73話 十年後の俺より
.......ぁ........い。
........な........い。
うえも、したも、みぎも。ひだりも。
まえも、うしろも。
おれは、どれだけここをさまよっていたんだろう。
いちねん? じゅうねん? ひゃくねん?
じかんの、かんかくが、とけていく。
なにか。たいせつなことを、わすれているようなきがする。
なんだったか。
しろ。
ぴかぴかひかる、しろ。
あたたかくて、やさしくて、いつもとなりにいてくれた、しろ。
ああ。そうだ。
おれは、もどらないと。
あの、あたたかいばしょへ。
ユキの、元へ。
◇◇◇◇◇
気が遠くなるような、粘り気のある黒の世界から、俺は強引に意識を引き剥がした。
「ッ、はぁ......!」
肺に空気が流れ込む。
冷たく、乾燥した、どこか鉄錆の味がする空気だ。
重たい瞼を開ける。
そこに広がっていたのは、俺の知る「ロンベル」の景色ではなかった。
「......ここは」
緑豊かな森も、街道も、何もない。
地面は無機質な灰色の素材で舗装され、整然と区画整理された鉄とコンクリートの建造物が並んでいる。
空は厚い雲に覆われ、太陽の光さえも人工的な照明に管理されているようだ。
かつての自然や自由な空気は微塵もなく、何か大きな脅威に備えるため、あるいは何かを成し遂げるために「完全に管理された社会」がそこにはあった。
「あ、あれは......」
俺は痛む身体を起こし、空を見上げる。
世界を見下ろすように、遥か彼方にそびえ立つ巨大な塔。あれは、ロンベルにあったはずの『音韻魔導塔』か?
いや、規模が違う。天を突くほどの高さと、禍々しいまでの威容を誇っている。
そして、その塔の周囲には、かつて俺たちが守ろうとした優雅な城下町はない。あるのは、軍事施設のような殺風景な居住区だけだ。
ここは、俺が封印されてから......随分と遠い未来らしい。ガルファの言っていた「10年」が、本当に経過してしまったのか。
......状況を確認しないと
俺は右手を突き出し、魔力を練り上げようとする。相棒である魔剣を呼び出すために。
「............」
出てこない。
魔剣はおろか、掌に集まるはずの魔力の昂りすら感じられない。
それは、今すぐできる賭けを無くすものだった。
俺に残された、唯一にして最大の賭け。
──────『タイムシフト』。
ここには武器もない。魔力もない。 あるのは、絶望と瓦礫の山だけだ。
なら、答えは簡単だ。 今すぐ舌を噛み切るなり、高いところから飛び降りるなりして、リセットすればいい。 そうすれば、またあの森の──ガルファと対峙する瞬間に戻れるはずだ。
俺は、落ちていた鋭利なガラス片を拾い上げ、自らの頸動脈に当てる。 少し力を入れれば、熱い血が噴き出し、視界が暗転して......。
「............」
──そこで、俺の手が止まった。
違う。 そうじゃない。
戻って、どうする?
あの森に戻ったとして、今の俺にガルファを倒す術はあるのか? 奴の能力は未知数。 今のまま戻れば、俺はまた同じように敗北し、ユキは殺され、またこの「10年後の未来」へと叩き落されるだけだ。
それは「死に戻り」じゃない。ただの「敗北のループ」だ。
「......はっ。危ないところだった」
俺は自嘲気味に笑い、首筋からガラス片を離す。 思考停止してリセットを選ぶところだった。それは、思考放棄であり、逃げだ。
ここにあるのは「敗北した未来」だ。 だが、裏を返せば......ここには「答え」がある。
円卓がどうやって世界を支配したのか。 ガルファの能力に穴はないのか。 この10年間で、奴らが何を晒し、何に躓いたのか。
ここはただの牢獄じゃない。敵の情報が詰まった、巨大なアーカイブだ。
このクソみたいな未来を変えるための何かを、俺がここから持ち帰るんだ。
「待ってろよ、ガルファ......」
俺はガラス片を握りしめ、立ち上がる。 その瞳に宿るのは、絶望ではない。 未来を強奪しようとする、反逆者の光だ。まずは情報だ。そして、協力者。 この世界で生き残っているであろう、かつての仲間たちの元へ。
俺は影に紛れ、音もなく歩き出した。 ここからが、俺の──いや、俺たちの反撃の始まりだ。
俺は思考を切り替え、すぐさまこの円卓の基地から脱出する計画を立て始めた。
目指す場所はある。
恐らく、ソフィアは生きているならあそこにいるだろう。いつか逃げ込んだ、エデニアムの隠し副基地だ。
そこで、俺の帰還を待っている。そんな気がした。
「......行くか」
俺は身を低くし、影に紛れる。脱出はそこまで難しい物じゃない。こう見えて、俺は元兵士だ。
魔力がなくとも、潜入や脱出のノウハウなら、身体がうっすらと覚えている。
円卓は魔力を失った俺を、脅威と感じていないのか、脱出は容易だった。
さあ、反撃の開始だ──────。
その身一つで、俺はロンベルから出発した。




