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遥かなる恋人に  作者: Ono


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19/22

王太子妃の仕事

 私の人生において既婚者の欄に丸をつける日がくるとは思わなかった。それも相手は一国の王太子だ。まさかの肩書き「王太子妃」。

 字面だけ見れば華々しいシンデレラストーリーになるのだろうけれど、実際のところ私の生活は驚くほど今までと変わっていなかった。


「おはようございます! マリ様、これからは妃殿下とお呼びすべきでしょうか?」

「おはようミリア。今まで通りでいいよ。その呼び方、背中がかゆくなっちゃう」

「かしこまりました、マリ様」

 いつも通りのベッド、いつも通りのバルコニー、いつも通りの朝食。王太子妃となったからといって特別な執務室が与えられるでもなく、私はただの私として同じ部屋で目覚める。


「結婚したら強制的に引越すのかと思ってたよ。そのままここを使えてよかった」

 ディートリヒの計らいで部屋は変わらなかった。彼の執務室に近い客室だったここは元々が王族用の豪華な部屋で、王太子妃の部屋として使っても何ら問題がないとのことだった。

「殿下はマリ様のご負担を最小限にとお考えなのですわ」

「ははあー。感謝感激ですねー」

 単に妻として見ていないだけだと思う。もちろんそれでこちらもありがたいのだけれど。

 夫婦で同じ寝室を使うこともない。そもそもディートリヒは執務室で寝起きしているのではないだろうか。心配になるくらい常に仕事をしている。


 変わったことといえば、ミリアの給与が跳ね上がったことくらいだ。

「マリ様、実は……給金が増えたので、実家への仕送りを倍にしたんです!」

「おお、親孝行だね」

「父も母も喜んでくれて。これで実家の屋根を直せますし、弟の学費も出せそうです」

 朝食を運びながら嬉しそうなミリアを見る。私にとっても喜ばしい。

 お金は大事だよね。余裕のある生活は人の心を豊かにし、精神を安定させる。ブラック企業から逃れることもできず薄給に喘いでいた私には痛いほど分かる。


「でもさ、そんなにお金が入ったなら、ミリアも何か自分のために使えばいいのに。新しいドレスとか、宝石とか」

 ちょっとは散在する余裕もあるだろうに、そう言った私の言葉にミリアはしっかり者の顔で首を振る。

「マリ様。お金というのは、使うためにあるのではありません。安心するためにあるのです。仕送りの残りはちゃんと貯金していますわ」

「……偉すぎる」

「それに、私、意外と贅沢しているんですよ? マリ様がこうして朝食に誘ってくださるので、王家御用達の最高級食材を毎日いただいているではありませんか」

 本当にささやかだ。でもそれが一番得難い幸せだということもよく知っている。

「食費は浮き、住居は王宮、制服は支給されます。私の給金はすべて『安心』に変わるのです。これ以上の贅沢はありませんわ」

「うんうん。働きに見合うお給料って大事だよね……」

 私がずっとほしかったのも、結局はこういう穏やかな時間だったのだ。おいしい朝食を食べながら気の置けない相手とおしゃべりする。それが翌日も続くという保障。本来ならそのために働いていたはずなのだ。


 給与が上がっても質素倹約を貫くミリアは堅実で、私よりもよっぽど人生設計がしっかりしている。いつか結婚するとしても現役の間はうちで働いてくれる気がした。

 そんな風に自然と「うちで」と考えている自分に笑ってしまう。

 ディートリヒとの正式な結婚を経て、私の地位は盤石になった。帰る方法が見つかるまでと称した腰かけ聖女から、エルハーフェン王国の未来を担うことになっている王太子妃へ。

 責任は増したはずなのに、有能なメイドと有能な夫の存在があるから、心はニート時代よりもむしろ安定していた。

 これが「永久就職」というやつの威力なのかもしれない。愛のないこの結婚は頼もしい力強さで私の明日を保障してくれている。


 朝食を終え、中庭に出て聖女の舞(元ラジオ体操)をこなす。最近は騎士団員以外にメイドたちの間でも美容にいいとか、大臣たちの運動不足解消だとかで王宮全体に流行り始めていた。

 フェリクスのアレンジによって下半身のトレーニングも改善され、全身が効率的に強化される完璧な体操と化している。


 その後、最近は図書室ではなくディートリヒの執務室へ出勤するのが常になっていた。王太子補佐という名目で仕事を手伝うことになったのだ。

 図書室を制覇する日は遠いけれども興味深いものは粗方読んでしまったし、庭仕事も安定してきて、正直なところ暇だったからちょうどいい。

「おはようございます、殿下」

「ああ、マリ。おはよう」

 机の上には相変わらず書類の山。しかし以前よりは整理されているように見える。私が手伝うようになってから彼の業務効率は目に見えて向上していた。なかなかに満足感がある。


 ディートリヒの執務机の隣に据え置かれた私のデスクに着くと、早速本日の業務が回ってくる。

「これが昨日の会議の議事録だ。こちらは来週の式典の予算案。招待状、陳情書……」

 軽く書類を説明されながら受け取り、慣れ親しんだ作業に入る。

 会議の記録を読みやすく清書し、予算を表にまとめ、重要度の低い文書を振り分ける。クソ上司にいびり抜かれ鍛え上げられた事務処理能力を存分に発揮するところだ。


 このきらびやかな招待状は、西方伯からの夜会のお誘い。修飾過多で文面が無駄に長くなっているが、要約すると『娘を王太子妃の侍女に推薦したい』ということだ。重要度は低い。

 次は『南部の特産ワインの献上について』。うちの社長(ヴィルヘルム国王)がお好きな銘柄だ。これは速やかに処理して適切な謝礼をしなければ。

 おっと、この予算案は一部項目が重複している。まとめれば三割削減になるだろう。赤線を引いて付箋を貼り、ディートリヒのデスクに滑らせる。


 シノビの国日本で不本意ながら培われた「行間を読むスキル」と「優先順位をつけるスキル」が、まさか異世界の政務で役に立つとは。

 王太子妃なんて肩書きには身が竦みそうになる。でも貴族からの手紙というのは要するに取引先からの営業メールと変わらないのだ。

 社交辞令という名のスパムを弾き、本当に重要な案件だけを抽出する。私の仕事はそんな単純作業だった。それで最高の生活環境が与えられる。

 もう事務作業ならなんでもお任せください状態だ。重要な外交とかは、やりたくないけれど。


 しかし当然のこと、王太子妃の地位は安楽なばかりではなかった。

「……殿下。この『茶会への招待状』の山、どうにかなりませんかね」

 結婚式の披露宴で顔見知りになってしまった貴族の奥方や令嬢たちから、私宛の招待状が殺到しているのだ。

 聖女様とお近づきになっておきたい。あわよくば王家とのパイプを作りたい。とりあえず流行りには乗っておきたい。そんな混沌とした思惑が透けて見える手紙の数々。

「適当にあしらっておけばいい。誰と交流を持つかは君の裁量に任せる」

「丸投げですか。変な派閥に入っちゃったらどうします?」

「君ならそんなへまはしない。角を立てずに断る術を知っているだろう?」

 ぐうぅ……、上司《夫》の信頼が重たい。確かにほぼすべて「お断り」一択だから私が妙な交友関係に巻き込まれる心配はほぼないのだけれども。


 断ること自体は簡単だ。それでも相手が有力貴族であるからには執拗な営業電話のように「結構です」の一言では済まないのだった。

 無碍にすれば我が社(王家)の心証が悪くなる。かといって丁重に扱いすぎて「いける」と判断されれば私の平穏な日々が社交という戦場に変わる。

「……よし。まずテンプレを作ろう」

 ドレスの袖は捲れないけれど、気持ちだけ腕捲りして万年筆を走らせた。


《   様


この度は    について温かいお手紙をいただき、心より感謝申し上げます。

恐悦至極ではございますが、現在、聖女として、また王太子妃として多忙を極めており、お伺いが叶いませんこと、誠に残念に思います。

異なる世界から参じた身ゆえに至らない点ばかりで、まずは公務に専念させていただきたく、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

せっかくのご厚意にもかかわらず   様へのお目通りが叶いませんこと、大変心苦しく存じます。

またの機会がございましたら、お声がけいただけますと幸いです。

   様のますますのご活躍を、心よりお祈りいたします。


                    ウツギ・マリ》


 よし。慇懃無礼ぎりぎりの丁寧さ、日本人らしく遜ることで相手を持ち上げつつ、よくよく読めば全力でお断りしている。しかも王太子妃よりも先に「聖女」の職務を盾にしているから、あちらとしても「そこをなんとか、是非」と押すことは難しい。

 異世界人でよかった。強引な相手には「わたくしまだこちらのことを勉強不足ですので、おほほ」で避けられる。それでいて次の可能性もしっかり繋いでおく。

 夜会、お茶会、食事会への招待、またはあちらから私への訪問のお伺い、すべてこれ一本で断れるはずだ。


 私の作った返信テンプレートを見て、ディートリヒが呆れとも感心ともつかない息を吐いた。

「やはり君は政治に向いている」

「不本意ですね」

「貴族の自尊心を傷つけず、やんわりとかわしながら、計算した隙をあえて見せることで関係性を完全には断たない。社交の基本を弁えている」

「褒め言葉として受け取っておきますけど……」

 ブラック企業で虚無になりすますための処世術であるのが複雑な気持ちだった。


 獲得したパートナーが業務に適していると再確認して、ディートリヒの感情もまた複雑だ。

 これがエリーゼならきっとすべての招待状に律儀に目を通して感動し、「こんなに想っていただけるならわたくしもお応えしなければ」とすべての誘いを受けようとして倒れるか、ブッキングして断らなければならないことに心を痛めるか。

 エリーゼではこうはいかなかっただろうな、という実感は、彼にとってはつらいことに違いない。


「あー。でも私が全部断っちゃっていいんですか? 王太子妃ってもっと社交的に振舞わなきゃいけないのでは?」

「構わん。君の価値は王太子妃であることよりも聖女として存在することにある。究極のところ、誰に対しても愛想を振りまく必要はない」

「言うねえ」

「まあ、私が君を独占したがっているという噂でも流しておけば周囲も無理強いはしてこないだろう」

「うげえ」

 真顔でとんでもないことを言った。でも惚気話の捏造は良案かもしれない。仲睦まじそうに見せておけば、聖女と王太子の仲を裂いてまで自分の誘いに巻き込むことはどんな有力貴族にも不可能になる。

 王太子殿下の溺愛という設定の中にいれば私の平穏はより一層確実に守られるわけだ。


 午後のティータイムもディートリヒの執務室で過ごす。朝にミリアが淹れてくれた紅茶を水筒から飲みつつ、私はふと気になっていたことを尋ねてみた。

「ねえ、殿下。王太子妃になったからには、私はもう気軽に出歩かないほうがいいですか?」

 警備の問題もあるし、品位の問題もある。これからはベッドのニート……もとい、籠の鳥として生きていく覚悟が必要なのかもしれない。全然いいけど。

 しかし意外にもディートリヒはあっさりと言ってのけた。

「いや? むしろ今のうちに遊んでおいたほうがいいぞ。父上が引退すれば、君も忙しくなるからな」

「ふーん、そっか」

 あくまでも王太子妃、殿下が即位して王妃の身分になるまでは気にするほどでもないという感じだろうか。


「……ん? ちょっと待って。引退? 王様って引退するの?」

 私の常識では、国王は死ぬまで国王だ。崩御と同時に王太子が即位する。それが王政というものだと思っていた。生前退位もあるにはあるが、ヴィルヘルム国王はまだ充分に若くて健康で、引退する必要性を感じない。

 ディートリヒはカップを置いて立ち上がり、棚から一冊の本を取り出した。王家の系譜に関する歴史書だ。

「父上が王位を継いだ時、ガートルード様が提言なさったそうだ。『頭も体も元気なうちに、次のことを決めておくべきですわ』とな」

「へえ……ああ、その時は聖女様がいたからいいけど」

「そういうことだ。ただでさえ聖女不在の混乱時に王が崩御すれば、次の即位は容易くはいかないだろう」


 確かに前の世界でも、いつまでも会長職に居座る創業者が会社を傾ける例は枚挙に暇がなかった。歴史を遡っても統治者が“やらかす”のは基本的に晩年のこと。

 引き際を弁えるというのは、権力者にとって最も難しく、かつ重要な能力だ。

 その能力が衰えるよりも先に、前任者がまだ若くて判断力も残っているうちに有能な後進に業務の委任を済ませておけば、仮に聖女がいない時代であっても「玉座が空位の期間」をなくせるのだった。

 先代聖女様、確固たる引き継ぎの観念を持ったいい上司だ。


「父上はその言葉に感銘を受け、次代の聖女が現れ次第、速やかに私に譲位すると決めていたのだ。君がきて魔力も安定した。生前退位の準備は進んでいる」

「……だからあんまり仕事しないんですね、ヴィルヘルム陛下」

「そうだ」

 そうだって言っちゃったよ、この人。

 不敬を咎めない辺り、ディートリヒも過剰な仕事量に不満はあるようだった。それでも黙々とこなしているのだから頭が下がる。


 王太子妃という期間は、いわば私が正式に王政へと加わる前のモラトリアム。

 国王夫妻が元気なうちに後々押しつけられる面倒な公務や責任を学ぶ試採用期間で、だからこそまだ自由を謳歌することも許されている。

「じゃあ、お言葉に甘えてエ……遊びに行ってこようかな」

「………………ああ。くれぐれも気をつけてな」

 エリーゼを誘って、とは言わなかったのに察したディートリヒが鋭い視線を向けてくる。明らかな嫉妬だ。その気遣いの言葉もまるで「私を差し置いてエリーゼを誘うとは。精々夜道に気をつけることだ」と聞こえる。


 男でなければ、元婚約者でなければ、ディートリヒもエリーゼと気軽に出かけられたのにね。

 あるいはそれを考えないために山のような仕事を受け入れているのかもしれない。

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