落とし穴は落ちなきゃ、ただの穴 ―5―
「話が違う!そうではないかね?そうは思わないかね?いや、そうだと言ってくれたまえよ。トットルッチェさん」
「いや、僕に同意を求められてもねー」
トットルッチェはあくびをしながら、蒼白の顔を抱え、悶える客人に返事をした。
「ぅおおお。こんなはずでは!これでは締切りがぁぁぁぁ」
この客人がジルの元に転がり込んでから一ヶ月が経とうとしていた。
ジルの伝記を書きたいと言っていた当初の笑顔は、もはや見る影もない。
ジルと、深緑の魔女と同居しようなど、常人の考えなどではない。
だが、彼にはそうしなければいけない理由があったのだ。
「ジルルキンハイドラ様は数百年の年月を生きてらっしゃるのですよね?」
「うーん。そうみたいだねー」
「ありとあらゆる妙薬の知識を持ち、遠くを見渡せる千里眼を持つ」
「そだねー」
「そして、様々な悩みを持った人々がその力を頼ってひっきりなしに訪れる」
「ああ、それ違・・・」
「ネタに困らない!」
そう、彼はネタに困っていた。
ジルのもとにいれば、次々と事件が舞い込んできて物書きのネタになど困る訳はない。
締切りなど屁の河童である。
そう思っていた。
なのに、
「なのに、ジルルキンハイドラ様はいつもいつも食っちゃ寝食っちゃ寝。何かするかと思えば、本を読んでいるか、釜の前で奇声を上げるだけ。事件どころか、誰も寄り付こうとしない」
グチグチと客人がジルの文句を叫んでいると、ギィと階段がきしむ音がした。
客人の頬をたらりと汗が伝う。
恐る恐る客人が階段の方を見ると、目をこするジルが降りてくるところだった。
「あ、あの、いえ、これは・・・」
客人は自身の体を抱き、弁明する。
もうすでに寝ぼけたジルと一戦やりあったのだろう。
臓腑をまさぐられる苦痛の記憶が去来し、顔がひきつっている。
「あーあ、あんなに騒ぐからだよ。僕しーらない」
トットルッチェは当然ながら客人を助けようとはしない。
絶望がひたひたと迫ってくるのを、客人は身を固くして待っていた。
ジルの足が止まる。
「そんなに私のもとに事件が訪れるはずないよ~」
「よかったね。おじさん。ジルが覚醒していて」
客人がはたと顔を上げると、ジルは笑顔と共に一冊の本を差し出していた。
「聞いてらしたのですか。いやはやお恥ずかしい。それでその本は?」
乾いた笑いを奏で、客人は差し出された本を手に取る。
本を手に取り、気付く。
それはかつて彼が書き綴った本である。
「名探偵シャロルル・ワーレン。別に私が問題を解決しないでも、ちゃんと専門で事件を解決してくれる人いるんだから」
「・・・既にその方は亡くなられました」
「あら、そうだった?でもでも、確か彼には息子さんがいたんじゃなかったけ?」
「あれはだめですな」
そう言って客人はため息をついた。
「だめなの?」
「天才が必ずしも天才を生むとは限らない」
「彼の息子は凡才なの?」
「ええ、凡才ですよ。凡才らしく父親の築いた権威という鉢にどっかり根を張り巡らせ、体良く飾られています」
「そう」
少しさみしそうにするジル。
「あ、いえ、別に彼だけが探偵ではないですし、それに今は事件を斡旋するギルドなんてものも、あっ?!」
突如大声を上げ、固まる客人。
何事かとジルとトットルッチェは目を丸くしている。
「そうです。何も事件を待っている必要などない。私がジルルキンハイドラ様にしか解決できないような難事件を持ってくればいいだけの話じゃないか!そうと決まれば、早速難事件の問い合わせを、いや、そんなまどろっこしいことをしている場合か。この上は私自らが赴き、ジルルキンハイドラ様の新しい歴史の1ページを飾るに相応しい事件を見繕うべきでは?そうであるな。では、早速出かけなければ、それでは、ジルルキンハイドラ様、楽しみに待っていてくだされ!」
そう客人は一気にまくし立て、ジルの元を去っていった。
ジルとトットルッチェの目はさらに丸くなって、パチクリとしている。
「あのさ、トットルッチェ」
「ん?何?」
「そう言えば、ティナがこの前お母さんの墓参りにこないかって、言ってたの覚えてる?」
「あー、そんなこと言ってたね」
「今、ちょっと散歩ついでに行ってみようかなって気分なんだけど」
「それって散歩ってレベルの道のり?」
「うっ、まぁ、ちょっと遠いけど・・・」
「ジル、逃げるんだね」
「母親思いのいじらしい娘だと言って欲しいわね」
「ジル」
「・・・何?」
「逃げるんだね」
「分かったわ。ウルばあちゃんのとこ行ったら、何かトットルッチェによさそうなもの探してくるわ。おみあげに」
「わーい。さすがジルだね。分かってるー」
「その代わり・・・」
「分かってるって。さっきの人には適当に言っておくからさぁ」
こうしてジルは帰郷の途につくのであった。