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百折不撓のアルゴリズム  作者: 一ノ瀬隆
2章 艱難辛苦のフォアードロード

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35話 漆黒の感情

目の前にいるのは、精神が崩壊し、抜け殻のようになってしまったユキ。呼びかけても、揺さぶっても、その瞳に光は戻らない。ただ、恐怖に震える小さな肉塊がそこにあるだけだ。



そんな俺にできることは──。



「......帰ろう。ユキ」



そう言って、泥と返り血に汚れたユキを背負い、ヴァイドヘイムへと歩き出すことだけだった。背中に感じるその軽さが、今は鉛のように重く、俺の心臓を押し潰そうとしていた。



◇◇◇◇◇



「治療は私に任せてください」



城に戻ると、すでに異変を察知していたソフィアが入り口で待機していた。彼女はユキの惨状を一目見ると、何も聞かずに、しかし悲痛な顔でユキを引き取り、治療室へと連れて行った。その背中を見送ることすら、今の俺には億劫だった。



残されたのは、俺と、作戦会議室で報告を待っていたイーシアだけだ。



「円卓を......倒した」



俺は感情の抜け落ちた声で、イーシアへ報告した。報告というより、それは独り言に近い呟きだった。



「それは誠か! たった一人で、半日で解決するとは......! 流石、勇者とその守護者だな」



イーシアが感嘆の声を上げる。 だが、その純粋な称賛が、今の俺には耳障りなノイズでしかなかった。 俺の全身にこびりついた血の臭いも、絶望も、彼女には見えていないのか。



「......守護者、か」


俺は乾いた笑いを漏らす。喉の奥から、どす黒い何かがせり上がってくる。



「ふざけるな。俺は、どうせユキを追い詰めた張本人なんだよ」



「......レイ殿?」



イーシアの声色が、称賛から困惑へと変わる。



「俺のせいで、ユキは心を閉ざした。あいつに地獄を見せたのは敵じゃない。俺なんだ......俺の、せいでッ!」



やりきれない感情が暴発する。俺は近くの机を拳で殴りつけた。



バゴォッ!!



厚い木板が砕け散り、木片が舞う。拳から血が流れるが、痛みなど感じない。心の痛みに比べれば、こんなもの。



「レイ殿。貴殿が責任を感じているのは分かる。だが、今は──」



「うるさい! お前に何が分かる!」



俺はイーシアの言葉を遮り、怒鳴りつけた。自分でも驚くほど、汚くて、幼い声が出た。



「俺は、これでも最善を尽くしたんだ。誰よりもあいつのことを考えて、手を汚して、嫌われ役を買って出て......! なんで、その俺がこんな目に遭わなきゃならないんだよ!」



叫びながら、自分が何を言っているのか分からなくなってくる。悲しみ、怒り、自己憐憫。 泥のような感情が渦を巻き、思考がまとまらない。



こんなこと、初めてだ。常に冷静で、合理的だった自分が、まるで駄々っ子のように喚き散らしている。自分が自分じゃないような感覚。



「言わせておけば、このたわけがッ!」



ドゴォォッ!!



視界が揺れた。衝撃音が脳を揺らし、遅れて、左頬に焼き尽くすような激痛が走る。



俺は床に無様に転がった。何が起きた? 殴られた? この俺が?



「今のレイ殿は、矛盾している!」



見上げると、イーシアが拳を握りしめ、鬼のような形相で俺を見下ろしていた。だがその瞳にあるのは、侮蔑ではない。戦友を見る、燃えるような「怒り」と「心配」だった。



「今一番しっかりしなければならないのは、他でもないレイ殿だというのに! 被害者ぶって泣き言を喚くな!」



「矛盾、だって......? でも、俺は......」



考えがまとまらない。殴られた衝撃で、思考の悪いループが強制的に断ち切られる。



「この際、ハッキリ言おう。勇者様が心を閉ざしたのは、貴殿のせいだ」



「ッ!?」



「だがそれは、貴殿が『手を汚したから』ではない! 貴公が傷つく姿そのものが、あの子を殺しているのだと、なぜ気づかん!」



「目を覚ませ!」



ガッッ!!



胸倉を掴まれ、強引に引き起こされる。そして、もう一発。今度は右頬を殴り飛ばされる。



口の中に鉄の味が広がる。 痛い。熱い。でも、その痛みのおかげで、世界が鮮明になる。



......そうだな。 気づいていた。そして、見ないふりをしていたんだ。ユキとの間に生まれた、決定的なすれ違いを。



今回のタゼの戦いだけが原因じゃない。 俺が一人で背負い込み、ユキを遠ざけ、勝手に解決しようとしたこと。「お前のためだ」と言い訳して、ユキの意思を無視し続けたこと。



その全ての蓄積が、あいつを追い詰めた。



記憶がシンクロしたとき、俺もユキの記憶を見たじゃないか。



『レイが遠くに行ってしまう』



『僕はただの荷物なんだ』



そこには、タゼが見せた幻覚への恐怖ではなく、俺に置いて行かれることへの絶望があった。



『勇者として世界を救え』



『みんなの希望となれ』



そして、勇者としての責務も、まだ幼い彼の心に深く突き刺さっていた。それを一番近くで支えるべき俺が、彼を孤独にしていたんだ。



俺は、ふらつく足で立ち上がる。頬は腫れ上がり、ズキズキと痛む。だが、頭の中にかかっていた霧は晴れていた。



「......ありがとう。イーシアさん。少し、目が覚めた」



「フン。やっといつものツラに戻ったか」



イーシアさんは乱れた呼吸を整え、そっぽを向く。その耳が少し赤いのを、俺は見逃さなかった。不器用な人だ。でも、今の俺にはその不器用な優しさが救いだった。



確かに、俺に纏わりつく後悔は拭えない。一生消えないだろう。 ユキは壊れてしまった。でも、今しないといけないのは、ただ責任を感じて立ち止まることじゃない。



俺は、拳を握りしめて自らを震え立たせる。



その後悔ごと背負って、前に進むことだ。 まだ、戦いは終わっていないのだから。

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