第6話「悩みを心に留め続けて」
目の前には尿意を必死に我慢しているの女の子、ジェスチャーが伝わらずあたふたしている先生。そんな、カオスな状況で僕は意を決し、この状況を抜け出すための最善の策を講じた。それは…。
『先生ぇーーー!!!! お便所ぉーーーーー!!!!』
小学校の入学式直前のこの出来事、僕のウルトラスーパーアメージングな機転のおかげで何とかなりそうだ。僕は得意になって、顔がニヤつきそうになり必死に堪えた。まぁ、これが終わった後お母さんにこっぴどく叱られ、顔面蒼白。この時の出来事を思い出すたびに顔を赤らめ足をジタバタさせるほど恥ずかしさに苛まれることになるのだが…。
さて、きっと千春は僕に感謝して、目を輝かせ羨望の眼差しを向けているだろうと思い僕は千春の顔をチラと横目で確認した。
そこには、輝きが消えた目をして、今にも泣きだしそうになって、うつむいたまま先生に手をひかれる方にトボトボ歩く女の子がいた。
トイレの前に着くと、先生はしゃがんで目線を合わせた僕の方を見て訊ねた。
「宏実君はトイレ一人で行ける?」
「うん。行けるよ」
僕の返事は先ほどの大声とは比べ物にならないほど小さかった。千春のあんな表情を見たらそうなるだろう。
何か悪いことをしてしまっただろうか。善意から行動したので特に自覚も無い。もし、千春の琴線に触れてしまったとしたら悪いことをしてしまった。
先生と千春は女子トイレへ向かい、僕は男子トイレへと向かう。僕はもともとトイレに行きたいほど尿意があったわけではなかった。トイレには誰も人はいなかった。トイレの中の空気を満たす静寂が先ほどの千春の顔を思い出させた。
(どうして、あんな顔していたのだろう。やっぱり、大声で叫ばれた事が嫌だったのかな)
結局答えは出なかった。トイレの扉は先ほどよりも少し重い気がした。先生と千春はまだ戻ってきていなかった。
(やっぱり、謝ったほうがいいかな)
僕はやっぱり千春のあの表情に気が引きずられていた。自分で入園式の会場に戻る事は出来るが、千春が心配で待つことにした。
秒針が2、3回ほど周ったところで先生と千春が戻ってきた。
「宏実くん待っててくれたの? ごめんね、先に戻っててもいいって伝えれば良かったよね。じゃあ2人とも戻ろっか?」
「…うん」
僕は先生に言われるがまま会場に戻っていった。千春の表情は変わっていなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
先生は僕たちを会場の席まで案内して戻っていった。僕と千春は偶然隣同士だった。僕は千春が心配で話しかけた。
「さっきは大声出してごめんね。嫌だったよね」
僕は心配になって聞いてみた。千春の頬は赤く、そして目は潤んでいた。先ほどの行動が彼女にとって相当恥ずかしかったのだろう。確かに思い出してみれば、目立つ行動をしてしまった。
ブンッブンッ
千春は首を横に振り、否定の意味を伝えてきた。どうやら大丈夫じゃないらしい。ふと、先程の疑問を聞いてみた。
「どうしてさっきはジェスチャーで伝えてたの? 口で言えばいいのに」
ブンッブンッ
千春は頬を膨らませ少し怒ったような表情になった。一層泣きそうになった、が、その目からは少しずつ光が失われかけている気がする。
先ほどから千春は首を振るばかり。僕と会話したくないのかなとも考えたが、自分の中で一つの考えが芽生えた。
…伝えたい事があっても、ジェスチャーで伝えるしか方法が無いのか? だとしたら…
「千春ちゃんって、『声』出せないの?」
……コクッ
千春は、まさか僕に当てられるとは思っていなかったようで、すこしの間驚いた顔をした。その後、視線を下に向け、うつむきながら頷いた。
「…そう、なんだ」
千春の表情の奥に見えた深い、深い、絶望という冷めきった気持ちの片鱗を垣間見た。僕は恐ろしくなって目をそらした。
僕の友達が出来るかなんて呑気な悩みだったと思えるほど、彼女の悩みは大きく重いものだった。声が出せないことによる弊害なんていくらでもある。その一つに、人と交友関係の構築がしにくくなる。人間関係の基盤となっているのはやはり会話だ。それが成立しなければ、友達も簡単にはできないだろう。他にも考えればいくらでも出てくるだろう。苦労もそれだけするはずだ。嫌なことも辛いこともあっただろう。
千春はあの時、トイレの場所を聞くことも、連れて行ってもらうことも、自分一人では出来なかった。先生に気づいて欲しかったのだ。自分の気持ちを、境遇を、絶望を。それは、簡単ではないことなど彼女はとっくに知っているだろう。
けれど、数少ない希望を新しい環境のこの小学校に見出そうとしていた。
けれど、現実は非情だ。希望などあっさりと砕け散る。これまでもそうだったのだろう。
(僕が今、してあげられる事は……)
僕はしばらく悩んだ。
(結局どうすればいいんだろう…僕がしてあげられる事…)
相変わらず、千春は視線を下に向けたままうつむいている。手は固く握られており、悔しい感情が伝わってくるだろう。
「手、繋ぐ?」
今日、小学校に来るとき、緊張で震えていた手をお母さんは握ってくれた。手を握っていると不思議と安心する。千春に効くかどうかは分からない。けど、今の僕の精いっぱいの答えだった。
千春は、大きな目をぱちくりと開けて驚いていた。けど、またうつむいてしまった。
「手、繋ぐとね。安心するんだ。みんな一緒だって感じるんだ。だから…その、うまく言えないけど、えーと、だからその…」
途中からうまく言葉に出来なかった。千春の深すぎる絶望の前にはどんな言葉も、作り物で心がこもっていないように思えた。
「嫌ならいいんだけど、千春ちゃんが辛そうに見えたから…」
そう伝えると、千春はゆっくりと恐る恐る手を伸ばしてきた。僕はてっきり手を繋ぐのが嫌なのかなと思っていたので、少し驚いた。
僕は千春の手をゆっくりと包むように握った。
(冷たい)
千春の手は生きている心地がしないほど冷たいような気がした。
「僕、小学校に来るまで心配だったの。もしかしたら友達が出来ないかもしれないって思って。けど、千春ちゃんの泣きそうな顔見て、助けなきゃって思った。もし、学校で困ったことあったりしたらさ、僕を頼ってよ。言葉で伝わらなくても、きっと千春ちゃんを助けるから」
千春はずっとうつむいたままだった顔を上げ、僕と目を合わせた。ちょっとだけドキドキして目を離しそうになったけど、それでも僕は千春を見つめ続けた。
「千春ちゃんは友達いる?」
千春は首を横に振り否定した。
(そっか、僕と同じだったんだ)
実は、宏実も友達がいたのだが、親の仕事の都合で引っ越してきたのだ。結局こっちでは友達もできずじまいだった。
「その、良かったらさ。僕と、友達にならない?」
僕は勇気を振り絞り千春にたずねた。
コクッ
千春は僕と友達になってくれた。こっちでは初めての友達だ。きっと声が届かない千春と友達になると困ることもあるだろう。だが、友達なら乗り越えられる。きっと大丈夫だ。
◆◇◆◇◆◇◆
これが僕と千春の出会いだった。
「覚えてる? 私が先生に上手く伝えられなくて、ヒロが助けに入って叫んだの」
ハルは顔をニヤつかせて聞いてくる。僕はちょうど思い出した恥ずかしい記憶を鎮めようとしていたところだった。
「………………聞かないでくれ」
「私は今でも覚えてるよ」
「頼むから、忘れてくれ」
「忘れないよ。あの出会いが今につながってると思うと大切な記憶に思えてくるの」
「だとしたら、僕たちの出会いは便所になるけどいいんだな?」
「それは…嫌かも」
「だろ?」
何十年後、同じ会話をすることを2人はまだ知らない。
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