純情ストーカー
雷曜日の午後、雨が降っているので庭仕事は休み、エリーゼと一緒に図書室で勉強会を開くことにした。
「エルハーフェンって、昔はもっと小さかったんだね」
「はい。建国以来しばらくは聖女様をお守りするので手一杯だったのです」
聖女がいても戦争は起きる。まあ、そうか。世界を維持する唯一の存在だからこそ、自分の国で力を発揮してほしいものだろう。聖女のいるそこが世界の中心になるのだから。
「ですが三百年前の戦争で隣国の侵攻を防ぎきり、逆にエルハーフェンの領土を広げたそうですわ」
エリーゼは歴史にも詳しかった。年号や人名、出来事について、お伽噺を語るように教えてくれる。記憶力がいいし、知識も豊富だ。
それだけで言えば決して頭が悪いわけではない。それだけで、言えば。
「マリ、あなたは……もしも敵国に攻められたら、あなたなら。あなたが国を守る立場にいたら、どうなさいますか?」
「いきなりだね。一概には言えないけど」
その敵国との力関係とか、これまでの外交方針とか、どこが攻められたのか、なぜ攻められたのか、相手の要求は何なのか。まずはいろいろ想定すべき前提がある。
エリーゼの青い瞳が真剣にこちらを見つめている。彼女はどう答えてほしいのだろう。
「うーん。一旦、兵力、地形、同盟国の有無とか。どうすれば勝ちやすいかを考える」
「はい」
「でも、どう足掻いても勝てなさそうだったら……私なら、うまく負ける方法を探すかな?」
私の言葉に、エリーゼはぽかんと口を開ける。淑女らしくありませんぞ、お嬢様。
「うまく、負ける……ですか?」
「うん。たとえば降伏の条件を有利に引き出したり。領地をとられるにしても、できるだけ被害を少なくするとか。逆に領地を差し出して国民の安全を保障してもらうとか。徹底抗戦して全滅するよりはマシでしょ」
「そういう考え方も、あるのですね……」
「もちろんある程度は戦った後だけど。簡単に負けたら敵が味を占めるだろうし。それにとられた土地に住んでいる国民は、敵の支配下で奴隷同然になるかも。結局は取引だよね」
「取引……」
エリーゼの顔が曇っていく。私がここにきたばかりの頃のディートリヒの言葉が、今は実感を持って理解できる。
『エリーゼは純粋で慈愛に満ちている最高の女性だ。しかし物事の因果関係を理解する能力が欠落している』
歴史として戦争を知っているにもかかわらず、彼女はそれが我が身に降りかかった時、取引を有利に運ぶことはできないのだ。
「……もしエリーゼが国を守る立場にいたらどうする?」
「わ、わたくしが、身代わりになります」
「へ?」
予想の斜め上の答えに私が呆気にとられていると、エリーゼは真剣な眼差しで続けた。
「わたくしが敵国に行って、平和的な解決を誠心誠意お願いいたします。領土の代わりにわたくしの身柄を、財産を差し出しますわ」
「いやいや……」
国を守る立場、つまり王妃だったとしたら、人質になるなんて相手に最高のカードを渡すようなものだ。さらに要求を吊り上げられるに決まっている。それに一人の命で国が救えるほど国際政治は甘くない。
絶句する私を見たエリーゼは顔色を悪くして目を伏せる。
「きっと、良い答えではないのですね。でも……わたくしには、誰かを見捨てることなどできません。捕虜の方々も、領土の人々も、兵士たちも、みんな大切な我が国の民ですもの」
「じゃあ、逆に、攻め込んで勝つのは?」
「勝つ……ということは、相手の国の兵士の方々を倒すということですわよね? あちらにも帰りを待つ家族がいらっしゃいますのに……」
ついにエリーゼは顔を覆ってしまった。
「だめですわ、マリ。わたくしには、正解が見つかりません。負けるということは我が国の民が苦しむことで、勝つということは、他国の民が苦しむということです。わたくしには……」
これが彼女の本質だった。敵味方の区別なく、すべての人の不幸を自分の痛みとして感じてしまう。
優しく慈しみに満ちて、とても……国をやり取りする商売には向いてない。
「わたくしは愚かなのです。善意だけでは、人は救えないのですわね。ディートリヒ様は正しいことをなさいました」
「エリーゼは愚かじゃないよ。ディートリヒだってそう言ってた。政治に向いてなかったとして、他になんでも向いてることはある」
そして先日フェリクスが言ったように、人にはそれぞれ領分がある。たとえばエリーゼが街のお菓子屋さんの看板娘だとしたら、私はきっと通いつめるだろう。あとディートリヒも通いつめそうだ。
「あんな風に恥をかかされたのに、ディートリヒのこと恨んだりしないの?」
しないんだろうなとは思いつつ聞いてみると、エリーゼは案の定きょとんとしていた。
「わたくしは、ディートリヒ様を尊敬しておりますわ」
「尊敬かー」
「出会う前から、ずっとです。あの方は、わたくしにはない深遠なお考えをお持ちで、常に国の未来を見据えていらっしゃいます。幼い頃からご自身の感情よりも公務を優先され、立派にお務めを果たしておられます」
その青い瞳には一点の曇りもない敬愛の光だけが宿っていた。
「ディートリヒ様は必ずや名君におなりだと、わたくしは分かっておりますもの」
まるで偉人伝の英雄を語るような口ぶり。あるいは崇拝する神について語る信者のような。
「ですから、マリがディートリヒ様のおそばにいらしてくださって、本当に安心いたしました。マリならきっとあの方を支えて差し上げられますわ」
ああ、ディートリヒ。可哀想。確かに敬愛されているのにこれっぽっちも男として見られていない。
「マリは運命の伴侶として、ディートリヒ様を愛してらっしゃるのね」
「え」
「だって『真実の愛』ですもの」
愛? なにそれ、いくらで売れるの?
「優秀なビジネスパートナーだとは思ってるよ」
「ビジネス……パートナーですか?」
「うん。仕事を任されるうえでは、とても頼りになる人」
「息の合った素敵な夫婦、ということですわね!」
「……まあ、それでもいいか」
私はディートリヒを愛していない。でも尊敬はしている。信頼もしている。
ある意味ではエリーゼと同じだけれど、私に対してはディートリヒも同様に愛がないのがお互いにとって救いだった。
翌朝。ラジオ体操の後、私はディートリヒの執務室を訪ねた。王族との関わりにもすっかり慣れたもので、始めのような「王太子の部屋!」という緊張は跡形もなくなっていた。
「おはようございまーす」
「ああ、マリか。おはよう」
ディートリヒは今日も書類の山と格闘していたけれど、私の姿を見ると手を休めた。
間延びした私の挨拶に怒鳴りもしない、それどころか丁寧に挨拶を返してくる。無駄な職務を押しつけず自分の仕事は自分でする。見たこともないくらい、いい上司だ。
「昨日、エリーゼといろいろ話したんですけど」
私がそう切り出すと、ディートリヒは万年筆を置いて碧い瞳を私に向ける。
「戦争の話、だろう?」
「えっ。なんで知ってるんですか? 盗聴?」
「人聞きが悪いな。図書室の司書から日報が届くだけだ。聖女と王太子の元婚約者が安全保障について議論していたとなれば、耳に入らないはずがない」
そんな大袈裟な話をした覚えはないけれども。
「君が余計なことを尋ねるから、エリーゼが悩んでいただろう」
「それ司書さんの報告じゃないですよね? やっぱり自分で聞いてました?」
「私はいつでもエリーゼを見守っている。彼女が何をしているか、誰と話しているか、常に把握している」
「こわっ。ストーカーだ」
「馬鹿を言うな。彼女を怯えさせるような真似はしない」
うん、仮に物陰からディートリヒが二十四時間見守っていてもエリーゼは怯えない気がする。「さすがはディートリヒ様、職務熱心ですわ!」とか言って。想像したら頭が痛くなってきた。
彼女を愛しすぎているディートリヒ、すべてを善意で解釈しすぎるエリーゼ。彼女の資質がどうであれ、確かにこの二人は結婚しなくてよかったのかもしれない。
相性が悪い。いや、むしろ良すぎる? よく分からないけれど、一緒にしないほうが平和な気がする。
「ついでだからあなたのことを恨んでないのか聞いちゃった」
「馬鹿馬鹿しい。エリーゼは誰かを恨んだりなどしない」
「うん。『出会う前から尊敬しています』って言ってましたよ」
「…………尊敬か。……知っていたさ」
「恋心は全然なかったですね。清々しいくらいに」
「言うな。傷口に塩を塗る趣味があるのか、君は」
「ちょっと楽しいです」
ディートリヒは椅子に深くもたれかかり、遠い目をしていた。
「私の苦悩や執着など、エリーゼには想像もつかないのだろうな」
ああ、ちゃんと執着の自覚はあるらしい。自分の執着心すらも冷静かつ合理的に観察できているわけだ。プライドのためにそれを抑えたりしないだけで。
「そういえば、フェリクスがエリーゼに近づいてるの、知ってます?」
「知っている。彼が獲った兎を捌こうとしてエリーゼが泣きそうになり、彼が慰めたと」
「……」
「なんだ、その目は」
「いや、情報が早すぎて怖いなって」
「王宮内の出来事を把握するのは支配者の義務だ」
「じゃあ、あの後のフェリクスの動向は?」
「そんなことまで私が知っておく必要はない」
結局エリーゼしか見てないのじゃないか、この純情一途ストーカー。愛が重すぎる。
「私はいつでもエリーゼを見守っている。彼女が誰と結ばれようと、それが彼女の意志である限り、私は手出ししない」
「そうですか。まあ、フェリクスなら大丈夫でしょ。理想的な騎士様だし」
「……エリーゼが、選んだのならな……」
そう言いつつディートリヒはめちゃくちゃ歯を食いしばっていた。なんて面倒くさい男なのだろう。この調子で本当にエリーゼの恋を大人しく見届けられるのか。
「じゃ、そろそろお昼ごはんを食べに行こうかな」
「ああ。私も通商条約の見直しに戻るとしよう」
ディートリヒは再び書類に向き直った。
「たまには休憩してくださいよ、未来の名君様」
私が皮肉交じりに言うと、彼はふんと鼻を鳴らした。
「なら時々は手伝ってくれ、未来の王妃殿。君の働きには期待している」
「魔力の浄化はしてますよ。自覚ないけど」
「それは分かっている。そうではなく、せっかく得ている知性を使えということだ。そのために図書室に通っているのではないのか? 嫌なら無理にとは言わないが」
ちょっと呆気にとられてしまった。
そりゃあ最低限の知識をつけるべく勉強してはいるけれど、それはあくまでも最低限の話であって、私に「知性」なんて高尚なものはない。
私ができるのは精々、言われた通りの仕事をやるだけ。どこまでいっても社畜なのだから。
でもディートリヒはなぜだかとても意外そうな顔をした。
「自覚がなかったのか? 私は一目見た時から君の適正を分かっていた。自尊心を押し隠して遜り、情を持ちながらも現実のために無視できる冷静な眼差しを」
「なんか褒められてるのか貶されてるのか分からない……」
「君は王妃に向いているのだよ、マリ」
何を言っているのだろうか、この人は。有能で合理的でエリーゼに対してだけ異常に解像度が高いディートリヒも、異世界人への見積もりは甘いらしい。
厨房で腹ごしらえをしていつものように庭へ向かうと、エリーゼがすでに到着していた。
「マリ! 見てくださいませ。増えすぎた花を、別の植木鉢に移したのです。これなら、この子はここで咲いていくことができますわ!」
「おー、いいじゃない。……果物とか、増やしてみようか。焼き菓子に合いそうなやつ」
「素敵ですね。一生懸命に生きた証ですもの、わたくし、感謝していただきます」
土に塗れながら他愛ない話をして笑い合う。
厄介に思われた業務提携も今のところ私を煩わせることはなく、ただ心地よい、穏やかな午後が続いている。
毎日がこのままゆっくりと過ぎていけばいいな。




