70話 鈍刀、乱麻を貫く
俺がユキへと希望を託し、意識を手放してから、どれくらいの時間が経ったんだ?数秒か、あるいは数分か。
泥の冷たさと、全身を駆け巡る激痛で、俺の意識は強引に浮上した。
「ん、うぅッ....」
鉛のように重い瞼をこじ開ける。
ようやく、身体が言うことを聞く。軋む手足を叱咤し、俺は上体を起こした。
「......はぁ、はぁ」
視界に飛び込んできたのは、地面に伏して肩で息をしているユキの姿。ボロボロだ。法衣は裂け、全身打撲の痕がある。
だが、その表情はやり遂げた男の顔をしていた。
そして、その向こう側。
かつて纏っていた禍々しい赤色のオーラも、エンジンのような駆動音も消え失せ、ただの人間として立っているルターがいた。
......やったのか、ユキ
どうやら、ユキはあの怪物じみた能力を解除──いや、『拒絶』したらしい。俺たちが手も足も出なかった理不尽な加速と重量を、全て無に帰したのだ。
繋いでくれた。
その命懸けのチャンスを、俺が無駄にするわけにはいかない。
「ぐ、ぅぅぅ......ッ!」
俺は地面の泥を強く握りしめ、震える足に全ての力を込めて立ち上がる。
ふらつきながらも、俺はルターを見据えた。
決めるぞ。
俺は右手を突き出し、魔力を練り上げる。
魔剣を生成す──────
......来ない。
いつもなら瞬時に掌に現れるはずの黒き刃が、影すら形作らない。
「なッ......!?」
魔力切れか? いや、違う。体内に魔力はある。
だが、体外に出そうとした瞬間、世界そのものに弾かれる感覚。この空間一帯のマナが、完全に『拒絶』されている?
「......どうやら、同じ状況らしいな」
立ち尽くす俺を見て、ルターが口を開く。彼もまた、拳を握りしめて何かを発動しようとしていたようだが、そこには何も起きなかった。
身体強化も、加速も。何もかもが機能しない。
「ああ。......そうみたいだ」
俺は構えをとる。剣の構えじゃない。素手での、喧嘩の構えだ。
魔力なし。小細工なし。武器すらなし。残されたのは、鍛え上げた己の肉体と、砕けない意志のみ。
それが俺たちの、最終ラウンドのルールらしい。
ルターがニヤリと笑った。
狂気も殺意もない。ただ一人の格闘家としての、純粋な闘志がそこにあった。
「来い、レイ」
「はあぁぁぁああ!!!!!」
俺は吼えた。地面を蹴り、泥を跳ね上げ、真っ直ぐに突っ込む。
ルターもまた、重い足取りで迎撃に出る。
ドゴォッ!!!!
俺の右拳がルターの頬を捉え、ルターの左拳が俺の脇腹にめり込む。
硬い。痛い。
魔法障壁のない生身の殴り合いは、あまりにも痛烈で、そして──最高に熱い。
「オラァッ!!」
「グルァアアッ!!」
技術もへったくれもない。
俺は殴り、殴られ、血を吐きながら、それでも拳を振り続けた。
バゴォッッ!!!
今まで以上に重く、そして深い一撃。
ルターの渾身の右拳が、俺のガードを突き破り、顎を砕かんばかりの勢いで炸裂した。
「が、ぁ......ッ」
視界が白く弾ける。脳が揺れ、地面の感触が消える。膝から崩れ落ちそうになる俺を、無慈悲な重力が引っ張る。
意識が飛びかける。
反撃が、できない──────。
「それで......終わりかぁああ!!!???」
ルターの怒号と共に、トドメの追撃が飛んでくる。避けられない。防げない。
死の感触が、冷たく俺の首筋を撫でた。
その時だった。
ピチャッ。
後ろで、液体が盛大に飛び散る音がした。泥の音じゃない。もっと生々しい、鉄の匂いがする音。
それは、ユキの血だった。
「......ッ、あ......」
俺は霞む視界の端で見た。魔法の反動とルターの一撃でボロボロになったユキが、地面に血だまりを作りながら、それでも必死に何かを叫ぼうとしていた。
喉が潰れているのか、ヒューヒューと空気が漏れる音しか聞こえない。
それでも、ユキは叫んだ。
命そのものを吐き出すように。
「...ぁ....あ.....あ.....」
「ま”け”る”なあぁぁぁぁああああああ!!!!!!!!」
その裂帛の叫びは、物理的な音を超えて、確かに届いた。
俺の、”心”のど真ん中に。
ドクンッ!!!!
俺の心臓が跳ねる。
その勇気は、俺の痛みも、恐怖も、絶望すらも『拒絶』した。
──ああ、そうだ。俺が負けるわけにはいかない
俺の身体から力が湧き上がる。マナじゃない。魔力回路を通すエネルギーですらない。
もっと根源的で、もっと純粋な、魂の輝き。
「はあぁぁぁああ!!!!!!!!」
俺は踏み込んだ。迫りくるルターの拳を紙一重でかわし、懐へと潜り込む。
何かが形成される感覚。従来の魔法とは違う。夜空に輝く、静寂にして絶対的な光。
”月”に恵まれたその拳は、白銀の軌道を描き────。
──────ルターの胸板を、筋肉の鎧ごと深々と貫いた。




