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1.差し出された手

街は、正しい顔をしていた。


泣きながら歩いても、誰も立ち止まらない。ネオンが濡れた路面に滲み、私の靴先を照らしているのに、その光は私を見つけてくれなかった。人々は前を向いて歩く。速すぎもせず、遅すぎもせず、善良な市民としてちょうどいい速度で。


交差点の掲示板には、安心安全を謳う標語が流れている。犯罪は許されない。困ったときは相談を。正しい行動を。


そこには、誰かを助ける、とは書いていなかった。


その手は、いつでも届く距離にあった。 けれど、誰も伸ばさなかった。


握るための手は、最初から、自分のためにしか用意されていない。


私は転び、膝を擦りむいた。痛みよりも先に、恥ずかしさが来た。ここで立ち止まるのは迷惑だ。泣いているのは場違いだ。そんな空気だけが、正しく私を囲んでいた。


誰も悪くない。


視線を逸らす人。足を速める人。関係ないふりをして、通り過ぎる人。


理由なんて、最初から要らなかった。 だから、誰も立ち止まらなかった。


影が落ちた。


誰かが立ち止まったのだと気づくまで、少し時間がかかった。足音が止まり、空気の向きが変わる。


顔を上げると、男が立っていた。


傷の多い手。爪の奥に残る黒ずみ。洗っても落ちない色。正義の標語の前では、自然と視線を逸らされる側の人間だった。


男は何も言わなかった。


ただ、手を差し出した。


私はその手を見つめた。白くはない。綺麗でもない。正しいとも言えない。


それでも、その手は震えていた。


掴むか、見なかったことにするか。


選択肢は、それだけだった。


私は、その手を取った。


男は私を引き起こすと、すぐに歩き出した。大通りを避け、裏道を選び、監視カメラの死角を自然に繋いでいく。迷いがない。逃げることに慣れた歩き方だった。


古い雑居ビルの裏口で、男は立ち止まった。鍵束を取り出す。合っていない鍵ばかりなのに、躊躇がない。短い音とともに、錠が外れた。


中は暗く、埃と鉄の匂いがした。


男は倉庫の奥から、小さな鞄を引きずり出す。中身は見せない。ただ、その重さだけで、綺麗なものじゃないと分かった。


サイレンが、遠くで鳴り始める。


男は私の手首を掴み、走った。何も説明はなかった。説明されれば、正しいかどうかを考えてしまう。


路地の奥で、うずくまっている影を見つけた。男は迷わず鞄を放り投げた。


受け取った誰かは、泣きながら何かを言おうとした。でも男は振り返らない。


余りあるものから、持たざる者へ渡す。


それは犯罪で、正義ではなかった。


それでも、その夜、確かに一人は救われた。


赤と青の光が、近づいてくる。


男は立ち止まり、私を後ろに押した。逃げろ、とも、残れ、とも言わない。ただ、手を離す。


その背中を、私は見送った。


――後日、ニュースは淡々と伝えた。


『窃盗事件の容疑者を、警察が確保』


通行人に怪我はなし。市民の行動は概ね適切だった、と。


彼が誰を助けたかは、どこにも書かれていなかった。


私は街を歩きながら、自分の手を見る。


後からなら、いくらでも言える。 ああすればよかった。こうすればよかった。危険だったから仕方ない。


その場では、誰も何もしなかったのに。


正義は、何一つ間違っていなかった。


それでも私は知ってしまった。


この街では、 自分は悪じゃないと思っている人間ほど、 自分を正義だと信じて、手を出さないということを。



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