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短編・童話集

ダブルライフ――「大きな方」と「小さな方」の自分――

 彼女は、あるときから二重生活を送っていた。

 

 それはつまり、「昼と夜との生活が違う」といった例えではない。

 もちろん二人の夫がいるなどということもない。

 文字通り、彼女は二人いたのである。


 はじまりは、覚えている限り、四歳の夜だった。

 その夏の日、母親に寝かしつけられたその後、ふと気がつくと、彼女は十四歳になっていた。

 朝だった。


 戸惑いはしなかった。

 十年間の記憶は存在していた。

 おぼろげではあるが、ちゃんと思い出せる。

 小学校入学の頃の忙しさ、いざこざ、友達の顔。

 引越しで失った親友。一つずつ学んでいた勉強。


 ただ一つ引っ掛かったのは、四歳の自分の記憶だった。

 自分は十四歳でもあり、そして一瞬前までは、眠るのを嫌がっていた四歳の子どもだったのだ。

 この記憶の食い違いはどうしたらいい?


 わからぬままに、彼女は十四歳としての普段通りの生活をはじめた。

 中学校へ行き、なじみの友達といつもの日々を送る。

 ちょっと気になっている男の子に声をかけてみる。知っているけれど、知らないはずの彼。

 部活はバスケ部だった。汗を流して帰宅をし、夜、ふと考える。

 今の自分が眠ると、一体、どうなるんだろう……。


 答えは単純だった。

 彼女は四歳に戻ったのだ。

 少し早い目覚めで、五時間ほどしか時間は経過していなかった。

 そばにいる母親も眠っていた。その寝息に安堵を覚える。


 だけど覚えている。

 記憶は鮮明だったが、幼い思考能力に把握できる範囲でしかなかった。

 わかっているはずの計算能力も再現は出来ない。

 しかし彼女の自意識の中で、幼い自分と成長した自分、二人は同一だった。

 私は四歳だけど、十四歳でもあるんだわ。


 それ以来、彼女は夢を見なくなった。

 代わりに、若干の意識の中断の後、二つの時代を行き来するようになったのだ。

 一人は十年後の自分。もう一人は十年前の自分。

 どちらか片方が本当の自分、というわけでもなく、十年の時を隔てた二つの生活を彼女は送るようになった。


 彼女は「大きな方」と「小さな方」という風に二人の自分に名前をつけた。

 二つの生活には何の違和感も覚えなかったが、やがて時が進むにつれ、気になることが現れた。

 あれは確か、十四歳の夏だった。あの日、はじめて自分は「大きな方」になったのだ。

 「小さな方」が十四歳の夏を迎えたら、私は一体どうなるの?


 時の流れは避けようがない。

 不思議でもあり、興味をそそられることでもあり、不安でもあった。

 二つの記憶に今までのところ、食い違いはなかった。まったく同じコースをたどっているということだ。

 とすると未来を知っている、ということになるけれども、彼女は強いて自分を演じることもなかった。

 「大きな方」の彼女は、「小さな方」の彼女がするだろうことを今までしていたからである。

 それをあえて変化させようとも思わなかった。

 そもそも十年前のことを事細かには覚えていなかったし、無理な変化はどこかにひずみを生んでしまいそうな気がしたからだ。

 だから、ひょっとすると、十四歳の夏のあの日をもう一度迎えたら、「小さな方」は消え去り、人生は「大きな方」へ統合され、自分はまた夜に夢を見るようになるのかもしれない。


 そして十四歳の夏はやってきた。

 だが、夢見る自分には戻らなかった。

 二つの人生は本当の意味で重なった。しかし、今までと何も変わらなかった。

 なにせ「大きな方」の自分はすでに二十四歳になっていたし、恋人もおり結婚も近い。

 そんな自分から見れば、「小さな方」である十四歳の自分のことなど、すでにはるか過去のことでしかなかったからである。


 決定的なことが起こったのは、十八歳の夏であり、二十八歳の夏だった。

 彼女は何も悪くはない。ただ、事故が起こってしまったのだ。

 「大きな方」の自分の死を、彼女は経験してしまった。


 何もかも急なことで、あまり覚えていない。

 四歳の子どもと、夫と、自分の三人でスーパーへ街を歩いている最中だった。

 午前十一時の、駅前の交差点だった。

 青信号の横断歩道を渡っている最中、夫がふとこちらへ話しかけようと顔を向け、表情を硬直させた。

 何が起こったのかと、彼女は夫の視線の先へ目を向けた。

 目の前に巨大なトラックがあった。

 衝撃が体を襲い、次の瞬間、彼女は十八歳の夏の朝へと戻っていた。


 それ以来、彼女は「大きな方」へはならなかった。

 かつてそうだったように「小さな方」の自分ただ一人へと戻ったのである。

 しばらく、眠りは何の意識もない静かな時間へと変化し、やがてまた、日常の記憶の取り留めのない反映である、普通の夢を見るようになった。


 それから十年の時が流れた。


 「小さな方」の彼女はいま、午前十一時の、あの交差点に立っていた。夫と子どもの三人で。

 赤信号が点灯しており、家族は次に渡れるときがくるまで待っている。


 そして彼女は、自分にしか聞こえない声でつぶやいていた。

 あなたが渡れなかった交差点よ。

 だからここでさようなら、もう一人の私。

 今まで、本当にありがとう。


 信号が青に変わる。夫と子どもは歩き出そうとするが、二人の手を握って彼女は言った。

「今、お別れをしているの。だから、渡るのは次の青信号まで待ちましょう」

 不思議そうな顔をする愛すべき二人の家族を見ながら、もう「大きな方」でもなく「小さな方」でもない、たった一人の彼女が微笑んでいた。

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