31話 恐怖の伝播
僕は、イアン。この国、ヴァイドヘイム王国の兵士だ。苦節10年。ようやく斥候の立場までやってこれた。今回の円卓の件で手柄を立てれば、もっと昇進できるはずだ!
森の奥深く。気配を消して偵察を続けていた僕は、ふと、甘い香りが漂っていることに気づいた。
「あら、貴方。希望に満ちた顔をしているのね」
背後──!? 気づかないうちに、誰かに後ろを取られていた。いつの間に? 訓練された斥候である僕が、足音一つ感知できないなんて。
振り返ると、そこには喪服のような黒いドレスを纏った、青白い肌の女が立っていた。
「可哀そうに。生きていることが、こんなにも苦痛を伴うことだとも知らずに」
女は慈愛に満ちた瞳で、僕の頬に冷たい手を添える。
「貴方に、祝福をあげるわ」
その瞬間、僕は底のない闇──死の回廊へと突き落とされた。
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俺たちは、円卓がこの城下町に攻め込んでくるまで待機をする判断を下した。相手の出方を伺い、それによっていくつものプランを講じる。いわゆる「待ち」の戦術だ。
「レイ。気分転換に城下町へ観光に行ってくるね」
作戦会議の休憩中、そう弱弱しく、ユキが話しかけてきた。ずっと部屋に籠りきりだったし、円卓が近づいたという報告もない。城壁に守られた城下町なら安全だろう。
「ああ。楽しんでこい。何かあったらすぐ呼べよ」
「うん。ありがとう」
本当なら同行したかったが、これからイーシアや軍参謀たちとの最終的な詰めがある。俺はそっちに集中すべきだと判断した。……ユキの寂しげな背中に、もっと注意を払うべきだったのに。
作戦会議は、日が落ちるまで続いた。窓の外が茜色から群青色へと染まり始めた、その時だった。
ガタンッ!!
会議室の扉が、乱暴に開かれた。
「あ……あ、あ……」
入ってきたのは、泥と脂汗にまみれた一人の兵士。焦点の合っていない瞳、ガタガタと震える顎。まるで、この世の終わりのような形相だ。
「其方は、森へ斥候に出ていたイアンではないか。どうしたのだ、報告はどうなっている」
イーシアがその兵士の異変を感じ取り、眉を寄せて近づく。しかし、イアンと呼ばれた兵士は、イーシアの言葉など聞こえていないように、虚空を見つめて呟き始めた。
「奴は……悪魔だ……」
「イアン?」
「死ぬのが、怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いぃぃぃ!!!」
絶叫。人間が出していい音域を超えた悲鳴を上げ、イアンはその場で白目をむいて倒れた。ピクリとも動かない。……心停止だ。恐怖のあまり、ショック死したのか?
「なッ……!? イーシア様! 大変です!」
窓際にいた参謀の一人が叫ぶ。
「街が! 街の人々の様子がおかしいです!」
俺とイーシアさんは窓に駆け寄り、城下を見下ろす。そこには、地獄が広がっていた。
ある者は自らの顔を掻きむしり、ある者は隣人を襲い、またある者は高い建物から笑顔で飛び降りている。阿鼻叫喚のパニック。
「イーシア! これはどういうことだ!」
そう振り返ると、気丈なはずのイーシアまでもが、ガタガタと震え、うずくまっていた。
「恐怖が……伝染してる……?」
「ッ!」
俺はたまらず、窓枠を蹴り破って城下町へと飛び出した。風魔法で落下の衝撃を殺し、通りを駆ける。
走るさなか、目に入ってくるのは異常な光景ばかりだ。 恐怖で死んでいるもの。発狂して暴れるもの。必死に自傷しているもの。 物理的な攻撃じゃない。これは精神汚染──「呪い」の類か!
「ユキッ!!!」
俺は喉が裂けんばかりに叫ぶ。 嫌な予感がする。心臓が早鐘を打つ。 頼む、無事でいてくれ。俺が駆けつけるまで、耐えてくれ。
だが。
そこには、
路地裏に、見覚えのある服が倒れていた。
俺は息を止め、その身体を抱き起す。 恐怖に歪んだ表情。大きく見開かれた瞳には、もう光がない。
俺は、ユキの亡骸を抱きしめた。 温もりは、まだ残っていた。あと数分、いや数秒早ければ間に合ったかもしれない。
悲しみよりも先に、冷徹な計算が脳を支配する。 原因は不明。敵の姿も見えない。だが、結果は確定した。
なら──。
「クソが──────」
俺は懐からナイフを取り出し、躊躇なく自らの頸動脈に突き立てた。
鮮血が視界を覆う。 意識が急速にフェードアウトしていく中で、俺は次なる世界線を観測する。
──────第二次観測、開始。




