前振り
「おはよう、高木」
鞄を机の上に置き、隣の席に声をかける。
「おはよう、岸岡」
本を読む手をとめて、高木がこちらを向いた。
中学時代、“高木正寛が加納愛梨を好きである”という事は周知の事実だった。高木が積極的に広めたわけではなかったけれど、好きなのかと聞かれれば否定はしなかったし、同級生の半数以上が小学校からの持ち上がりで私立中に行った愛梨のことを知っていた。
だけど高校ではクラスも倍近くあり、持ちあがりでもない為、その話はあまり知られていなかった。第一、愛梨を知っている人自体が多くない。 そもそも、学年に300人も同級生がいたら、高木を知らない人だっている。
「今日さ、電車の中であった五組の子に高木と付き合ってるのかって聞かれちゃったよ」
苦笑しながら言うと、高木はあからさまに顔をしかめる。
「うわぁ。俺らにそんな要素は欠片もないのにね」
私達の間に恋人同士のような甘さはない。ただの友達だ。
「言っとくけど。原因は高木の方にあるんだからね。あんたが私と話してる時、すごく楽しそうで優しい顔してるからそう思ったんだって」
けっこう、噂になってるらしい。と付け加えて指摘すると、高木はばつが悪そうにしながらも、顔をすこし赤らめる。だから、それが原因なんだってば。
「仕方ないだろ」
ふてくされように高木は言う。確かに仕方ないといえば、仕方ないのかもしれない。高木がそう言った顔をするのは、私と話しているからじゃない。私の話す内容のせいだ。
「まさか言いふらせないもんねえ。愛梨の話をしているからそんな顔になるんです、なんて」
多少からかいを含んだ口調で言うと、更に高木の顔が赤くなる。
「岸岡がこの高校のやつと付き合えば、そんな噂はなくなるんじゃないか?」
苦し紛れのように言った言葉は、横暴極まりない。今度は私が顔をしかめる番だ。
「何で私がそこまでするのよ。高木が愛梨を彼女にして、彼女の写真を持ち歩けば良いじゃない」
「……それができてれば今ここまで苦労してないだろう」
本当は、そうしたいらしい。
でも、苦労しているのはどちらかといえば私の方なのではないか。
「見込みが限りなくゼロに近いのに、まだ諦められないって、情けないよなあ、俺」
机に体を突っ伏しながら、高木がつぶやく。
「その諦めきれないところが、高木の良さでしょ」
見込みのない恋愛はつらい。本当につらい。
高木が愛梨を好きなのは多少知られているけど、私に好きな人がいる事は秘密だ。人には決して言えない。言ってしまったら友情が壊れる。きっと私の居場所がなくなる。だから、絶対に言えない。
この恋が成就する可能性なんてないのに、諦められなくて、体の中でどんどん気持ちが大きくなる。――見込みのない恋愛はつらい。
「岸岡?」
高木が私の顔を覗きこんでいる。
「な、なに?」
「お前、どっかにワープしてたぞ」
おかしそうに、高木が笑う。つられて私も笑う。
絶対に、ばれてはいけない。ばらしてはいけない。
「あんたたち、朝からなに顔つき合わせて笑ってんの?」
眉間に少ししわを寄せて日沖が私達の前に立っている。
「おはよう日沖」
「日沖さんおはよう」
私と高木の、のんきな挨拶に日沖は「気持ち悪い」と悪態をつく。失礼な話である。
「ソフト部、ブロック大会出場決まったんだろ? 良かったね」
高木は悪態をつく日沖を気にせず、部活の話を振った。
「そうなの? すごいじゃん」
日沖はソフト部で一年の秋からファーストを守っている。中学の時は投手をやっていた。今は、部長候補らしい。
「そう! 良かったことは良かったんだけど、皆張り切っちゃってさ、朝からバテバテだよ」
バテバテという割には爽やかだ。軽くウェーブの掛かったショートヘアもしっとりとしていない。
それに、きっと日沖が一番はりきってると思う。大好きなことができて幸せって顔をしている。
「そう言えば、高木と紗那って付き合ってるの? 後輩に聞かれたんだけど」
またそれか。日沖が意地の悪い笑みで私達を見る。
「知ってるくせに」
頬杖をついて眉を寄せる。
「岸岡と付き合ってるとか、面倒過ぎるわ」
「言うにコト欠いてそれ? 五年越しで片思い続行中のあんたに面倒とか言われたくないんですけど」
日沖が声を上げて笑う。
「あんたたち、おもしろすぎ。ちゃんと言っといてあげたらから、高木には他校に好きな人がいるって」
別に面白いことを言っているつもりはないし、日沖を大笑いさせたいわけじゃない。
「そこまで言ったの? 否定するだけにしといてよ、俺のプライバシーは?」
「え? ないない。そんなの存在しない」
素晴らしい将軍っぷりである。
「ひどすぎるだろ」
「何でー。否定してあげたんだから感謝して欲しいくらいよ」
日沖はふんぞり返る。さすが将軍。
そう言えば、と言いながら日沖が取り出したのは二つ折りのメモ用紙。
「これ、戸田から紗那に」
私に?
「戸田って、テニス部の戸田くんのこと?」
ソフト部の練習場とテニスコートは近い。
「そうそう。テニス部で人気の戸田一馬から紗那にラブレター」
恥ずかしいことを、よく平気で言える。
「ラブレターにしてはそっけなさ過ぎるんじゃないか?」
高木の冷静な突っ込み。封筒にも入ってないそれは確かにラブレターにしてはそっけなさ過ぎる。まあ、あの戸田くんからラブレターとかありえない。
開くと、角張っているけど丁寧な文字が並んでいた。
『昼休み一時に図書室前で待ってます』
「告白かしら?」
日沖はニタニタと笑っている。
「一馬が岸岡に? ゼロではないと思うけどイチよりはゼロに近いよな」
そりゃあ、告白された事なんて一度もないけど! その言い方は、酷い。
でも、戸田くんから告白なんてきっとない。テニス部男子はよくモテる。戸田くんは特にモテる。戸田くんが告白されたという話を何度も聞いたことがある。選び放題なのにわざわざ自分から告白するなんてことないいだろう。去年同じクラスだったけどそれほど仲良かったわけじゃないし。今だってすれ違えば話をする事もあるけど、ただの友達だ。
「まあ、遅れずにちゃんと行きなさいよ。渡し忘れたと思われるの癪だし、告白だったら悪いしね」
言っている事は、正当性を帯びている。でも顔はニタニタしたままだ。
恋愛には興味ないと公言している日沖だけれど、それは自分に対してのみで、他人の恋愛ごとにはなにかと茶々を入れたがる。
いや、この呼び出しは告白だと決まったわけではけれど。
なんだか、落ち着かないまま午前中の授業を乗りきり、お昼の時間。中学の頃は席を移動していたけど、今は動くのが面倒で自分の席で食べている。どうせ、隣は高木で前は日沖だから話し相手には不足していない。
「紗那、そろそろ一時だけど?」
日沖のニタニタは朝から続いている。
食べかけのお弁当にふたをして、席を立つ。
「そんなんじゃないって、多分」
「行ってらっしゃい」
いつのまにか高木まで人の悪い笑みを顔に貼りつけている。
「行ってきます」
せいぜい、嫌味を込めてそう言うけれど、二人のニタニタは止まらなかった。
図書室なんて、利用することがなかったから、一年の時オリエンテーションで一度行ったきりだ。だいたい、最上階にあるって言うのも、足が遠のく理由の一つだ。もちろん、私が本嫌いというのが一番大きい理由なのだけど。
すでに戸田くんは図書館の入り口の前にいた。待ってますとあったのだから当然かもしれない。
「戸田くん」
名前を呼ぶと、彼がこちらを振り向いた。
促されて図書室の中に入る。本の並ぶ棚に圧倒されながら、戸田くんの後ろをついていく。図書室って静かにしてなくちゃいけないってイメージがあったけれどそれなりに話し声が聞こえる。大きな机が並ぶ学習コーナーまで来て戸田くんが座った。私も向かいに腰を下ろす。
「岸岡さんのこと好きなんだけど、付き合わない?」
何の前振りも無い。
単刀直入だった。いきなりすぎる。私は少しの間呆気に取られる。冗談かと思って戸田くんの顔を見ると、笑ってはいるが真剣な顔をしている。
「えーっとですね……」
告白なんてされた事ないから断り方を知らない。告白なんてした事ないから断り方を知らない。
「ごめんなさい」
今度は戸田くんが呆気にとられる。そりゃあ、断られたことなんてないでしょうとも。私だって、他の人が告白されてたら断るなんてもったいないと思うよ。だけど、自分のことだとそうはいかない。
「理由を聞いても良いのかな」
理由なんて、ない。理由なんて言えない。
「戸田くんのこと、良く知ってるわけじゃないのに付き合うってのもねえ」
そう口にすると、戸田くんは笑った。
「良いじゃん、これから知ってけば。それが理由ならためしに付き合ってみるってのもありじゃない?」
思ってたより敵は強引だ。有無を言わせない態度とかではないんだけど、なんとなく断りづらくなる。
それでも私はこの人と付き合えない。
「好きな人が、いるの」
高校に入ってはじめて口にした。高校だけじゃなく誰かにそんなことを言うのは初めてだった。
「初耳だな。同じ学年? それとも俺を振るための口実?」
戸田くんはちっともひかない。
「好きな人がいるの。でも、友情が壊れるから言えない」
「言い方悪いけど。俺、岸岡さんのこと友達だと思ったことないよ。好きな人なんだから」
歯が浮きそうなんですけど!
「でも、私にとっては友達だから。それに、戸田くんだけじゃない。全部だよ」
あの人が好きだとばれたら、友情が一瞬にして吹き飛ぶ。それは、嫌だ。
「そっかー。俺、明日から紗那って呼ぶつもりだったんだけどな」
笑っているけど、少し寂しそうなのは気のせいじゃない。だけど、付き合ったりなんかできない。
ごめんなさいともう一度言って、立つ。気にしなくて良いよと戸田くんは言って手を振った。こういう爽やかさがモテる理由なんだろうか。
教室に戻ると二人はまだニタニタと笑っていた。
「どうだった?」
日沖はどうしてこんなに人の悪い笑みを浮かべているんだ。
「日沖様の言っていた通り、告白でした」
教室を出て行った時と同じように、たっぷり嫌味を込めてみるけれど、日沖には通じない。
食べかけのお弁当の、最後のおかずのから揚げに箸をぶっさす。
「まじでかー。まさか一馬が岸岡を好きだったとは、あいつ悪趣味だな」
高木の言葉は失礼極まりない。から揚げを口に運んだ後、高木をにらむ。だけど、そんなことでひるむ高木じゃない。なんたって、五年間一途に片思いしてる野郎だ。神経は図太くできている。
「悪趣味とか。これでも意外と可愛いところあるんだよ、紗那は」
日沖が苦笑しながら私の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。これ、褒められているようで貶されている気がするんですけど、日沖さん。
「で、岸岡は今日から一馬の彼女なのか?」
そうならくだらない噂は立ち消えるから嬉しい。高木の顔にでっかくそう書いてある。
私も不本意な噂は取り消したい。それでも好きでもない人と付き合えるほど、恋人を欲しているわけじゃない。
「断った」
私の頭をかきまわしていた日沖の手がとまり、高木は目を見開いている。
「もったいないことしたわね」
「お前、贅沢過ぎるぞ」
あの戸田くんの告白を断った。もったいないことをした。そうかもしれない。だけど戸田くんは私の好きな人じゃない。
「良いじゃん、別に。高木、私にあんまりひどいこと言ったら愛梨にその所業ばらすからね」
もうこの話題は触れて欲しくない。
高木はギョッとして黙った。高木にとっての愛梨はでかい。もう何年も会ってなかったとしても、高木の中で愛梨の存在は大きい。
「まあ、たとえ彼氏がいなくても日沖様が紗那を構ってあげるから、安心しなさい」
ぽんぽんと弾ませて私の頭から日沖の手が離れた。これで、この話は終わりだ。
日沖は空気に聡い。高木だって聡い。だから、愛梨の話をしなくてもきっとこの件は終わっていた。愛梨を持ち出したのは失礼極まりないことを言ったことの仕返しだ。
胸ポケットの中で携帯がふるえた。取り出してみてみると、愛梨からだった。
『明後日の練習は中止だって。私は自主練に行くけど紗那はどうする?』
毎週水曜日の夕方と土曜日の午後がサークルの練習時間だ。ただでさえ少ないのに水曜日をつぶされたら困る。家は防音じゃないからあまり大きな音で練習できないし。
『私も行く。一緒に行こう』
学校が違っても仲良くいられるのはこのサークルのおかげかもしれない。私と愛梨は同じ吹奏楽サークルに入っている。愛梨はクラリネットで、私はトロンボーンだからパートは違うけれど一緒にいることが多い。
年齢に幅があるし、いろんな職業の人がいるけれどあのサークルが私は大好きだ。少なくとも学校の部活なんかより数百倍。
「ねー高木、エトワールの新作のプチタルトが食べたいなあ。ちなみに今、愛梨とメールしてる」
エトワールは駅前にあるカフェ併設のケーキ屋さんだ。お手ごろ価格で美味しいケーキが食べられる。愛梨ネタで高木に強請るのは良くないけれど、今日はさんざん意地悪された仕返しだ。
「ありがたく、おごらせていただきます」
高木は一瞬顔をしかめたけれど、すぐに引きつった笑顔に変わった。高木は優しい。
「さすが高木だね。話がわかる」
一緒に朝来ることはないけれど、帰りは一緒のことが多い。日沖や他の友達は部活やら委員会やらで忙しい。私と高木は帰宅部だから時間が合う。それに帰る方面も一緒だ。
「最近、岸岡って日沖さんに似てきたよな」
「ちょっと、どういうことよ高木!」
日沖が高木に抗議する。私も抗議したい。私は日沖ほど横暴じゃない。俺様でもなければ将軍でもない。それでも、あんまりうるさくしてケーキがなくなるのは嫌だったから黙っておいた。少し抗議したくらいで約束を取り消すほど高木が心の狭い人間ではないと分かってはいたけれど。
いつもより、少し今日は早めに家を出た。特に意味はない。ただ、早く起きただけの話。そろそろ、制服が夏服にかわる。まだ早い時間なのに太陽はアスファルトを照りつける。
一昨日、高木におごってもらったタルトは美味しかった。果物の酸味とカスタードの甘味がマッチしていてそれはもう美味しかった。今日は練習日だ。まだ朝だけれど夕方が待ち遠しい。防音された部屋で思いっきり楽器が吹ける。
駅につくと、ホームに高木がいた。ベンチに座っている。同じ地域から同じ学校に通っているのだから、別にいたっておかしくない。それに今日は時間が早い。だけど、高木はもっとはやくに学校に行っているはずだ。もう二つくらい前の電車に乗っているはずだ。
「おはよう、高木」
「おはよう、岸岡」
いつもは教室についてから交わす言葉を、太陽が照りつける駅のホームでした。
電車が来るのは15分後だ。私は高木の隣に腰をおろした。
「今日は遅いんだね」
「ああ。お前を待ってたから」
高木はたいしたことないようにそう言った。電車通いは二年目だけど、待っててもらったことなんて一度も無い。
「何か用?」
愛梨の話だろうかと、考えながら私は聞いた。
だけど、愛梨の話は学校でもできる。私と付き合ってると噂されるのが嫌だから、学校では口をきかないつもり?
「岸岡さあ、好きな人がいるんだって」
高木が嫌味な笑みを浮かべて聞いてきた。
愛梨の話とはかすりもしない。予想は見事に外れた。
「何で、知ってるの?」
高木は笑っているけれど、私は笑えない。
「一馬が俺に聞いてきたんだ。岸岡さんの好きな人って誰か知らないかって」
「戸田くんが高木に聞いたの?」
ああ、と高木は言った。口止めしておくべきだったのかもしれない。高木に、好きな人がいることを知られたくなかった。高木だけじゃない、日沖にも他の誰にも。仲の良い人たちに知られたくなかった。
だけど、理由も言わずに口止めなんてできない。あんなこと言わなければ良かったと、今更少し後悔した。
「……誰かなんて、お願いだから聞かないで」
お願いだから、問い詰めたりしないで。この件について触れたりしないで。
自分が眉を寄せているのが分かった。だけど、眉間に寄ったしわはもとに戻せない。
「何その顔。まさか……俺とか?」
高木はさっきの笑みを消して困ったように言う。
その顔を私は知っている。その顔は、誰かからラブレターをもらった時にしていた顔だ。誰かから告白された時にしていた顔だ。
「ないから、ありえないから。そもそも、こんなに愛梨のこと好きだって言ってる人、見込みないのに、好きにならないから」
とっさに答えた。本当のことだ。だけど少し、嘘をついた。
見込みがないのに好きにならない。そうじゃない。見込みがないけど、諦めることなんてできない。
「俺は岸岡に、加納さんが好きなことばれてるのに、岸岡の好きな人を俺が知らないなんて、不公平じゃないか?」
それは、屁理屈だ。知りたくて知ったわけじゃない。言い方は悪いけれど、高木が自分で墓穴を掘りつづけているだけだ。
でも、屁理屈だけど、もっともな意見だとも思った。
「ごめん、言えない」
言っても無駄だ。言ったって、高木がその恋を叶えてくれるわけじゃない。
「それは俺に信用が無いから?」
「信用とか、そう言う問題じゃない。友情が壊れるから言えない」
せっかくの心地よい空間を手放す気にはなれない。叶わない恋のせいで友達をなくすのは嫌だ。
「壊れるって何? もう四、五年お前と俺は友達だろ」
「でも、崩れるのは一瞬だから」
友情と恋はとても似ている。築くのは難しく、壊れるのは一瞬。
「大丈夫だって。岸岡ってさ、ときどき抱えきれないって顔してるんだぞ」
本当は結構前からお前に好きな人がいるって知ってた。そう言われて、少しびっくりした。
ばれていないつもりだった。
「何で」
自分の口からこぼれた言葉は無声音のようだった。
「タイミングが掴めなくて、なかなか聞けなかったけどな」
タイミングなんて掴まなくて良かった。そのまま、聞かないでいてくれば良かったのに。
そうしたら、私は高木に愛梨の情報を提供しつづけることができたのに。高木はもう何年も会っていない愛梨のコトを知ることができたのに。
「崩れたりなんかしないから」
高木の顔は最初のころのような嫌味な笑みでない。困ったような顔でもない。
「じゃあ、私が誰を好きだって言っても素直に聞き入れてくれるの? 変わらず仲良くいられるの?」
そんなこと、あるはずないのに。私だったら、友達をやめてしまうかもしれない。
「大丈夫だから。泣きそうな顔になってるぞ」
大丈夫なら、こんなに悩んだりしない。好きな人を友達に告げることに躊躇したりしない。
「岸岡」
そんな私の躊躇いを吹き飛ばすかのように、高木は私の名前を呼んだ。
それはひどく、やさしい響きだった。
「日沖が、日沖が好きなの。もうずっと……日沖のことが好きなの」
初めて、口にした言葉。それは掠れていて、自分でもびっくりしてしまうほどに弱弱しかった。
「日沖って、日沖るり?」
頷くと、高木は呆然としていた。やっぱり、言うんじゃなかった。こんなこと話すべきじゃなかった。
「ねえ高木、やっぱり友情は簡単に崩れるんだよ。気持ち悪いって思ったでしょ」
高木が眉間にしわを寄せる。
「違うから。一ミリだって崩れてないから」
高木はそう言うけれど、顔はまだ呆然としている。
別に、受け入れられるとは思ってなかった。自分でだって気持ち悪いと思う。だけど、高木に受け入れられなかったことが、思いのほか堪えている。
「嘘つかないで! もう、縁切りたいって思ったんでしょっ!」
それでも良い。もう、何でも良い。高木がこのことを口にしないでいてくれるのなら、私は明日からまた普通に過ごせる。ただし、高木とはもう話せない。大事な友達だったのに。
高木とはもう話せない。
「卑屈になるな。大丈夫だから。もう泣くな」
高木の腕が伸びてきて、私は何かを顔に押し当てられる。押し当てられた柔らかいものはタオルだった。 うちとは違う、柔軟剤の匂いがする。お日様の香りだ。
泣いていたのか、と他人事のように思った。視界がさっきから霞んで見えたのは、自分の涙のせいだった。
「確かに、人前では話せないかもしれないけど。ちゃんとこれからは俺も聞いてやるから」
なんで高木はこんなにも優しいんだろう。
「受け入れられるの?」
「少なくとも、俺はな」
涙が止まらない。ずっと日沖が好きだった。でも、口に出すのが怖かった。口にしてからも怖かった。今だって本当は少し怖い。
「すっごく、柔軟なのね。私が逆の立場だったら、気持ち悪いって思っちゃうよ」
「だから卑屈になるなって」
高木は私の背中をぽんぽんと叩く。もう、タオルは私のせいでべたべただ。
柔らかい声と柔らかいタオル。タオルからは清潔な香りが漂う。
だんだんと落ち着いてきたのは泣いたからか、タオルが柔らかいせいか、清潔なせいか。それとも高木の声が柔らかいからだろうか。
「他の人には、言わないで」
顔を、高木に押し当てられたタオルにうずめたまま、私は言った。もうそれは懇願に近い。
「皆には絶対、黙ってる。だけど俺は聞いてやるから」
聞いてやるから。さっきも言われた。今もまた、言われた。
「ねえ、友情は、壊れない? 一ミリだって、崩れてない?」
嗚咽と共に、絞り出る声は途切れ途切れで、頼りなかった。
ついでにその言葉はひどく子どもじみていた。
「ああ。俺と岸岡の友情は少しも崩れてない」
苦笑しながら、でも私のことを宥めるように柔らかく高木は言った。
2009/03/21 初出
2020/05/20 改稿