貧乏子爵令嬢は、王子のフェロモンに靡かない。
ここシュナール王国は、大陸に数ある国の中でも有数の歴史ある大国である。
周辺国と比べても治安は良好、城下町は活気に溢れ、暮らし易さは折り紙付き。
一見何の問題もない豊かな国に見えた。
――ある一点を除いては。
シュナール王国の王太子フェルゼンは、背を丸め、俯きがちに城の廊下を歩いていた。
気分はこの上なく憂鬱で、特に行くあてもなかったのだが、鬱屈した気分に堪えきれずにのそのそと部屋を出てきたところだった。
吹き抜けの階段から階下を覗けば、忙しなく行き交う使用人が目に入り、否応なく今夜の夜会を思い起こさせた。
今宵、この城では夜会が行われる。
初めて夜会に足を踏み入れる若者にとって、社交界での最初のお披露目となる記念すべきデビュタントが開かれるのだ。
年に一度の華やかな場にも関わらず、今夜も繰り広げられるであろう惨状を思うと、フェルゼンは無意識に溜め息を吐いていた。
フェルゼンは、生まれつき困った体質をしていた。
特異体質の一種なのだろうか、ところ構わずフェロモンを撒き散らしてしまうのである。
そう聞くと、女性にモテる素晴らしい能力だと思われがちだが、彼の場合は度を越していた。
もはや、モテるとかモテないなどというレベルの話ではないのだ。
話はフェルゼン誕生の時まで遡る。
高らかな産声をあげてこの世に生まれ落ちたフェルゼンに、まず医師と産婆がやられた。
輝くように美しい赤子の姿と、祝福の鐘の音かと錯覚を起こすほどの甘美な泣き声に、呆気なく失神してしまったのだ。
次いで、驚き慌てて駆け寄った侍女ら、喜び勇んで入室した父である国王、何が起きたのか心配して目をやった母までもがフェルゼンを見て気を失い、たまたま産声を耳にしただけの城の使用人はそろって腰を抜かした。
嘘みたいな話だが、おかげで生まれたてのフェルゼンは、皆が意識を取り戻すまでしばらく裸のまま放置されていたらしい。
王太子の誕生とも思えぬ悲惨な状況である。
この奇妙な出来事の原因はすぐに宰相を中心に調査され、あっさりと謎は解明された。
フェルゼンの類稀なる美しさ、発せられる声、そして何より彼から放たれるフェロモンに充てられた結果であり、その効果は性別関係なくすべての人に現れることがわかった。
幸いなことに、日々顔を合わせ免疫が出来ることによって、徐々に両親や使用人はそのフェロモンに慣れていった。
おかげで、周囲の限られた者だけは無闇に失神することもなくなった。
――あくまで狭い交流範囲の人間だけではあるが。
安心したのも束の間、困ったことに成長するにつれてフェルゼンの美男子っぷりは加速した。
ふわりと風に揺れる金色の髪は神々しいほどに輝き、神話に出てくるような鼻筋の通った美しい顔、曇りのないエメラルドの瞳、耳当たりのいい声、しなやかな体躯……。
フェロモンも成長と共にますます濃く放たれ、無意識に辺りを漂う。
その結果、他国の王族との交流、国内行事、私的なお茶会、貴族子息との勉強会……そのどれもが苦い思い出ばかりになってしまった。
なぜなら、フェルゼンのフェロモンに免疫のない周りの人間が、次々にバタバタと気を失って倒れていったのである。
救護に駆け付けた者までもが失神する有様で、現場は毎回のごとく阿鼻叫喚の地獄絵図と成り果てた。
ただ辛うじて良かったのは、失神する際の気分を聞くと皆一様に気持ちが良く、花畑の中を天使に連れられていく気分だと答えたことだろう。
しかし気を失うのは危険な行為であり、フェルゼンが行動する時はいつも医師の同行が必須となってしまった。
ああ、今年もこの日が来てしまった……。
またあの光景が繰り広げられるのか。
フェルゼンは暗澹たる思いで、去年までのデビュタントを思い出す。
次々と運ばれていく白いドレスの少女たち……。
もちろん令息や、社交界経験を持つ貴族も失神するのだが、美しい白いドレスを纏った初々しい少女が倒れる様は特に胸が締め付けられた。
フェルゼンと初めて対面する彼女らに、王太子のフェロモンは面白いほどに効果覿面で、国王への自己紹介の為に並び立つ令嬢は、国王の隣に立つフェルゼンを目にした途端に倒れてしまうのだ。
もちろん、貴族たちだって対策は怠らない。
王太子の体質は周知の事実なので、自衛はしている。
フェルゼンと「目を合わせない、会話をしない、距離をとる」という基本の3ヶ条が暗黙の了解として存在し、その教育も受けているはずだった。
しかし、興味本意でつい見てしまう者、緊張のあまり3ヶ条を忘れてしまう者、姿を見ずとも香りだけで失神してしまう者……。
もはや、一度失神を経験したい!などというチャレンジャーまで現れる始末で、デビュタントはいつも大惨事となっていた。
私は出席しない方がいいと訴えたのに、婚約者探しも兼ねているからと押し切られてしまった。
いやいや、こんな状態で婚約者など無理に決まっているではないか!
今日もまた、同じことの繰り返しに決まっているのに……。
今夜も、あらかじめ失神した参加者用の休憩室が大量に準備されているのを横目に見ながら、うっかり面識の少ない使用人と顔を合わせたら迷惑をかけると考えたフェルゼンは、とぼとぼと自室へ戻っていったのだった。
◆◆◆
シュナール王国に数多存在する貴族の中でも、レンダー子爵家は下から数えた方が圧倒的に早い、下位に位置する貴族である。
男爵家でも事業が軌道に乗って羽振りの良い家がざらにある中、レンダー家は歴史が古いだけが取り柄の、いわゆる貧乏子爵家だった。
そんなレンダー子爵家には、ナタリアという名の年頃の娘がいる。
結婚適齢期と言われる年齢だが、今まで社交場に一度も顔を出したことがないせいで、『幻の令嬢』と密かに呼ばれていた。
『病弱説』や、『実は幼少期に病死している説』など色々な噂が流れているが、至って健康な彼女が社交界デビューしていない理由など、ただ一つしかなかった。
「お金が無さ過ぎてドレスが買えないから」である。
ナタリア本人が社交界や貴族そのものに全く興味が無く、むしろ平民になって地味に生きたいと思っている為、噂は好都合だった。
夜会なんて怖いところ、誰が行くものですか。
侯爵令嬢やら伯爵令嬢に、「この貧乏田舎娘!」とか罵られて、ワインを浴びせられるに決まってるわ。
それで逃げ出すと、今度は遊び人の令息とかに暗い庭の片隅に連れこまれて、弄ばれてしまうのよ。
あぁ、なんて怖いの!!
古い変な小説に感化され、ナタリアの夜会の知識はかなりズレている。
現在の夜会といえば、王太子の体質のせいでハチャメチャのグダグダになることが多く、そんな虐めや破廉恥な行為など起こりようがないことを、ナタリアはまだ知らなかった。
ナタリアには、レンダー子爵家の跡取り息子でもある兄がいる。
とにかく持参金が少しでも多い令嬢との結婚を両親は望んでいるが、見た目も性格も地味な兄にはいまだ婚約者すら居なかった。
「この際、お金さえあれば商人の娘でも構わない!」と、対象者を広げて現在婚活真っ最中なのだが、残念なことにナタリアはこの兄と見た目も性格もそっくりだった。
もちろん婚約者がいないところも。
婚約者を見つける為にも、ナタリアもいよいよ社交場に出る必要があると家族は考えていたが、そこにはいつもの『貧乏子爵家の悲しいお財布事情』が高い壁となって立ちはだかった。
どうしたって、無い袖は振れないのである。
しかし、今年もデビュタントの季節がやってきた。
「今年のデビュタントにはさすがに出ないわけにはいかないだろう」
「そうですね、父上。ナタリアも17ですし、今まではなんだかんだ理由をつけて先延ばしにしてきましたが……」
「今回は絶対に参加して、素敵な殿方に見初められないと。理想は『持参金なしでOK!』な方ね」
父、兄、母が、ナタリア抜きで勝手なことを言っている。
本人が扉の陰で盗み聞きしていることに全く気付いていないようだ。
みんな何を言ってるのかしら。
この地味顔でドレスも無いっていうのに、どうやって素敵なお相手を見つけろと?
そんな奇特な人、いるわけがないじゃない。
ナタリアは心の中で呟きながら虚しさと腹立たしさを感じていたが、家族の会話は続いていく。
「問題はドレスだな」
「私のデビュタントの時のものを手直ししましょうか?」
「それはさすがに色が変わっていませんか?」
……嫌すぎる。
何が悲しくて、デビュタントで一人黄ばんだドレスを着なくてはならないのか。
浮きまくりで罰ゲームもいいところだ。
ナタリアは思わず家族の前に飛び出すと、ハッキリと宣言した。
「私はデビュタントには出ません。ドレスも無いですし、構わないですよね?」
よし、これで今年も回避できたわ!
貧乏なのもたまには悪くないわね。
いつもの免罪符のおかげで無事に断れたナタリアはすっかり安心し、夜会のことなどすぐに忘れ去ったのだが、今年はこれで終わらなかった。
「ナタリア様、良かったらこちらのドレスをお使い下さい」
数日後、よく顔を出す修道院で、唐突にナタリアに差し出された白いドレス。
「ええと、このドレスは?」
動揺を隠しながら尋ねれば、シスターたちがはにかみながら説明してくれた。
その内容は――つまりはお礼らしい。
いつも修道院に隣接する孤児院の子供たちと、遊んだり勉強を教えてくれているからだと。
いやいや、私がヒマなだけなんですー。
ここに来て一緒にお昼をご馳走になれば、昼食代が浮くからなんですー。
その辺の子爵家の懐事情もなんとなく理解しているのかもしれない。
デビュタントに出られないナタリアに同情したようだ。
「あの、この生地や仕立てはどうされたのですか?」
「とある貴族の方から寄付された布の中にあったのです。仕立ては私たちと、子供たちも手伝ってくれたのですよ?」
ええっ!?
貴族が修道院に寄付した布を、貴族の私が貰うのってどうなのよ?
そんなこと許されるの?
しかし、シスターはニコニコと嬉しそうにナタリアが受け取るのを待っている。
い、言えないわ、私も一応貴族のはしくれだから受け取れないなんて。
子供たちも手伝ってくれたのに、気持ちを踏みにじるようで気がひけるもの。
子爵家としてのプライドについても考えてみたが、ナタリアは有り難く受け取るしかなかった。
屋敷に帰り、恐る恐る家族にドレスを見せるとーー
「良くやった! これで参加出来るな!!」
「素敵なドレスねぇ。アクセサリーは私のでいいわよね?」
……はい、うちの子爵家にプライドなんてものはありませんよね。
わかっていましたとも!
ドレスさえ無ければ断れたのに。
ナタリアはデビュタントから逃げ出すことが出来なくなってしまった。
人々の善意によって。
どうしてこんなことに……。
思いもよらない展開に、ナタリアは頭を抱えるしかなかった。
◆◆◆
あっという間にデビュタント当日を迎えたナタリア。
「あ~、なんだか熱っぽい気がするわ。これは出かけるのは無理かも……」
朝から悪あがきを繰り広げているのに、家族も使用人も誰一人取り合ってはくれない。
気付けばドレスを着せられ、初めてのメイクまでされてしまった。
私の地味顔って、メイクをしても全然変わらないのね。
ある意味すごいわ。
これぞ、メイク殺し……。
「まぁ、ナタリア! なんて初々しいの!! これなら出会いのひとつやふたつやみっつ……」
あるわけがないでしょうが。
母親ですら初々しさしか誉めるところがないというのに。
そもそもデビュタントなんて、初々しい令嬢の集まりじゃないの。
着飾っていても、ナタリアは至って冷静だった。
今夜の夜会では、兄のクリスがパートナーを務めてくれることになっている。
父の子爵が腰を痛めた為、急遽代役に抜擢されたのだ。
「クリス、ナタリア、わかっているとは思うが、拝謁の際は王太子殿下のお顔は絶対見てはならんぞ。不敬にあたるからな。目線を下げたままご挨拶するのだ。まあ、うちは爵位からしても最後の方だし、話しかけられることもないからすぐ終わるだろうが。もし具合が悪くなっても耐えろ」
「耐えろって……。殿下って、こちらの具合が悪くなるほど怖い人なの? 昔から絶対顔を見るなって言われてたけれど。今回初めて間近でお会いするけれど、怒られたらどうしよう?」
ただでさえマナーに自信が無いナタリアである。
王太子の面倒な取説まで聞かされて、すっかりテンションが下がってしまった。
そんなナタリアを見て、家族は焦った。
王太子が怖いというのは、もちろん嘘である。
彼のフェロモン体質について軽々しく口に出しにくい貴族の親は、息子や娘に「不敬だから」という理由で王太子との接触を禁じていた。
失礼に当たるから、「目を合わせない、会話はしない、距離をとる」。
これが貴族の暗黙の了解であり、親はこう教育することによって失神の危険から子供を守ろうとした。
しかし、子供だって公の場に一度でも出れば王太子のフェロモンによる惨劇は嫌でも目にするし、実際体験してしまう子も多いわけで。
あんなにバタバタと人が倒れていくのだ。
それはもはや、子供心に驚きとトラウマと興味が混ざって一生忘れられない記憶となり、子供の輪の中で自然と噂が広まってしまうのは仕方のないことだった。
通常ナタリアの年齢なら、友人らとの交遊からとっくに王太子の体質について理解し、貴族の一員として受け止めているはずだった。
しかし、お茶会にも出ず、修道女や孤児院の子供としか触れ合わないナタリアには、貴族なら知っていて当然の噂すら入ってこない。
「いや、怖くはないよ? ナタリアは噂で聞いたこともないの? 王太子殿下はとても……美しい方なんだ」
クリスが一生懸命フォローを試みる。
「美しい? 見てはいけないのに、なんで美しいってわかるの? お兄様は見たことがあるの? あ、もしかして殿下は綺麗な顔だってみんなから注目されるのがお嫌で、見るなって仰っているとか?」
「うーん、そういうことでもなくて、むしろ困るのは見る側というか……」
「何が困るというの? 意味がわからないわ。美しいお顔なら見てみたいと思うのが普通じゃない?」
ナタリアの質問にタジタジになっているクリスに、父が助け舟を出す。
「王太子殿下の美しい容貌は有名だが、まだ婚約者がいらっしゃらないのだ。だから貴族同士の揉め事を回避する為に、みんなで配慮して距離をとっているのだ。わかるだろう?」
強引に話をまとめた父だったが、ナタリアが納得してくれるか不安に思っていると。
「なんとなくわかったわ。他の令嬢と揉めるのはごめんだもの」
夜会は高位の令嬢に絡まれるものだと元々思い込んでいるナタリアは、美しい王太子の取り合いを防ぐ為に、協定が結ばれているのだと勝手に解釈をした。
「え? 今ので理解したの?」と驚きつつ、クリスは厄介な質問から逃れられて胸を撫で下ろしていた。
「大丈夫。私、殿下に見初められたいなんてちっとも思っていないし、令嬢たちに虐められない為にも絶対殿下の顔は見ないわ!」
ナタリアが勘違いをしているのは明らかだったが、だからと言って事実を伝えることも出来ず。
そのまま放置されたのだった。
ナタリアと兄のクリスは王城へとやって来た。
城は想像以上に大きく、その豪華な造りに思わず圧倒されてしまう。
会場には大勢の着飾った貴族たちが集まっており、彼らの放つオーラと鮮やかな色合いや香りは圧巻で、普段質素倹約がモットーの修道院に入り浸りのナタリアには刺激が強く、思わずクラクラしてしまった。
まあ、レンダー家の方が修道院より更に慎ましい生活を送っているのだが。
「お兄様、私って浮いてます?」
到着時から周囲の視線を感じていたナタリアは、隣の兄に尋ねてみるが、なぜかクリスはそわそわと落ち着かない。
「え? ああ、知らない顔だから興味があるんじゃないかな。ナタリアは『幻の令嬢』だから」
そうだったわ……。
私、もっと病弱っぽく振る舞うべき?
ナタリアが悩んでいると、先程から様子のおかしかったクリスが切羽詰まったように告げてきた。
「ごめん、ナタリア! 僕、お腹が痛くなった。ちょっとはずすけど、大人しくしてるんだよ?」
病弱説のあるナタリアよりも青い顔をしながら、クリスはナタリアを置いて足早に会場から姿を消してしまった。
彼は緊張すると、すぐお腹にきてしまうのだ。
お兄様ってば、お父様から代理を急に頼まれてストレスが溜まっていたのね。
可哀想に。
兄の背中を静かに見送った後、一人になってしまったナタリアは改めて会場を見渡してみる。
うん、とりあえず視線は感じるけれど、今のところ絡んでくる怖い令嬢はいないみたい。
ドレスもシンプルだけど、そこまで見劣りはしていないようだし。
あとできちんとシスターにはお礼をしないとね。
少し心に余裕が出てきたナタリアだったが、話し相手も居ない為、手持ち無沙汰だった。
ふと彼女の視界に、会場の一角の長テーブルに整然と並んでいる料理が飛び込んできた。
うわ~っ、あんな美味しそうな料理、見たことないわ!
数えられないほどの種類だし、食材もなんて豪華なのかしら!!
ナタリアは、気付けば長テーブルのすぐ側まで迫っていた。
料理の誘惑に勝てなかったのである。
「よろしければお取りしますよ?」
チラチラと料理に目線を送っていると、給仕の女性が声をかけてくれた。
あ、そう?
せっかく取ってくれるっていうんだから、断っちゃ悪いわよね?
ナタリアは都合のいいように解釈すると、笑顔でお願いした。
「じゃあこのお肉と、その横のサーモンと、そちらのサラダも。あ、あとそこの赤いソースのも」
「え? あ、はいっ。こちらと、あとこちらと……お皿一枚に色々乗せてしまいましたが、よろしかったですか?」
不安そうに尋ねられたが、もちろんナタリアは気にしない。
「全然大丈夫です! あ、ありがとうございます」
女性から差し出された山盛りになったお皿を嬉しそうに受けとると、すでに手にしていたフォークを持ち直す。
準備万端だ。
なんていい香りなの。
こんな大きなお肉の塊、久々だわ~!!
ちなみに、普通の貴族は夜会でこんな量を食べたりはしない。
あくまで会話を楽しみつつ、少々つまむ程度である。
しかも、夜会が始まったばかりのこのタイミングで食べている者などおらず、ナタリアの周囲は閑散としていた。
特に白いドレスを纏った社交界デビューの令嬢は、とても何か食べるような心境では無く、国王への挨拶のことで頭が一杯のはずだった。
同じく白いドレスのナタリア以外は。
「こちらの鴨もオススメですよ」
「それもお願いします!」
ガッツリと、ドレスが汚れる可能性も考えずに食事を楽しんでいたナタリアだったが、ふと我に返った。
あれ?
いつの間にか人が減ってる気が……。
あら、いつの間にか王族の方々がいらしてたのね。
まずいわ、料理に意識をとられて全然気付かなかったわ。
でも何かバタバタしてるような。
何かあったのかしら?
ナタリアがひたすらモグモグしている間に、国王夫妻と共に王太子のフェルゼンも入場していた。
なぜかいつも以上に強いフェロモンを発している王太子に多くの人が失神し、会場から休憩室へと連れ出された後だった。
今まさにこの瞬間も、令嬢の一人が抱き上げられて退場しているにも関わらず、そんな衝撃的な場面に気付きもしないナタリアと、いまだ戻ってこないクリスはポンコツ兄妹といえる。
何が起こっているのか理解出来ないまま、やたら出入りが激しい人の流れをぼんやりと見ていたナタリアは、ふと国王の側に立っている男性と目が合ってしまった。
わあっ、遠目で見ても綺麗な男性ね。
……って!
あれって王太子殿下!?
いけないっ、顔を見ちゃったわ。
お父様、ごめんなさい!!
目が合った途端、王太子が焦ったような顔をしたのがわかり、ナタリアは静かに目礼をすると、そっと視線をはずした。
大丈夫よね?
うっかり見てしまったけれど、今のは事故みたいなもので、誘惑なんてしていないし。
父との約束を破ってしまったことは心苦しいが、ナタリアは気を取り直してデザートにとりかかった。
食い意地が張っているのだ。
こんなに距離があるんだし、さっき目が合ったと思ったのも気のせいかも。
あ、このケーキ美味しい!
フェロモン体質の自分と目が合ったにも関わらずへっちゃらな様子のナタリアに、王太子が勝手に運命を感じていることにも気付かず、ナタリアは呑気にケーキを頬張っていた。
◆◆◆
遡って、夜会の開始時間を僅かに過ぎた頃。
王太子フェルゼンの端正な顔は青白く、傍から見てもわかるほどに気落ちしていた。
身支度も完璧で、どこから見ても完全無敵なキラキラ王太子そのものだったが、今から夜会の会場へと向かう彼には、さきほどショックな出来事が起こったばかりなのである。
今より更に一時間ほど前の出来事。
フェルゼンには同い年、19歳の従姉がいる。
現国王の姉が侯爵家に降嫁して生まれた侯爵令嬢で、名前はアメリという。
アメリはフェルゼンとは幼い頃より共に育ったからか、徐々に彼のフェロモンにも免疫がつき、フェルゼンとのダンスに耐えられるまでに至った数少ない貴重な女性であった。
稀有な存在なので、周囲はもちろん将来の王太子妃にと望んだが、本人たちには面白いほどその意志が無かった。
「友達ならいいけれど、結婚なんてとても考えられない」というやつである。
程無くしてアメリは隣国の王子と婚約を結び、二人の仲はすこぶる良好だった。
年頃となった現在、本当は今すぐにでもお嫁に行きたいとアメリは思っているのだが、王子妃教育と、何よりフェルゼンのダンス相手が必要ということで、もう暫くシュナール王国に留まる予定になっていた。
夜会では、王族であるフェルゼンが最初に踊り出すという慣習がある為、アメリの存在は必要不可欠なのだ。
「ちょっと、フェルゼン! 私はいつまでもあなたのお相手をしてあげられないんですからね? 早く素敵な方を見つけてちょうだい!!」
アメリは毎回、ダンスのパートナーを務める度にフェルゼンに文句を言っていた。
早く結婚したいのだからそれも当然だった。
そんなことを言われてもな。
私だって好きでこんな体質なわけでもないし……。
フェルゼンが困った顔をすると、いつも言い過ぎたと反省したアメリは、彼を優しく慰めた。
「辛いのはフェルゼンなのに悪かったわ。大丈夫、いつかあなたの全てを受け止めてくれる人が現れるはずよ」
アメリにポンと肩を叩きながら微笑まれると、フェルゼンにもまだ希望がある気がして嬉しくなるのだった。
そんな彼女が、結婚の事前準備という名目で隣国へ旅立ったのが2ヶ月前。
アメリ自身、こんな長期に渡って自国を離れたのは初めてだったが、それはつまり、フェルゼンとも会わずにいた時間が長かったということでーー
デビュタント当日、フェルゼンのパートナーとして出席する為に帰国したアメリは、フェルゼンを前にした途端、久々のフェロモンにやられて見事に意識を手放した。
「アメリ!? 大丈夫か? 誰か、アメリをベッドへ!!」
たった2ヶ月でアメリの免疫はすっかり消え去ったらしい。
この事実はフェルゼンはもちろんのこと、国王を始めとする周囲の人間にも大きなショックを与えた。
まさかアメリ嬢でも駄目だとは。
今夜のデビュタントのダンスはどうなる?
皆の共通の思いであり、アメリの復活に淡い期待を抱いていたのだが……。
いまだアメリは目を覚まさない。
フェルゼンは、一番気心の知れていたはずのアメリに拒絶されたように感じ、すっかり落ち込んでしまった。
しかし、夜会に顔を出さないわけにもいかず、俯き加減で会場へと入っていった。
数刻後、会場は予想以上に悲惨な状況に陥っていた。
アンニュイなフェルゼンのフェロモンは通常より威力が高く、想定以上にバッタバッタと参加者が気を失ってしまったのである。
本日の主役である白いドレスの令嬢はもとより、令息、付き添いまでもがドミノ倒しのように倒れ、次々と救護室へと運ばれていく。
その非常事態を、どうすることもできないフェルゼンは悲しい瞳で眺めていた。
と、その時。
人が減って見晴らしが良くなった会場の奥、遠くのビュッフェコーナーに一人の令嬢が立っていることに気付いた。
珍しいな。
こんな早い時間に、しかもあんな熱心に食べている令嬢など初めて見た。
白いドレスということは、デビュタントの令嬢だろうが、パートナーはどうしたのだろう?
いや、なによりこの酷い状況の中、どうしてあんな笑顔で食べていられるのだ?
興味を惹かれてついじっと見つめてしまうと、その令嬢もようやく周囲の異変に気付いたらしい。
辺りを見渡し、キョトンと首を傾げている。
え?
今までこの騒動に気付かずにいたのか?
なんて鈍感な令嬢なんだ。
王族への関心や、私への恐怖心、興味が全く無いとみえる。
そんな貴族の娘がいるなんて信じられないな。
益々興が乗って見ていると、令嬢と目が合ってしまった。
まずい!
また新たな被害者を増やしてしまう!!
フェルゼンは焦ったが、彼女は少しの動揺を見せただけで失神することもなく、ただ静かに目礼をしてみせた。
なに!?
視線まで合ったのに、初対面で倒れない女性がいるとは。
しかも体調も崩すどころか、デザートまで食べ始めたぞ!!
初めての経験にフェルゼンの胸は高鳴り、もうその令嬢のことしか考えられなかった。
ああ、名前を知りたい。
もっと近くで見つめてみたいし、彼女にも僕を見つめて欲しい。
フェルゼンは、生まれて初めての高揚感に包まれていた。
◆◆◆
「ナタリア・レンダー子爵令嬢!」
遠くからナタリアを呼ぶ声が聴こえたーー気がした。
ん?
ナタリア・レンダーって私の名前よね?
いまだビュッフェコーナーから離れられず、一人でマカロンを堪能していたナタリアは、パッと頭を上げた。
「いないようだな」
「きっと救護室に運ばれたのでしょう。次の令嬢は……」
宰相らしき男性らが話しているのが耳に入り、慌てて返事をする。
「おります! ナタリア・レンダー、ここにおります!!」
フォークを握り締めたままの右手を挙げてナタリアが声を張り上げると、会場に残っている人々が一斉に彼女へ目を向けた。
「ナタリア嬢かね?」
「はいっ、ただいまそちらに参ります!!」
ナタリアが慌てて駆け寄ろうとすると、給仕の女性がナタリアからお皿とフォークを自然な動作で奪っていった。
あら、私ったらうっかり持ったままで。
それにしても、挨拶に呼ばれるの早くない?
お兄様もまだ戻っていないし。
さっきまでもっとたくさん人が居たはずなのに、みんなどこへ行ったのかしら?
白いドレスの子が全然見当たらないけれど、まさか知らない内に別室に集められてたりしてないわよね?
まさか軒並み失神して運ばれたとは露にも思わず、料理に没頭していたナタリアには今の状況がうまく把握出来ない。
不安を感じながら国王の元へ足早に進んでいると、入口の方から兄の声が聞こえた。
「ほえー、席をはずしてた間に大変なことになってるなぁ」
まさか自分の声が響いているとも思わない兄のクリスは、廊下で運ばれていく人を見ながら呑気な感想を述べている。
「お兄様!!」
ナタリアの呼び掛けでクリスが会場へと意識を向けると、ようやく自分が注目を浴びていることに気付き、一気に嫌な汗が吹き出した。
もうナタリアの番が来てたのか?
これはまずいぞ!!
腹痛が一気にぶり返したが、それに構う余裕も無く、クリスはナタリアを強引にエスコートすると、国王の前へと進み出た。
「大変失礼致しました。レンダー子爵家長男クリス・レンダーと、妹ナタリア・レンダーでございます」
謝罪を口にした兄の横で、ナタリアも不器用にカーテシーを披露する。
「うむ。おめでとう」
短いながら、まさか国王直々にお言葉をいただけるとは思ってもいなかったクリスは感動を隠せなかったが、なんてことはない。
ナタリアより上位の令嬢が皆運ばれてしまい、今まで誰にも言葉をかけることが出来なかっただけである。
兄が戻ってきたことで気が緩んだナタリアは、「顔を上げよ」という国王の言葉を鵜呑みにし、思いっきり顔を正面へ向けた。
そして、再び王太子と目が合ってしまった。
私のバカ!
今回は言い訳出来ないくらいに、バッチリ目が合っちゃってるわ。
どうしよう、謝るべき?
隣のクリスは教えの通り、目線を下げたままでいる為、ナタリアが顔を上げたことには気付いていない。
あんなに父の忠告に対していい返事をしていた妹が、まさかこんな簡単に約束を忘れるなんて思わなかったのである。
王太子が余りにも驚いた様子でナタリアの顔を凝視してくるので、ナタリアは一か八か微笑みかけてみることにした。
もう何が正解かわからなかったのだ。
ニコッ
露骨に目を逸らすより、もう笑って誤魔化しちゃえ!
それにしても本当に綺麗な顔ね。
見ないなんて勿体無いわ。
ナタリアに微笑まれた王太子は、更に目を見開くと、おずおずと話しかけてきた。
「……ナタリア嬢?」
「はい!」
ナタリアが令嬢らしからぬハキハキとした口調で返事をすると、国王や王妃、宰相たちがまるで化け物を見るような目でナタリアを見ていた。
もしかしなくても、私やらかしたみたいね。
隣のクリスもようやく異様な空気に気付いたらしい。
「ナタリア! 何をしているんだ!!」
慌てて王太子を見つめているナタリアの頭を力づくで下げようとした兄を、国王が威厳のある声で止めた。
「よい! そのままで!!」
「はっ!」
兄の手はすぐに離れたが、ナタリアがどうしたらいいのか困っていると、今度はいつの間にか近付いていた王太子が手を差し伸べている。
「ナタリア嬢、私は王太子のフェルゼン。どうかこの手をとり、あなたとダンスを踊る幸運を私に与えて下さいませんか?」
へ?
なんでただの子爵令嬢の私にそんな大役が?
私、ダンス苦手なんだけど……。
しかし、返事を待つフェルゼンの顔は必死で、心なしか手は震えて見える。
こんな素敵な王子様、絵本の挿絵でも見たことないわ。
平凡な私となんて申し訳がなさすぎるし、お断りしたいけれど。
兄をチラッと見れば、青い顔で思いっきりコクコクと頷いている。
これは、絶対断るなという意味だろう。
「わたくしで良ければ喜んで」
ナタリアが仕方なく微笑みを作ってそっと手を乗せると、フェルゼンはナタリアの手が重ねられた自分の手を茫然と見つめた。
すると、フェルゼンの顔が突然クシャッと歪み、美しいエメラルドの瞳が潤み始めた。
「そうかそうか。この国にフェルゼンに触れられる令嬢がいたとはな。いや、いい夜だ!!」
「本当に。フェルゼン、良かったわね。ダンスを楽しんでいらっしゃい」
国王と王妃に見守られながら、ナタリアはフェルゼンにホールの中心へと誘われた。
陛下は何を仰っていたのかしら?
意味がよくわからなかったけれど。
あ、私、殿下と踊ったりしたら、後で他の令嬢に虐められちゃうんじゃないの?
さりげなく周りを確認したら、そもそも令嬢の数が極端に少ないことに気付いた。
しかも残っている数少ない令嬢は、みな感激したような表情でこちらをうっとりと見ている。
ナタリアは狐につままれたような心地で、踊り出しのステップを頭の中で確認していた。
◆◆◆
フェルゼンは自分の身に起きていることが信じられず、夢を見ているのではないかと疑いたくなった。
思ってもいなかった展開に目頭は熱くなり、気を抜くと泣き出してしまいそうだ。
今、自分の右手には、ナタリアの小さく温かい手が重ねられている。
緊張しているのかぎこちない歩みだが、頬が赤くなって恥じらう様子がフェルゼンにはとてつもなく可愛らしく見えた。
ああ、これは現実だろうか。
彼女の白いドレスに、色付いた頬が映えてとても美しいな。
まさか私と対面で話し、エスコートに耐えられる女性がアメリ以外にいるなんて夢にも思わなかった。
しかも、私に向かって微笑みかけてくれようとは。
あれはまさに輝くような天使の笑顔!
ナタリア嬢は、こんな特異体質の私に神が遣わした天使に違いない。
苦節19年。
己のフェロモンのせいで人から距離を置かれ続けたフェルゼンは、ナタリアが神によって自分に特別に与えられた運命の相手なのだと理解した。
今まで多くの人間が目の前で倒れ、常に人と距離をとって生きるしかなかった。
腫れ物に触るような扱いをされ、避けるようなあからさまな態度をとられても、『それも自衛なのだから仕方がない』『こんな体質の自分が悪いのだから』と、自分を納得させてここまできた。
しかし、本当はずっと寂しく、愛情に飢えたフェルゼンの心は悲鳴をあげていたのである。
「大丈夫、いつかあなたを全て受け止めてくれる人が現れるわよ」
アメリはいつも言っていたし、その言葉を信じたかった。
でもそれと同時に、『そんな人がいるはずはない』『自分は一生寂しさを抱えて生きていくしかないのだ』と、なかば諦めてもいた。
だから尚更ナタリアの存在が信じられず、何にも代えがたい彼女を自分のものにしたくて堪らなかった。
さあ、どうやって距離を縮めようか。
「あの、殿下? 私、ダンス下手なんです……」
ホールの中央へと向かう最中、思い悩むフェルゼンにナタリアがこっそり話しかけてきた。
身を寄せて囁くナタリアは、困ったような恥ずかしそうな表情をしており、それを目にした途端、フェルゼンはナタリアのあまりの愛らしさに心臓が止まりかけた。
なんなのだ、今の表情は!
大体、私に近付いて内緒話なんてしてくる者は初めてで、それだけでも衝撃的だというのに。
胸が高鳴りすぎて頭が真っ白になり、一瞬天に召されるのかと思ってしまったくらいだ。
ああ、もしかして今まで私の前で倒れた者も、同じような気持ちだったのだろうか?
それならまだ救われるな。
罪悪感から少し解き放たれたフェルゼンは、穏やかな口調で返す。
「大丈夫ですよ。私も下手ですから」
フェルゼンもアメリ以外と踊った経験が無いので、ダンスにはさほど自信がない。
「それって……大丈夫なんでしょうか?」
クスクス笑われ、フェルゼンの口角も自然と上がる。
確かに大丈夫な要素の感じられない返事だったと思う。
「私にとって記念すべきダンスなので、ナタリア嬢も楽しんで踊ってくれると嬉しいです」
デビュタントのナタリアにとってはもちろん記念のダンスになるが、数々の夜会で踊ってきたはずのフェルゼンにとって、どうしてこのダンスが特別なのかがナタリアにはわからない。
しかし、素直に頷いておいた。
「はい。頑張って楽しみます!」
音楽が流れ、二人がステップを踏む。
お互い遠慮がちに始まったダンスだが、徐々に息が合い、スムーズに動きが重なりだした。
「とても踊りやすくて楽しいですよ。ところで、城の料理は口に合いましたか?」
「あら、やっぱり見られていましたか。とっても美味しかったので、止まらなくなってしまって」
フェルゼンがナタリアを促すと、彼女はクルッと回転してみせた。
可憐でまるで妖精のようだ。
「集中されているようでしたので、つい気になって」
「私、お菓子が大好きなんです。でも普段はあまり食べられないので興奮してしまいました。お恥ずかしい」
普段は食べられない?
ダイエットでもしているのだろうか。
フェルゼンが不思議そうな顔をしていたからだろう。
照れていたナタリアが少し俯きながら言った。
「あの、うちってそんな裕福じゃないので。実はこのドレスもよく顔を出す修道院のシスター方があつらえて下さったのです」
レンダー家は古くからある子爵家だと記憶しているが、そんな苦労をしていたとは。
それより、このドレスにはそんな経緯が。
修道院との結び付きが強いなんて、ナタリア嬢はまさに天使じゃないか!
あっさりと、「ナタリア=天使」の図式がフェルゼンの中で出来上がった。
「そうなのですか。よくお似合いですよ。ではダンスが終わったら、一緒にお菓子を食べませんか? まだ召し上がっている途中でしたよね?」
ダンスの後も共に過ごせるように画策してみる。
逃す気など毛頭ない。
「はいっ! さっきは他に食べてる方がいらっしゃらなくて少し寂しかったんですよね。お菓子、全種類制覇したいです」
無邪気にお菓子に釣られるナタリアの笑顔が眩しく、フェルゼンは思わず破顔したのだった。
◆◆◆
国王らが見守る中、ナタリアはなんとかファーストダンスを躍りきった。
今まで相手は父、兄のみ、しかも屋敷で練習したことがあるだけのナタリアにとって、王太子の足を踏むことなく無事に躍り終えられたことは奇跡に近い。
良かったわ、なんとか醜態を晒さずに済んで。
こんなところで悪目立ちなんてしたら、お兄様の将来にも関わるものね。
とっくに目立っている上、ナタリアが王家に目を付けられたであろうことは、この場に残っている全員が気付いている。
むしろ気付いていないのは、ナタリア本人だけだ。
しかも、他家より先にレンダー家や、兄のクリスに取り入ろうと目論む貴族も既に存在していた。
屋敷でハラハラしながらナタリアの帰りを待っている父は、今頃くしゃみをしているに違いない。
下手だと仰っていたけれど、王太子殿下はリードがとても上手なのね。
初めての私でも踊りやすくて、とても楽しかったわ。
ダンスのせいで少し息が上がったナタリアの頬はほんのりと色付き、満足そうにニコニコと楽しそうな表情を浮かべている。
フェルゼンも頬を赤らめながら、そんな彼女を愛おしそうに見つめているのだが、ナタリアはそんなことには少しも気付かない。
静かに見守っている外野は、そんな二人をほほえましく思っていたが、ふとあることに気付いた者がいた。
「あれ? 僕、先程から殿下のお顔を目にしているのに、軽い動悸だけで済んでいるのですが?」
「あらほんと! わたくしもお声まで拝聴したのに普通に立っていますわ」
「誰も新たに倒れてはいないようですな」
王太子が侯爵令嬢のアメリ以外と踊るところなどかつて見たことのなかった貴族たちが、つい好奇心でナタリアとのダンスや、会話する様子をじっくり見てしまったのだが、驚くことに身体の異常を訴える者は誰一人いなかった。
この出来事をつぶさに観察していた宰相は浮き足立ち、すぐさま国王に進言した。
「これは私の仮説に過ぎませんが、殿下の興味がレンダー子爵令嬢一人に注がれたことで、周囲に放たれるフェロモンが薄まっていると考えられます。ナタリア嬢は殿下の影響を受けにくい体質のようですし、このまま殿下がナタリア嬢へ関心を寄せていれば、フェロモンの影響も軽減出来るかもしれません!!」
「なんだと!? 令嬢の体質自体も貴重であるが、及ぼす効果は更に見過ごせぬ。王家としては、益々ナタリア嬢を手放す訳にはいかぬな」
「はい、あのようなご令嬢は他にはいらっしゃらないと断言出来ます!」
兄のクリスは壁の側に立ち、妹が王太子と踊る様子をお腹をさすりながらずっと見守っていた。
大きな失敗をしなかったことに胸を撫で下ろしていたら、国王らの不穏な言葉が耳に入ってきた。
まずい、王家に目をつけられてしまったみたいだ。
うちはしがない子爵家だけど、王家にしてみればもはやそんなことはどうでもいいんだろうな。
物理的に殿下と並び立てる女性などいないに等しいんだから。
ナタリアは僕とそっくりって言われるけど、僕よりずっと度胸があるよな、お腹も強いし……。
ああ、聞くんじゃなかったな、お腹が痛い……。
ストレスマックスのクリスだったが、直後に国王に呼ばれ、ナタリアについて婚約者の有無や普段の行動などを確認されてしまった。
「あら、それではナタリアちゃんは婚約者も居ないし、もっぱら修道院で孤児たちに教育を施してるってわけね。素晴らしい女性じゃないの! スキャンダルもないし、合格よ!!」
王妃はすっかりナタリアを気に入ってしまったらしく、合格をもらってしまった。
親しげに名前を呼び、浮かれている。
しかも、まさか修道院通いがそんな美談として受け取られるとはクリスには驚きだった。
日々の食費を浮かせていただけなのに……。
勝手に話が進められ、ナタリアが王太子の婚約者候補となりつつあった。
いや、もはや王太子妃に決定したかのような話しぶりである。
「レンダー子爵令息、明日にでも城から屋敷に使いを出そう。帰ったら子爵に伝えるように」
宰相から告げられ、あまりの急展開に戸惑いながらも承諾するしかないクリス。
父の狼狽する様子を想像し、またお腹をさすったのだった。
一方、王家の思惑なんて気付きもしないナタリアは、全く怖くない王太子にすっかり心を開いていた。
「殿下、早速お菓子コーナーへ参りましょう!」
「ちょっと待ってもらえるかな」
色気より食い気のナタリアを悠然とした微笑みで制すると、フェルゼンはボーイからグラスを受け取り、鮮やかなグリーンの飲み物をナタリアに手渡してくれる。
「はい、ちゃんと水分も摂らないとね」
「ありがとうございます。わぁ、このドリンク、殿下の瞳と同じ美しい緑色ですね!」
目を輝かせながら、ドリンクとフェルゼンの瞳を見比べながらはしゃぐナタリアに、フェルゼンの頬は再び赤く染まった。
彼の瞳を平気で見られる人間は稀であり、そんな誉められ方を今までの人生でされたことが無かったのである。
「ありがとう。貴方の茶色い髪、茶色い瞳の方が美しいし、私はとても好きだよ」
ナタリアの髪も瞳も、在り来たりで平凡過ぎる地味な色合いだったが、フェルゼンには特別綺麗な色に見えていた。
本心からそう思っているし、ちゃっかり告白染みた台詞まで口にしている。
「え? そうですか? それはありがとうございます、殿下」
気遣いに決まっていると思いつつも、ナタリアはとりあえずお礼を言った。
自分の垢抜け無さは、自分が一番よくわかっている。
「私は本心から言っているんだけれどな。あと私のことはフェルゼンと名前で呼んで欲しい。貴方のこともナタリアと呼んでいいだろうか?」
ダンスの前より幾分砕けた口調で訊いてくるが、ただの子爵令嬢のナタリアに拒否という選択肢はない。
「それは構いませんが。あの、私ったらフェルゼン様を独占してしまって。他の方と踊らなくてよろしかったのですか?」
王太子を独占していることに気付いてしまい、ナタリアは急激に不安に襲われた。
令嬢たちの反感を買っているのではないかと心臓がバクバク鳴っているが、実際そんな令嬢などいやしない。
むしろ王太子に普通に接することが出来るナタリアを尊敬に似た目で見ているのだが、本人はわかっていなかった。
「私は誰よりもナタリアと共に過ごしたい。駄目だろうか?」
子犬のような瞳でフェルゼンに見つめられ、ナタリアは言葉に詰まってしまう。
「駄目……ではないですよ?」
「そうか! ではお菓子を食べよう!!」
急に元気になったフェルゼンに手を引かれて、並んだお菓子の前まで連れていかれてしまう。
そしてフェルゼンは少し悩んだ様子を見せながらもマドレーヌを選ぶと、ナタリアの口元にマドレーヌを押し付けた。
「ナタリア、あーん」
「殿下、それはちょっと……」
「フェルゼンだよ?」
「フェ、フェルゼン様、自分で食べ……モゴッ……おいひいでふ」
マドレーヌを強引に口に放り込まれ、膨らんだ頬をつつかれる。
「ナタリアはリスみたいで可愛いなぁ。ずっと見ていられる。ふふ、次のお菓子は何がいいかな?」
甘々な態度でナタリアを構い倒すフェルゼンに、周囲は呆気にとられるしかない。
今まで孤高のイメージしかなかったのだから当然の反応だった。
そんな妙な空気が流れる中、みんなの心を代弁する声が響いた。
「ちょっとフェルゼン! あなたそんな性格だったかしら!?」
ナタリアが声のした方角を向くと、フェルゼンと同じ美しい金髪を綺麗に巻き、真っ赤なドレスを上品に着こなした令嬢が立っていた。
目鼻立ちがハッキリとしていてメリハリのある体型に、ナタリアは思わず目を奪われた。
なんて綺麗な方!
私は顔も体もぼやけているから、同性なのに見惚れちゃうわ。
私もこの方みたいな容姿だったら人生違っただろうけれど、私は地味に生きたいから適材適所なのかもね。
ナタリアが変な納得をしていると、フェルゼンが親しげに令嬢と話し出す。
「ああ、アメリ。具合は良くなったのかい?」
「そんなことはどうでもいいのよ! フェルゼン、一体どういうことなの!? 私がダンスの為に駆け付けてみれば、その子とイチャイチャして!!」
取り乱すアメリを目にし、いくら鈍感なナタリアでも気付いてしまった。
なるほど、このアメリ様がフェルゼン様の本当のエスコート相手だったのね。
確かに絵本の表紙のようにお似合いの二人だわ。
で、体調不良で今まで休んでいらっしゃったアメリ様が回復して来てみたら、私とフェルゼン様が一緒にいたので気分を害された……って、まずくない?
これって絶対勘違いされてるわよね?
今度こそ夜会の定番、令嬢虐めが起きてしまうと慌てたナタリアは、なんとか弁解を試みることにした。
「あ、違うんで……」
「アメリ、彼女はレンダー子爵令嬢のナタリア。さっき一緒に踊って、今はお菓子を楽しんでいるところなんだ」
ナタリアの腰を抱き寄せると、フェルゼンが弾む声でアメリにナタリアの紹介をし始めた。
――ナタリアの弁解を思いっきりかき消しながら。
ほええ!?
その言い方は余計に誤解されるヤツですよね!?
どうか私に言い訳のチャンスを!!
動揺を隠せないナタリアに、フェルゼンが更に追い討ちをかけた。
「ナタリア、彼女は侯爵令嬢のアメリだよ。僕の従姉で……」
侯爵令嬢!!
出たーー、小説通り!!
動揺したナタリアに、フェルゼンの紹介など頭に入ってくるはずもなく。
アタフタしている内にアメリが真顔で正面に立っていた。
ひぃー、殴られる?
泥棒猫とか言われちゃう!?
咄嗟に目を閉じたナタリアだったが、想像していた頬を叩かれる衝撃など訪れず、なぜか温かくいい香りのする柔らかい何かに包まれていた。
「ありがとう!! ああ、もう、大好きよ!!」
何事かと目を開けば、ナタリアはアメリに抱き締められ、頬をスリスリされている。
は?
なにこれ?
気持ちいいけれど、意味がわからない……。
されるがままのナタリアは、困惑するしかなかった。
一方、目の前でアメリが嬉しそうにナタリアに抱きついているフェルゼンは面白くない。
ナタリアを取られてしまったからだ。
強引にでも二人を引き剥がしたいところだが、無理に触れることによってまたアメリに倒れられたら困ると考え、仕方なく憮然とした表情で従姉を非難する。
「アメリ、ずるいぞ! ナタリアを抱き締める権利は私だけのものだ!!」
いえいえ、意味がわかりません。
なんでこんな高貴な方々が私を取り合うかのような発言を?
そして、アメリ様は私に怒っていたのではないの?
状況が掴めず、間抜けな顔で首を傾げると、ナタリアは思い切ってアメリに謝罪した。
「あ、あの、アメリ様は、今夜のフェルゼン様のパートナーなのですよね? 私、知らずに失礼なことを致しまして……」
「そんなの全然いいのよ! それより、わたくしはあなたをずっと待っていたのよ、ナタリア様。あ、ナタリアでいいかしら? もうわたくし達も親戚のようなものだし。ああ、夢みたい! ナタリア、あなたは救いの女神様だわ!!」
ナタリアから腕を離すと、アメリはご機嫌な様子でくるくると回り始めた。
広がる赤いドレスの裾の模様が美しい。
怒られなくて良かったけれど、アメリ様の言葉の意味が全然理解できないわ。
こんなパッとしない私が『女神』ってどういうこと?
「あ! こうしてはいられないわ。ダンスのパートナーはもう必要ないし、帰って彼に手紙を書いて結婚式を早めてもらいましょう!! ナタリア、近い内に侯爵家に招待するわ。ゆっくりお話しましょう。ではまたね!」
アメリは嵐のように去っていった。
謎の台詞ばかりを残して……。
「ええと、アメリ様はフェルゼン様の婚約者ではないのですか? 私、てっきり怒られると思って身構えてしまいました」
「違うよ!! ただの親戚だよ。確かにいつもダンスパートナーを頼んでいるけれど、それも彼女しか頼めない理由があったからで。私はこれからはナタリアとだけ踊りたい。パートナーをお願い出来る?」
私がフェルゼン様のパートナーとして一緒に踊るの?
夜会の度に?
……無理無理、さっきのダンスは楽しかったけれど、王太子殿下と踊るには身分が全然釣り合ってないもの。
それ以前に、ドレスが無いからもう夜会には来られないし。
「あの、私はこれ以外のドレスを持っていないので、もうお城に来ることもないと思います」
正直に言って断ろうとしたが、「そんなこと? 服ならいつでも用意するよ?」などと簡単に言われてしまった。
いやいや、そういう問題でもないでしょう。
婚約者でもない女性に色々おかしくない?
「身分が釣り合った令嬢を選ぶべきでは?」
「私はナタリアじゃないと踊れないんだ。いや、ナタリアとしか踊りたくない!」
またしても子犬のような瞳で、切なそうな声音で言い募られてしまう。
「ナタリア、貴女は今日、私と出会ってどう感じた? 短い時間だったけれど、少しは楽しいと思ってくれた? アメリが現れて……ほんの少しでも妬いてくれたりはしなかった?」
すがるような表情をされ、ナタリアはフェルゼンと過ごした時間を振り返ってみることにした。
うーん、フェルゼン様と過ごせてどう思ったか。
楽しかったわよね、格好いいし。
でも妬く?
妬くって焼き餅ってことだよね?
アメリ様はとても美しいから、殿下とお似合いだなーとは思ったけれど。
あと、私じゃとても太刀打ち出来ないなーって。
……あれ?
なんだか今、ちょっと胸がチクッとしたような、しないような?
恋愛に疎いナタリアは、正直に白状した。
「えーと、ちょっとだけ妬いたかもしれません。でもちょっとだけですよ? 言われるまで気付かなかった位ですし。しかもそれは、フェルゼン様が今まで会った男性の中で一番素敵な方だから当然といえば当然の……」
俯きながらついダラダラと言い訳がましく答えていると、ガバッと抱き締められてしまった。
「ああ、可愛い! 嬉しいよ、ナタリア!! 妬く必要なんて全くないけどね。アメリは隣国へ嫁ぐし、私が愛するのはナタリアだけだよ」
は?
愛する??
なんだか衝撃的な言葉を聴いた気がした。
「あの、私は今日フェルゼン様と出会ったばかりですけれど」
「そんなことは関係ないよ。ナタリアは私の天使だと目が合った瞬間からわかっていたからね」
天使?
私には全然わからないのですが。
その確信はどこから……。
しかし、会話の途中で夜会終了の時間が迫り、お腹を押さえた兄のクリスがヨロヨロしながらナタリアを迎えに来ると、フェルゼンは名残惜しそうにナタリアの頬にキスをした。
「フェルゼン様! 婚約者でもないのにいけません!!」
「婚約者だったらいいのかな?」
「それは……場合によっては? ……って! そういうことではありません!!」
「怒るナタリアも可愛らしいね。大丈夫、婚約者になればいいだけだから」
「私がなれるわけがないでしょう! もうっ、お兄様、帰りますよ!!」
埒があかないとばかりに兄を引っ張って会場を出ていくナタリアを、フェルゼンは見えなくなるまで見つめていたが、やがて笑顔を浮かべて一言呟いた。
「またすぐに会えるよ、ナタリア」
◆◆◆
ナタリアを見送った後、フェルゼンは父である国王の元へと向かった。
理由はもちろん、自分の心を掴んで離さない子爵令嬢ナタリアを、唯一の妃にしたいと願い出る為である。
国王は王妃と共に夜会から先に退出しており、フェルゼンが城の二人の私室へと早歩きで廊下を進んでいくと、不意打ちで後片付け中の使用人と出くわしてしまった。
しまった!
思いっきり目が合ってしまったな。
気が急くあまり、いつもは気を付けているのに急に姿を見せてしまった。
お互いに焦り、フェルゼンは使用人の様子を注視したが、どうやら倒れる様子はない。
使用人も使用人で、自らの体調に変化が現れないことを確認すると首を傾げ、我に返ると慌ててフェルゼンに頭を下げた。
不思議に思いつつも胸を撫で下ろすと、フェルゼンは再び国王の部屋へと急いだ。
「父上、フェルゼンです。お疲れのところ申し訳ありませんが、至急お話ししたいことが」
ノックをし、声をかければすぐに入室を許可された。
思えば、この部屋を訪れたことなど今まで数えるほどしかない。
部屋には母である王妃もソファで寛いでいた。
「来ると思っていたわ。ナタリアちゃんのことなら話は進んでいるから安心なさい」
「は? なぜそのことを?」
驚き、呆けたような声をあげた息子を見て、二人はクスクスと笑っている。
「ナタリア嬢を妃にしたいのだろう? お前を見ていればすぐにわかるわ。とりあえず同伴していた兄には話を通しておいた。明日、レンダー子爵家に正式に使いを出す」
え?
話が早すぎないだろうか?
まだ何も言っていない内に。
フェルゼンがポカンとしていると、王妃が憂いの表情を浮かべ、フェルゼンを見つめた。
「あなたには可哀想なことをしたとずっと後悔していたの。私が人とは違う体質であなたを産んでしまったから」
「母上……」
王妃が自分に対して負い目を感じているのはフェルゼンも知っていた。
母のせいではないと頭ではわかっていたが、人に近付けない寂しさをつい両親にぶつけてしまいたくなることもあった。
「フェルゼンのあんな嬉しそうな顔、初めて見たわ。私も涙が出そうなほど嬉しかったの。きっとナタリアちゃんはあなたがずっと待っていた相手なのね」
うっすらと涙を浮かべながら微笑む母に、フェルゼンの胸は締め付けられた。
思っていた以上に、自分は両親から愛されていたらしい。
「お気持ちは嬉しいですし、私もナタリアと結婚したいと考えています。でもナタリア本人は身分を気にしているようで……」
『身分の差などどうにでもなるさ』と強気でいたが、実際はなかなかの高い壁である。
フェルゼンが心配そうに告げると、国王がなんてことないように平然と答えた。
「ああ、それなら、ナタリア嬢は姉上の侯爵家の養女になることが決まっているから安心しろ。まあ形式上だが、アメリが非常に乗り気でな」
はぁ?
いつの間にそんな大事な話が進んでいたんだ?
きっとアメリが、ナタリアが妹になるならって張り切ったに違いない。
「それは……ありがとうございます。ナタリアから良い返事が貰えるといいのですが」
「あら、それはあなた次第よ! 私達も無理やり王家の力でどうこうしたくはないと思っているの。ナタリアちゃんに好きになって貰えるようにせいぜい頑張りなさい」
王妃が笑顔で発破をかけた。
「はいっ! 頑張ります!!」
親子三人、一つの目標に向かって心を合わせることへの幸せを噛み締めていたが、もう十分子爵家に対して圧力をかけていることには気付いていなかった。
「それにしても、ナタリアちゃんは本当に不思議な子ね。フェルゼンの体質をものともしないんだもの」
「それもそうだが、フェルゼンがナタリア嬢と出会ってから、フェロモンが弱まったのが何より素晴らしい」
父の言葉に、フェルゼンは目を丸くした。
「そうなのですか!? 確かに、ナタリアに心を奪われてからは誰も倒れていないようですが」
「きっと、あなたがナタリアちゃんにだけ好かれたいと思っているからでしょうね」
そうかもしれない。
今のフェルゼンには良くも悪くも、ナタリアしか目に入っていなかった。
「絶対、ナタリアを口説き落として私の妃にしてみせます!」
生き生きとした息子の口調に、国王と王妃は晴れやかな顔で頷いていたが、その頃のレンダー子爵家ではーー
「なにぃっ!? もう一度言ってくれ」
「ですから、ナタリアが王太子に見初められ、妃に迎えたいと……。明日には使いがこちらにみえるそうです」
ナタリアの父がクリスからの報告を受け、白目を剥いていた。
◆◆◆
デビュタント後、城から戻ったナタリアは、慣れない夜会で体も精神も疲れ果てていた。
兄のクリスが真っ先に父の部屋へと突進していったが、ナタリアは兄に甘え、先に休ませてもらうことにした。
お兄様、帰りの馬車でもなんだか無口だったけれど、まだお腹が痛むのかしら?
同情しつつも睡魔に負け、シャワーだけ浴びるとナタリアは眠ってしまった。
翌朝、ゆっくり起きるつもりのナタリアだったが、いつも通りに目が覚めてしまう。
覚醒して真っ先に頭に浮かんだのは、昨晩のフェルゼンのことだった。
ふふっ、昨日のダンスは楽しかったわ。
お料理も最高だったし。
もうあんなキラキラした場所に行くこともないし、フェルゼン様とお話しできることもないに違いないけれど、いい思い出になったわ。
素敵な思い出を胸に、また今日から地味に生きていこう!
少し胸は痛んだが、フェルゼンとの最後のやり取りは夜会でよくある貴族特有の冗談だとナタリアはわかっていた。
いくら甘い言葉を紡がれても、それは一夜の夢なのだと小説にも書いてあったからである。
ナタリアは恋愛小説を恋のバイブルだと思い、鵜呑みにしていた。
ベッドで昨夜の余韻に浸りながら寝転がっていると、珍しく階下が騒がしいことに気が付いた。
「おはようございます。朝から何事ですか?」
身だしなみを整え食堂に行くと、ナタリア以外の家族は全員揃っており、なんだか重い空気が立ち込めている。
一体どうしたというのだろうか?
「ナタリア、単刀直入に言う。王家からの使者がいらっしゃって、お前を王太子殿下の婚約者にと打診された。うちは身分的にもどうこう言えない為、これは決定事項とも言える」
なんですって?
私が王太子殿下の婚約者?
それってつまり……フェルゼン様の婚約者ってこと!?
「はい!? 嘘ですよね? ドレスも買えない貧乏子爵家の私が? すべてが釣り合わなさすぎます!!」
「そんなことは私達が一番わかっているよ。しかし、侯爵家へ養女に入る話まで進んでいるし、もうどうしたらよいやら」
昨夜の内にクリスから話を聞いていた父は慌てふためき、一睡も出来ないまま朝を迎えた上、早朝から王家の使いを迎えてヘトヘトだった。
目の下に隈を作り、顔色も悪い。
しかし、ナタリアを案じる気持ちは忘れていなかった。
「ナタリアはどうしたい? さっきは決定事項だと言ったが、ナタリアが嫌だったら私としては無理矢理嫁がせたくはない。家を潰される覚悟で断ろう」
いやいや、重すぎるって。
歴史しかないレンダー子爵家を自分の代で潰すのはちょっとね……。
ナタリアが悩んでいると、母が声をかけてきた。
「ナタリア、ドレスが届いているわよ? 王太子殿下から。城まで会いに来て欲しいって。もう一度お会いしてから考えてみたら?」
父と違って本心では賛成なのだろう。
母はルンルンとした雰囲気を隠せていない。
「母上、ナタリアを城に行かせたら絶対断れませんって!!」
兄も心配しているのが伝わってきた。
さて、どうしたものか。
また慎ましく生きていこうと思った直後に王家へ嫁ぐ話をされ、ナタリアは正直いっぱいいっぱいだった。
しかし、一つだけ確かめてみたかった。
養女だとか、婚約だとか、もう訳がわからないわ。
でも、フェルゼン様の気持ちは聞いてみたい。
もしもあの優しい笑顔が社交辞令じゃないのなら……。
そして、私自身のフェルゼン様に対する気持ちも見極めたい。
ナタリアはフェルゼンと会うことに決めた。
フェルゼンが贈ってくれたドレスは落ち着いたピンク色で、ところどころ臙脂のリボンが編み込んであった。
華やかな色の服など今まで着たことのないナタリアは、似合わないと思いつつも照れながら袖を通した。
ナタリアが本当は可愛いものが好きなことを、フェルゼンは見抜いていたらしい。
侍女だけを連れてナタリアが城に向かうと、庭のガゼボへと案内された。
薔薇の盛りは過ぎていたが、美しく手入れされた庭に姿勢正しいフェルゼンが立っていた。
「ナタリア! よく来てくれたね」
あの夜と同じ、まだ若干少年っぽさの残る純粋な笑顔に、ナタリアも自然と笑顔になってしまう。
「お招きいただきありがとうございます、フェルゼン様」
挨拶を返すとドレス姿を褒められ、ガゼボ内のベンチへとエスコートされた。
テーブルにはナタリア好みのお菓子の数々が並び、お城まで来た目的も忘れてテンションが上がってしまった。
フェルゼンに勧められるまま口に運ぶと、あまりの美味しさに頬っぺたが落ちそうになる。
「うーん、美味しい! フェルゼン様、私を餌付けしてどうするつもりですか?」
つい冗談で軽口を叩くと、まさかの返事が返ってきた。
「それは、ナタリアを妻にするつもりだよ。じっくり口説いて、私を好きになってもらった後にだけれどね」
うぐっ
思わずフルーツケーキを喉に詰まらせかけたが、なんとか耐えて飲み込む。
「本気ですか!? 何で私を?」
不思議がるナタリアに、フェルゼンは自分の体質について語って聞かせた。
「……それは苦労されたんですね。でも、私以外にもフェルゼン様のフェロモン?が効かない女性もいると思うんですけれど。世界は広いですし」
あの夜会にいながらナタリアは料理に夢中で、人々が倒れる様子を見ていなかった。
その為、自分だけが特別だとは思えなかったのである。
するとフェルゼンが一度立ち上がり、座っているナタリアの隣に跪くと、ナタリアの手を取った。
「私はあの日、料理を頬張る貴女を見てから、貴女しか目に入らなくなった。離れていても浮かぶのは笑うナタリア、ダンスを踊るナタリア、マドレーヌで頬を膨らませたナタリア、怒るナタリア……。全部ナタリア、貴女だけなんだ。はっきり言って、体質などもうどうでもいい。私はナタリアが愛おしい。ずっとそばにいて欲しいんだ」
真摯に見つめられ、精一杯の愛の言葉を聞いているうちにナタリアの心は決まっていた。
夜会でのフェルゼンとの思い出が一夜の夢物語などではなく、夢から覚めても永遠に続くことを本心では望んでいたのだ。
しかし、ありえないと諦め、王太子が貧乏子爵令嬢の自分に優しくする理由がわからず、戸惑っていただけなのである。
「私、フェルゼン様が優しいのはあの夜だけの特別な出来事だと思っていたのです。デビュタントの娘を気まぐれに相手にして下さったんだと。でもそれが寂しくて、本当はまたお会い出来たらいいのにって。私、気付いたんです。今目の前にいる昼間のフェルゼン様も、あの夜のフェルゼン様も、同じように好きなんだって。至らないところばかりですが、私をお嫁さんにして下さい!」
言い終わるや否や、ナタリアは立ち上がったフェルゼンに抱きしめられていた。
「ありがとう、ナタリア!! 嬉しくて泣きそうだ」
フェルゼンの震える声に、ナタリアもそっと彼を抱き締め返したのだった。
◆◆◆
王太子とナタリアの婚約話はあっという間に纏まり、結婚の日取りまで決められてしまった。
王家はよほど切羽詰まっていたようだ。
次第に王太子妃になる自覚が生まれてきたナタリアは、圧倒的に知識が足りないことに悩み王妃にも相談したが、その答えは力が抜けるものだった。
「あら、全然大丈夫よ。私はあの子が好きな子と結ばれただけで感謝しているの。一緒にダンスが踊れて、隣に立てる子が見つかったのよ? これ以上何を望むっていうの?」
いえ、それってハードルが低過ぎますよね?
私はいるだけでいいんですか?
見た目は地味ですが、これでもやれば少しは出来る子なんですよ? ……多分。
結局は姉となったアメリが熱心に世話を焼き、率先して知識を詰め込んでくれた為、なんとか体裁は整えられることになった。
結婚式当日、ナタリアはデビュタントの時と同じ色――白いウェディングドレスに身を包んだ。
あの日より遥かに高価なドレスは、王妃が張り切って用意してくれたもので、ヴェールは今回もシスターたちが心を込めて編んでくれた。
驚いたことに、デビュタントのドレスの生地はアメリが寄付したものだと後からわかった。
もしアメリが寄付していなかったら、ナタリアはフェルゼンと出会えなかったかもしれない。
「わたくしって凄いわ! わたくしが二人を結び付けたキューピッドなのね!!」
真実を知ったアメリは得意げに笑い、そんなアメリをフェルゼンは鬱陶しそうに目を細めて見ていた。
祝福する貴族や民衆の中、白いタキシード姿のフェルゼンはいつも以上に輝かんばかりに美しく、もはや神々しいくらいだった。
かつてはその姿を目に入れないようにしていた人々も、フェロモンが弱まった今なら好きなだけ見ることが出来る。
ナタリアは、美しいフェルゼンの隣に立つのが地味な容貌の自分でいいのかと、悩んだ時期もあった。
しかし、国民の間で『不思議なフェロモン体質の王子と唯一フェロモンに靡かない令嬢』の話が売り上げトップのロマンス小説になるほどに話題となり、温かく迎え入れられた。
「ナタリア、綺麗だ。今日からナタリアが妻だなんて夢のようだよ。私は世界一の幸せ者だ」
フェルゼンは今日も、式の途中にも関わらず、うっとりと愛を囁く。
毎日こんな状態なのだが、ナタリアはいまだに慣れない。
「ありがとうございます。フェルゼン様も素敵です。私もお嫁さんになれて嬉しいです」
赤くなりながら小声で一生懸命伝えると、フェルゼンが耐えられないとばかりにナタリアの唇にキスをした。
「フェルゼン様、まだ式の途中です! 誓いのキスはまだ先なのに!!」
「もう待てないよ。多少の前後は許して?」
「もうっ、またそうやって子犬のような目で。駄目なものは駄目です!!」
厳かな式の途中で突然イチャイチャし始めた二人だが、周囲もいい加減見慣れており、大人しく終わるのを待っている。
ーーと、イライラしたアメリが止めに入った。
「そういうのは後にしなさい! 全く、さっきから全然式が進まないじゃないの」
生温い視線の中、結婚式は無事に終わったのだった。
予定時間を大幅に超えながら……。
◆◆◆
2年後、ナタリアは初めての出産を迎えていた。
陣痛が始まり、医師と侍女が慌ただしく動き回る中、苦しげなナタリアの息遣いが響いている。
「ナタリア様、もうすぐです。踏ん張って下さい!」
あまりの痛みに泣きながら踏ん張ると、体から産まれ出た感覚があった。
おぎゃあああ
「おめでとうございます! 元気な男のお子様です!!」
産声の中、医師の声が聞こえたナタリアが安堵しながらそちらを向くと、なぜか医師も侍女も顔を覆うマスクと耳栓のようなものをしている。
ん?
この姿は一体?
彼らはいつからこんな格好を?
疑問で眉を寄せるナタリアに、医師が冷静に答えた。
「これは前回を踏まえた上で、念の為に準備したものです。お気になさらず。さあ処置も終わりました。抱いてあげ…あ、駄目だ……」
ガクッと医師が膝を付いた。
あぶないっ!!
咄嗟に赤ん坊を受け取ると、ナタリアは周囲の異様な光景に絶句した。
部屋にいる者全てが変なマスク姿で倒れているのである。
なになに?
どういうことなの!?
みんなして変なマスクと耳栓しながら倒れてるって、伝染病とか?
いや、実は食中毒?
フェルゼンのフェロモンを感じないナタリアは、我が子のフェロモンも感じず、何が起きているのかわからない。
泣きそうなナタリアは夫を呼んだ。
「フェルゼン様ー! 大変なんですー!!」
出産直後の体はあまり大きな声は出なかったが、それでもフェルゼンはナタリアの声を聞きつけ、すぐさま部屋の中へと駆け付けた。
――が、すぐに倒れた。
「フェルゼンさまーっ!!」
悲壮感漂うナタリアの絶叫の中、意識を失う直前のフェルゼンは初めての感覚を味わっていた。
なるほど、これが天使に連れられていくということか。
うん、悪くない……。
幸せそうに意識を失う夫が視界に入り、ナタリアが泣きながら我が子を抱き締めると、ナタリアの腕の中で美しい金髪の王子はキャッキャと笑い声をあげたのだった。
――この王子が運命の女性を見つけるのはまた別の話。
荒唐無稽なお話をここまでお読みいただき、ありがとうございました。
そして、お疲れ様でございました。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。