落とし穴は落ちなきゃ、ただの穴 ―7―
魔女ティナエルジカの辞書に『学習』の二文字はない。
そう痛感しながらもナージャは、あとに待ち受けるひどい目を想像すれば、ティナを助けなければいけなかった。
緩慢な足取り。
だが、その足取りも数歩で止まった。
(そう言えば、ここは過去の世界だと言ってはいなかったか?)
ナージャの視線は花畑の中央へ向かう。
そこでは汚れている口元をきれいにしようとするジルに、必死に抵抗するティナの姿があった。
(もしここで主を始末すれば、未来が、いや今置かれている我の境遇も変わるのではないか?)
その始末しようとしている自分がティナによって今ここにいるというパラドックスを置いておいて、己が都合の良い方へ思考は流れる。
何かからの束縛から解放されたいという衝動は、えてして開放されたあとのことなど考えないものだ。
楽になりたいという、純粋な欲望。
ナージャは先走ろうとする爪を押し隠し、身をかがめた。
あとは本能に身を任せ、狩りをするのみ。
必殺の間合いまで、距離を詰めていく。
さあ、まさに飛びかかろうというところでジルがすくりと立ち上がった。
ナージャの動きが止まる。
(こちらが見えていないはずでは?)
ナージャの殺気に感づいたのか、あたりをジルは見回している。
(やはり・・・見えてはいない)
風音に草を踏む音を紛らわせ、さらに距離を詰める。
そして、まさに仕留めようとした瞬間、
「ナージャーーー」
なんとも間抜け声がナージャの耳に入った。
あと少しで鋭い爪が、牙が、ティナの柔肌を切り裂き、頭蓋を噛み砕けるというのに。
言葉が鎖となって、ナージャの体を束縛しているかのように、ナージャの動きは止まる。
そして、溜息とともに殺意を吐き出した。
(我も甘くなったものだ。このような子供一人殺せないとは。いや、だが、これは安易な解決策を取ろうとすることへ反発する己が矜持によるものである。だから、殺さなかった。主よ。我の誇り高さに感謝するのだな。クックックッ)
ナージャは仕留めそこなった理由を自身に取り繕った。
「ナージャーー」
またティナの催促の声が響いた。
ナージャの体がびくりとなる。
「はい。只今ー」
ナージャの思考はどうやってティナを仕留めようかというところから、適度なロープになるようなものがすぐに見つかるだろうかというものに変わっていっていた。
ナージャはジルたちに背を向け、森の中に目当ての物を探しに、歩を進める。
振り返ると今だジルはキョロキョロとしていた。
なんであろうか。
既にナージャの中には殺気の欠片ほども残っていない。
やがてジルの視線は一点に留まる。
笑顔をたたえ、ジルの元へ歩み寄ろうとする男の姿があった。
道に迷った旅人といったところだろうか。
ジルの険しい表情を見るに、少なくともジルと親しい仲ではないようだ。
「こんにちは」
「こんにちは。初めまして。私は・・・」
男の自己紹介をジルは首を振って断る。
「知ってる」
「知ってるって。それは一体・・・」
男の顔からは笑みが消える。
「あなたのことも。あなたがしようとしていることも。きっとお母さんはあなたを助けはしないわ。そして、私もあなたのしようとしていることを許したりできない」
真剣な表情で見つめ合う二人。
「・・・他に手がない」
男はつぶやいた。
なにやら取り込んでいる様子だとは、ナージャにも分かった。
(だが、我には関係ないことだ)
ナージャは森の中に消えた。