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遥かなる恋人に  作者: Ono


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11/22

聖女式マニュアル

 ある日の午後、私は自室の机に向かって大量の羊皮紙と格闘していた。

「トマトは……前回の水やりから三日経過、葉の先端が若干萎れている場合は朝に水を与える。雨が二日以上続いた後は水やりを控えて土の表面が乾くのを待つこと」

 まずは必要なことを書き出して、それを読みやすく整え、丁寧に織り込んでいく。エリーゼのための園芸マニュアルだ。

 それも一般的な指南書とは違う、エリーゼが今育てている植物に特化した、一緒に作業している私にしか作れないであろう彼女専用のガイドブック。


「マリ様、お茶を淹れました」

「ありがとう、ミリア」

 ミリアが持ってきてくれた温かいハーブティーを啜りながら、納期に追われることなくゆったりと作業を続ける。

 日を経るにつれて私の聖女ライフにおける業務改善への意欲は高まっていた。

 といっても世界を救うための高尚な改革ではない。これはエリーゼのために作るものであり、そして私の平穏な日々を守るための、極めて局所的かつ事務的な改善活動でもあるのだ。


 彼女とのいつもの会話が脳裏に浮かぶ。

『ああ、また葉が黄色くなってしまいましたわ』

『水をやりすぎたんだね。根腐れしちゃったんだよ』

『でも昨日は暑かったので、喉が渇いているかと思って』

『昨日は湿度が高かったから、土の中はまだ湿ってたんじゃない?』

 エリーゼの熱意は素晴らしい。彼女の愛は海よりも深い。しかし、彼女の園芸スキルは壊滅的だった。


 感覚で生きる天才肌、ただし方向性が間違っているエリーゼに、口頭でのアドバイスは暖簾に腕押しだった。

 彼女はその場では「なるほど!」と目を輝かせるものの、翌日には「この子がお水を欲しがっている気がしましたの」という独自の解釈でジョウロを傾けてしまう。

 これではいけない。そして私は決意した。日本で培った社畜スキル「誰でもできる化」を発動させる時がきたのだと。


 エリーゼの問題は判断基準が感情に偏りすぎていることにある。

 喉が渇いているかもしれないと思えば水をやり、寒そうだと思えば暖かい場所に移し、寂しそうだと思えば密集させてしまう。でも植物の状態を客観的に判断できていないから、結果として枯らしたり腐らせたりしてしまうのだった。

 必要なのは前回の水やりから何日経ったか、天候はどうだったか、土の状態はどうかという客観的な指標と、それに対応した具体的な行動指示。

 エリーゼは記憶力がいい。そして言われたことは素直に守ろうとする。ならば彼女に判断させるのではなく、まるごと外注してしまえばいい。


 今日の天気はどうですか? 雨なら水やりは禁止です。晴れまたは曇りなら次の項目へ。

 土の表面を指で触ってみてください。指に土がつく場合はまだ湿っているので水やり禁止です。さらさらして乾いていたら次の項目へ。

 葉っぱの様子は観察しましょう。ピンと張っているようなら、水やりはコップ一杯だけ。少し垂れている時はたっぷりあげましょう。

 エリーゼの主観を挟ませない厳格なアルゴリズムを構築し、フローチャートとして提示する。

 さらに優しさからくる感情論を封じるため、各項目の横には『水をやりすぎると根が呼吸できなくて窒息死します。もっと可哀想なことになるのです』といった脅し文句、もとい注意書きを添えた。


「ナスの葉に黒い斑点が出た場合は病気の可能性あり。その葉だけを摘み取って処分すること……うーん、処分って言い方がきついかな」

「でしたら、『摘み取って乾燥させ、飾りとして使いましょう』はいかがですか? ナスの葉っぱは大きくて見栄えがするので、枯れて縮んでも趣がありますもの」

「ドライフラワーにするの、いい! ミリア、天才」

 エリーゼの気持ちに寄り添いつつもやるべきことは変わらない、優しくて前向きな表現だ。

 せっかくだからクララに手伝ってもらって間引いた葉や実を使えそうなレシピも添えよう。ただ処分するのではなく使い道が示されていれば、エリーゼの罪悪感も薄れることだろう。


 マニュアルには図も添えた。健康な葉と病気の葉の違い、水をやりすぎた時の根の状態、適切な株間の距離。視覚化することで情報を処理しやすくする。

 品種ごとの個別対応ページとインデックスをつけて完成。かつて新人教育マニュアルを作り続けた私の事務処理能力が火を吹くこととなった。

 そう、会社でこういう資料作りはお馴染みだった。誰が見ても分かるマニュアル、入社したての新人でも手順通りにやれば失敗しない業務フロー。

 あの頃は作っている私のほうこそマニュアルで動く機械にでもなったかのようで虚無の作業だったけれど、今こうしてエリーゼに伝えるために試行錯誤して頭を使うのは、悪くない気分だった。


 そしてできあがったマニュアルを手に庭へ向かうと、セルギウスがちょうど庭の視察にきていた。

「マリ様。何やら大層な書物をお持ちで」

「あ、うん。エリーゼ用に園芸マニュアルを作ってみたんだ」

「ほう。それは興味深い。拝見してもよろしいですか?」

「どうぞ。内容は普通の園芸指南書ですけど」

 セルギウスが羊皮紙の束を手に取って、ページの上に光の円盤が現れる。ああ、地味魔法マジックレンズ。この世界で老眼鏡の類はいらないんだな。


「ふむ、実に詳細ですな。前回の水やりからの経過日数、土の状態、天候によって変わる水量……具体的な数値と条件が明記されている」

「エリーゼって記憶力はいいけど判断が苦手みたいなので。だったら判断しなくていいようにすればいいかなって」

「なるほど、なるほど。しかもこの図解。健康な葉と病気の葉の違いが一目瞭然です。誰が見ても瞬時に理解できるようになっている」

 セルギウスは熱心にページを捲っている。部長に資料をチェックされているのと同じような状態なのに、苦労した個所を一つ一つを拾い上げて丁寧に褒めてくれるからなんだか誇らしさを感じる。

 最後に付属している毎日の作業記録チェックシートを見て、セルギウスは感嘆の声をあげた。

「素晴らしい! マリ様、あなたは教育者としての才能がおありだ」

「いや、そこまでは……」

 でもやっぱり過剰に褒められるのは単純に苦手かもしれない。嬉しくはあるけれど、恥ずかしさのほうが勝つ。


「この書には論理的な美しさがあります。まるで魔法の術式構築だ。不確定な要素を条件分岐させ、最適解へと導く。魔法行使の際に頭の中で起きる魔力制御のプロセスを、植物の世話という物理的な事象に落とし込んで視覚化されている。聖女様、あなたは魔力がなくとも魔法の使い方をご存じだ」

「う、うぅん……」

 過分な評価だろう。ただの業務手順書《SOP》なのに。

「この論理的思考力、是非とも魔法研究室でも活かしていただきたいものですな。ソフィアもそうですが、近頃の若者たちは感覚派が多くて困っておるのです。彼らのために『魔力暴走防止マニュアル』など作っていただければ、国益にかなうのですが」

「お給料が出るなら考えます」

「はっはっは、財務大臣に相談しておきましょう」

 冗談めかして笑うセルギウスだったが、その目は割と本気だった。


 異世界にきてまでマニュアル作成おばさんになるのはちょっと御免だな。でも自分のスキルがこの世界でも通用すると分かったのは収穫だ。

 少なくとも、私はただの「運のいいニート」ではない。一応、能動的にエルハーフェン王国に貢献できる、かもしれない人材なのだ。


 期せずして神官長のお墨付きとなったマニュアルをエリーゼに渡すと、彼女はそれを胸に抱いて涙ぐんだ。

「マリ……わたくしのために、こんなに素晴らしい本を……! これなら、わたくしにもできる気がしますわ!」

「うん、その通りにやってみて。迷ったら必ずその本を開くこと」

「はい! わたくし、この本を聖書だと思って従います!」

「そこまでは思わなくていいけど」

 それからというもの、王妃の庭から根腐れの悲劇は激減した。

 マニュアル片手に「土は……さらさら。天気は昨日から晴れが続いています。水やりを実行しますわ!」と指差し確認する伯爵令嬢の姿は少々シュールではあったけれど、微笑ましい。


 夕暮れ時、マニュアル効果でスムーズになった庭作業を終えて道具を片づけていると、決まった時間に足音が近づいてくる。

「エリーゼ様、お迎えに上がりました」

 爽やかな声と共に現れるのは近衛騎士フェリクスだ。このところはすっかり私というよりエリーゼの専属護衛と化している。

「まあ、フェリクス様。わざわざここまでいらっしゃらなくても」

「日が落ちるのも早くなりましたから。レディの夜道は危険です」

 王宮の中なんて衛兵だらけで世界一安全な場所だと思うけれど、そんな野暮なツッコミは心の中にしまっておくとしよう。


 フェリクスが自然な動作でエリーゼの荷物を持つと、エリーゼが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑む。

「ではマリ、また明日、よろしくお願いいたします」

「気をつけてねー」

 二人が並んで歩いていく後ろ姿は誰がどう見てもお似合いのカップルだった。美男美女。騎士と令嬢。笑ってしまうほど絵になりすぎている。

 庭に面した回廊を歩く仕事中のメイドたちが「素敵ですこと」だとか「エリーゼ様にはフェリクス様がお似合いね」と囁き合っているのが聞こえる。

 時には「殿下の見る目がなかったのよ」なんて。いや、ディートリヒの見る目は正しかったんだけどね。


 周囲の人間からすれば、エリーゼは気の毒な令嬢だ。長年の婚約を一方的に破棄され、異世界からきた聖女に取って代わられた被害者。

 しかもとうのエリーゼはディートリヒにも私にも恨み言一つこぼすことなく、変わらず優しく接し続けている。そりゃあ応援したくなるというものだ。

 そんな健気な令嬢を清廉潔白な騎士の鑑フェリクスが懸命に慰めているとなれば、ロマンチックな想像力を掻き立てられるのだろう。

 捨てられた令嬢が、身分違いの騎士と真実の愛を見つける、非常に分かりやすい恋物語。


「フェリクス様、今日はクッキーを焼いてきましたの」

「それは楽しみです。騎士団の皆もエリーゼ様の差し入れを喜んでいますよ。尤も、私ほど心待ちにしている者はおりませんが」

「ふふ、喜んでいただけてわたくしも嬉しいです。はりきってたくさん作りすぎてしまいました」

 エリーゼ本人はまだ、これが恋なのかどうか分かっていない様子だった。

 彼女にとってフェリクスは「親切で頼りになる騎士様」であり、フェリクスからの好意も騎士としての優しさとシンプルに受け流している節がある。鈍感ここに極まれり。


 王太子であるディートリヒと違ってフェリクスはまっすぐに愛を囁ける。たとえば「貴女のためなら世界を敵に回してもいい」みたいな気障な台詞を吐くことも、それを実行することさえ許されているのだった。

 エリーゼが鈍いのなら彼は言葉にしてはっきりと気づかせることもできるわけだ。


 私は一人、庭に残って伸びをした。

「さて、私も帰るか」

 迎えなんてこない。それが気楽でいい。部屋に戻ればミリアが美味しいお茶やお菓子を用意していてくれる。図書室や厨房、魔法研究室に遊びに行ったっていい。

 私には一人で過ごすという自由がある。

 ディートリヒの計画通り、自分の足で人生を歩み始めたエリーゼと、その隣にはフェリクスがいて、それぞれが自分に合った場所に収まっている。

 ……そう、呑気に思っていた。

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