにこちらの方を」の候補に私が躍り出てくるのかが問題だ。


「エリーゼ様は本当に素晴らしい方です。優しく、思いやりがあり、誰に対しても分け隔てなく接する。由緒ある伯爵家のご令嬢でありながら民のことを心より案じ、困っている者を見れば放っておけない。そんな方なのです」

 フェリクスの言葉には確かな敬意が込められていた。そして、どこか温かいものも。おや? もしかして。

 私が察したことを察して、彼は照れたように笑った。

 それにしても王宮にいる人というのは誰も彼も美形だと場違いなことを考えて気持ちを紛らわせる。平民出身だというミリアだって私から見れば超絶美少女だ。

 美形しかいない世界なのだろうか。だとしたら居づらい。


 この騎士は、エリーゼのことが好きなのだろう。そういう意味で。でも彼女は王太子の婚約者だから、想いを胸に秘めている。そんな感じだ。

「殿下が何を考えていらっしゃるのかは、私どもにも計りかねます」

 エリーゼが走り去っていったほうを見つめて彼は眉をひそめる。

「殿下は非常に合理的な方です。愛よりも国をとる……あるいは、何か別の意図があるのか。所詮は王室と貴族の政略結婚、我ら平民あがりの騎士には理解しがたい深淵があるのかもしれません」

 政略結婚であればこそ、簡単に破棄なんてするものではないと思う。ディートリヒはそんな馬鹿そうに見えなかった。


「……ま、あのお嬢様がフリーになれば都合がいい奴もいるわけで」

「……ん?」

 今、何て言った? 聞き返そうとしたけれど、彼はすでに完璧な騎士の微笑みを浮かべ直していた。

「さあ、お疲れでしょう。こっそり退室してしまいましょう」

 見ればディートリヒはまだ国王陛下と話し込んでいて、他の人たちの注目もそちらに移っているようだった。ありがたく、フェリクスに促されるまま部屋に帰ってしまうことにする。


 部屋に入るなりベッドにダイブする。あのアパートのぺらぺら布団ではできなかったこと。

 すぐにミリアが駆けつけて労ってくれた。肉体的には、広くて清潔な会場で高価な椅子に座っておいしいご飯を食べてきただけなのに、心のほうがどっと疲れた。

「マリ様、お茶を淹れます」

「ありがとう~~、ミリア~~」

 バルコニーから王都の美しい夜空が見える。何万ドルの価値があるのか分からない無料の景観をバックに、ミリアが淹れてくれたハーブティーを飲みながら、ベッドの上で考える。


 なんとなく分かってきた。


 ディートリヒ王太子。国のためにか自分のためにか、彼は聖女というブランドを手中におさめておきたいんだ。

 私の力が世界に不可欠なら、それを自分の手元に置いておくのが一番確実。だから私に城を去る意志があるのかを確かめ、だから愛する婚約者を捨ててまで私に求婚した。

 政略結婚。ドラマやマンガで、あるいは昔のこととしてよく聞く話。

 当人同士に愛がなくても利害が一致していれば成立するビジネスライクな契約は、いわば業務提携みたいなものだ。それ自体はべつにいい。王族なんだし、大変なんだろうな、くらいの感想しかないけれど……。

 その業務提携の相手に、平社員である私がなぜ選ばれなければならないのか。


 どう考えてもめんどくさいどろどろした人間関係に、がっつり組み込まれてしまっている。

「……やだぁ」

 サイドテーブルにティーカップを置いて布団を被ってうずくまる。

 会社で派閥争いに巻き込まれるのも死ぬほど嫌だったのに、異世界にきてまで「王太子の再婚相手」なんていう、全方位から恨みを買いそうなポジションに座らされるなんて。


 人生で、泥沼にはまりやすいタイプの人はどこへ行っても災難に遭うらしい。私はまさにそれだった。

 サービス残業、パワハラ、モラハラ、金欠、家に帰れば騒音アパート。野良猫にも嫌われるタイプ。階段から落ちて家とスマホと仕事を失い、変な世界で聖女にされる。

 王太子の不可解な野望。泣き出した天使のような令嬢。なんだか裏がありそうな騎士。

「あーあ……アイス食べたい……」

 ぐずぐずと呟いて、丸まったまま深い眠りに落ちていく。考えるのがめんどうくさくて、明日の朝、目が覚めたら部長の怒鳴り声が聞こえてきたっていい気がした。


 ……やっぱりそれは嫌。

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