第 87 夜 『リカードロップ』
語り部 : 高木恒芳
お相手 : 手塚静流
盛立役 : 宮崎亮真
普段はマジメでデキる社員のお手本とまで謳われている女子社員。
また下戸であるとして有名な俺の部署の先輩。
会社の飲み会でのこと、男性の先輩と俺と同期の男性社員がイタズラで、彼女のオレンジジュースをスクリュードライバーにすり替えた。
いくら飲めないと言っても、そんなカクテル一杯で潰れるなんて、誰も思っていなかった。
第 87 夜
『リカードロップ』
俺のベッドを占領する彼女の寝顔を眺めていると、普段デスクでキビキビと仕事をこなしている姿が、嘘か幻に思えてくる。
「かわいいな。って俺と二つしか違わないんだもんな」
現役で大学に受かって、四年で卒業、今年は社会人2年目の俺。来月には23才になる俺、先輩は25才か……。
飲み会会場は家から目と鼻の先、酔い潰れた先輩は、この人をこんな風にした張本人も含め、みんな面倒事を最年少に押しつけて、さっさと場所を移してしまった。
明日明後日は休みだけど、俺もそろそろ寝たい。
しかし先輩は起きる気配を見せない。
リビングで毛布にくるまって寝ても構わないけど、たぶん彼女が目を覚ました時、この状況を説明してやるヤツがいないと、きっとパニックを起こしてしまうだろう。
「それにしてもこれ、伊達メガネだったんだな。なんでこんな四角い黒縁メガネなんかかけてるんだ?」
このメガネこそ、彼女のシンボルとも言えるのだが、まさかただの飾りだったとは。
「う~ん」
「おっ、そろそろ起きてくれるかな?」
時間は深夜2時、そこそこ飲んでいる俺ももう限界が近い。
ここで起きてくれなければ、俺は今腰掛けている椅子の上で、背もたれに頭を預けて、眠らなければならなくなる。
「はぁ、……はれ? フゥ……、なんかボーッとする」
「先輩、大丈夫ですか?」
「高木くん? なんであなたがいるの? ってここどこ?」
まだちょっとボーッとしてるなぁ。
「ここ、俺ん家なんです。先輩酔い潰れちゃったんですよ。覚えてます?」
「えーっと、えっ? 私が酔い潰れたって……、えっ!? きゃーーーーーっ!!」
「ちょ、ちょっと先輩、もう深夜なんで落ち着いて!」
慌てて彼女の口を右手で塞いで、肩に左手を当てる。
「さ、触らないで」
「ああ、ごめんなさい」
「な、なんで私、服着てないの?」
下着姿だもんな、無理もないけど、掛け布団を被って、顔だけ覗かせる姿は滑稽ではあったが、それを突っ込んでいる余裕はない。
早く説明しないと、また大声を出されてしまうかもしれない。
「先輩居酒屋で酔い潰れて寝ちゃって、送り届けるにも今日の飲み会メンバーに、先輩の家知ってる人いなくて、仕方なく一番近くの俺の家に連れてきたんです。そのまま横にするのも良かったんですが、スーツが皺になると思って」
「高木くんが脱がせたの?」
「あ、ええっと、ちゃんとは見てませんよ。極力目を細めてましたから。それに極力肌にも触れていません。誓います」
見てないって点は、かなり幅を儲けているけど、触れていないって点に嘘はない。
「私、酔い潰れたって、なんで? ジュースしか飲んでないのに」
「それが、宮崎さんがカクテルとジュースをすり替えて」
「宮崎くん? あいつ余計なことを」
「あ、いや、あの人、飲めないって言っても、一口くらいは平気だろうし、一口飲んだら気付くだろうって、まさかその一口で酔い潰れるなんて、思ってなかったようですよ」
実際には一口で意識が朦朧として、その後は無意識なんだろうけど、残り全部を飲み干している。
その一杯で起こそうにも起きない状態になるとも、思っていなかったのだけれども。
「……もうこんな時間、朝まで帰れないわね」
「ああ、泊まっていって下さい。俺、リビングで寝ますから、そのままベッド使って下さい」
もう起きているのも辛い、俺は話は起きてからにしようと提案して、寝室から出て行った。
朝、目が覚めるとなんかいい匂いが鼻を突いた。
「あ、おはよう、起きた? 冷蔵庫の物勝手に使わせてもらったわね」
先輩の作ってくれた朝食は、理想的な和定食。みそ汁に焼き魚、納豆はパックの物を皿に移しただけだけど、もう一品は納豆入り玉子焼き。
俺は目を見張り一口目を口に運ぶ。
「美味い!」
「本当?」
「いやマジで。俺が作るより、俺のお袋より美味いっす」
こんなまともな朝食なんていつ以来だろう?
「けどちゃんと自炊してるんだね。冷蔵庫あけて何もなかったらどうしよう。とか思ったけど」
「お袋がたまに来て、作ってくれるんで、一応自炊はしてるんですけど」
本当に一応程度で、朝なんかは手を抜いて、トースト一枚くらいしか食べないもんな。
食後には今度は俺からのお礼として、コーヒーをサイフォンで湧かして入れた。
「本当にもう大丈夫なんですか?」
「あ、うん、お酒は飲めない分、飲んだとしても少量しか飲まないし、醒めるのも早いから」
昨晩はちょっと乱れていた髪もくくり直し、いつものメガネもかけてスーツ姿。
「ああ、Tシャツでも出せば良かったですね。俺のでよければですけど」
休みの日の朝から、しっかりと平日スタイルで朝食作りをしてもらうなんて、申し訳ないことをしてしまった。
「うぅうん、気にしないで。別に平気だから」
「……そう言えば、なんで伊達メガネなんてかけてるんです? 同じメガネで装飾するにしたって、先輩に似合うの色々ありそうですし」
へっ? 俺なんかまずいこと聞いた?
「先輩?」
先輩は俺からしたら、他愛もない会話のつもりだった今の一言に、過敏に反応して、フリーズしてしまっている。
「ね、ねぇ高木くん。ちょっと2、3聞きたいんだけど」
「はい、なんですか?」
「えーっとね、高木くんくらいの男の子って、年上の女ってどう思う?」
俺くらいのヤツが年上をどう思うか?
と言われても、一般的な意見なんて知らないぞ。
「えっと、世間はどうか知りませんけど、俺個人としてはアリです」
「何歳差までなら許せる?」
「えっ? 明確に何歳って言うのはないですよ。気が合えばそんなには気にならないと思います。でもあえて言うなら、10歳くらいを目安としておきます」
ひょっとして先輩、意中の相手がいるのかな? 年下の。
もしそうだとしても、俺なんかの意見でいいのかな?
「でもあれね、私なんかを泊めて本当に良かったの? 彼女に怒られない?」
「その心配はありませんよ。俺は今は完全フリーで、好きな人もいませんから。って自慢することでもありませんけど」
「本当に?」
「ああもう、情けないことっすから、検めないで下さい。本当です」
だからこの連休も特に予定はない。
「高木くん、それじゃあ私と結婚しよう」
「ぶっ!? な、なんですか藪から棒に」
「私とじゃあ嫌?」
「あ、嫌って、その職場の先輩ですし、そんなにいきなりは答え出せませんよ」
「そうか、じゃあ結婚を前提と言うことで、交際を始めよう」
わ、訳が分からん。なんでそんな話になってるんだ?
「と、とにかく落ち着いて話しましょう」
「私は冷静だ」
「それじゃあ失礼ですけど、先輩はいつから俺のことを?」
「昨晩」
「はい?」
なんか聞き間違えたかな?
「じゃあなにがキッカケで?」
「はだ……、……」
「はい?」
声が小さすぎて、聞こえなかった。
「……裸、見られた」
はだ!? ……。
「はだかって、服脱いでもらっただけですよ」
下着まで取ったりはしていないぞ。
「あんな姿を男の人に見られたのは、その、初めてだから」
これを本気で言っているのか?
……もしかしたら、いやしかし、でもそうなら。
「先輩」
俺は彼女の方に手を伸ばし、メガネを奪った。
「ダ、ダメ! お願い返して」
そうは言うが、抵抗は一切しない。
メガネを獲られた先輩は、両手で顔を覆う。
「顔見せて」
「いやいや、お願い、意地悪しないで」
「意地悪じゃあないよ。俺、先輩の素顔が見たいんだ」
そう耳元で囁くと、先輩は手を退けて、頬を染めた顔を見せてくれた。
彼女の目をジッと見つめる。
潤んだ瞳がキラキラしている。
俺は何も言わずに顔を近づける。
先輩は一瞬ビックリした顔をして、ギュッと目を瞑った。
なるほどね。
「先輩、ごめんなさい。もうなにもしませんよ。メガネもお返しします」
「えっ?」
目を開けてメガネを改めて装着する。
それでもいつもの毅然とした態度は見られない。
潤んだ瞳のまま、こちらを意識している。
「先輩ってもしかして、ファーストキスもまだなんですか?」
「だ、だってそれは将来の旦那様のために取ってあるから……」
と言うことだな。
先輩は夢見る乙女なままに、大人の社会に出てきた人なんだ。
この伊達メガネは理想と現実を分けるためのフィルターなのだ。
だからこんな見るからに、堅物に見えるデザインの物をチョイスしたんだろう。
こんな人だから、下着姿を見せるのも旦那にだけと考えていてもおかしくはない。
なんてかわいらしい人だろう。
普段とのギャップを考えると、余計にそそられる。
俺、こう言うの割と嫌いじゃあないなぁ。
と言うかアリかもしれない。
「それじゃあ先輩、……静流さん、結婚というのはひとまず置いておいて、おつき合い、しましょうか?」
「えー、結婚が大前提だよ。そうでないと意味がないよ」
「ああ、そうですね。でもそれって、今回みたいに、もし事故で静流さんの裸を、他の男に見られたら、俺って捨てられるんですか?」
ちょっと意地悪い質問を一つ。
「そんな事故はない。あったとしても、絶対に他の人に靡いたりしないわよ」
聞けば聞くほどに楽しくなる。
意外と俺、この人と上手くやっていけそうな気がする。
その後もあれもこれもと意地悪問答を続け、泣きそうな顔をしながらも必死に答えてくれる先輩に、これってアリだなと思うようになっていった。