第 32 夜 『帰告思女』
語り部 : 仁科篤之
お相手 : 川上純菜
盛立役 : 仁科律子
川上妃菜
もうそろそろだよな。
「篤之ぃ、純菜ちゃん来たわよぉ」
母さんが下から呼んでいる。ようやく到着したみたいだ。
第 32 夜
『帰告思女』
母さんの妹の子供で、俺とは同い年、川上家と我が家、仁科家は近所付き合いできるほどの距離で、子供の頃は姉の律子と、純菜の妹の妃菜ちゃんを含めた4人で遊んでいた。
女3人に囲まれて遊ぶ幼少期は、男の子っぽい遊びは全くしなかった。
川上家が引っ越していったのは、俺達が小学校5年生の頃、海外赴任になったおじさんに付いてみんなで海を渡ってしまった。
それから何度かは行き来したけど、やっぱり距離がありすぎて、何回もとはいかない。
純菜に会うのも何年ぶりだっけ? 少なくとも2年にはなるんじゃないか?
彼女は高校、大学は日本で行きたいと言って、俺の知らないところで、俺も受かった高校に合格して、この春に我が家の居候となった。
姉の律子が大学生になって一人暮らしを始めたから、俺の部屋の隣、元姉さんの部屋で、彼女は寝起きをしている。
春先に再会した彼女は、写真ではどんな子かは知っていたのに、想像を上回る美少女になっていて、つい見つめてしまったと言う、恥ずかしい想い出が残ってる。
高校一年、同じクラスになり、彼女の人気の高さを目の当たりにする。
この数ヶ月で彼女がもらったラブレターの数は、……数えると俺が惨めになるから止めておこう。
「あっちゃん、お待たせぇ!」
職員室に呼ばれていた純菜が戻ってきた。
春頃の事になる、父さんや母さんから、久しぶりの日本での生活をサポートするようにと言われて、一緒にいる時間を増やしていたけど、それがなぜか未だに続いている。
「おう、帰るか」
俺も純菜も特に部活には入っていない。
中学でも帰宅部だった俺はともかく、熱心な勧誘をずっと受けている純菜にも、特にやりたいクラブは見つからなかったらしい。
「そうそう、おばさんから帰りに夕飯の買い物してきて、って言われてるの」
「そうか、そんじゃあ俺、先帰ってるわ」
「えーっ!? なんでよ、愛する私を捨てて行ってしまうの?」
昔はこういう子じゃなかったはずなんだけど、日本にいない間に変な芸風を身につけたもんだ。
帰り道にあるスーパーに寄って買い物、俺は純菜の歩く後ろからショッピングカートを押してついて行く。
俺は今日の出来事を思い返していた。
生まれてこの方、貰ったことなど無かった女の子からの手紙、内容は期待していたものとは違っていた。
そこには俺と純菜の間柄を確認する、質問用紙があった。
素直に受け取れば、俺が今フリーなのかどうかを確かめたいとなるのだろうが、どうもそう言った甘酸っぱいものを感じることができない。
バカらしくなって捨てようかと思ったけど、差出人の名前を見て本当にあきれてしまった。
「なぁ、あの手紙なんのつもりだ?」
「えー、ああ! あれ? だってあっちゃん私に全然優しくないんだもん、こんなにあなたのことを想っている私のことを、今一度思い返してもらおうと思って」
事ある毎に愛の告白をしてくる純菜、最初の頃はドギマギもしたけど、いつまでもそんな戯れ言に付き合ってもいられない。
「でもさぁ、こうして一緒に夕飯のお買い物してるなんて、私たち新婚夫婦みたいでしょ」
そんな一昔前のメロドラマでも廃れてしまったようなネタを持ち出されてもなぁ。
「夫婦も何も、俺達は従兄妹同士なんだぜ」
「あれ、知らないの? いとこって結婚できるんだよ」
急に艶めかしい表情を浮かべて、俺の耳元でそんなことを言い出す。
耳たぶに息が掛かり、俺は久しぶりに焦らされた。
「ふふっ、なに焦ってんのよ」
そうこれだ、このいたずらっ子のような笑みを浮かべて、俺を小馬鹿にする。
こいつが本気でない証拠だ。
もう騙されないぞと思っていても、あの手この手で仕掛けてきやがる。とんでもないヤツだ。
「もう帰るぞ、母さんが待ってるんだからな。……純菜、どうかしたのか?」
なんだこいつ、急にあらぬ方を向いて押し黙って?
「おい、純菜? どうかしたのかぁ~?」
「えっ? あ、うぅうん、なんでもない。帰ろうか……」
なんか様子がおかしい。
でも何も言いたくありませんオーラが、純菜の全身から出ているように感じて、俺はそれ以上何も聞けなかった。
夕飯の時も純菜の様子はおかしいままだった。
母さんも気にしてるようだったけれど、本人に話す気がないのならと、ムリに聞いたりはしなかったから、今も俺達は事情を掴めていないまま。
食後しばらくして風呂に入り、部屋に戻って窓を開ける。
隣はもう明かりも消えているみたいだ。もう寝たのかな?
父さんも帰ってきたみたいだけど、二人は二階に上がってきたりしない、俺を外して二人で何か喋っている。
「こんな事、初めてだよな~」
なんだか嫌な気分だ。
もし父さん達が事情を知っているのなら、聞かせて欲しい。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」
それは隣の部屋からだった。
俺は慌てて起きあがって、純菜の部屋をノックもせずに開けた。
「いや、いや、こないで! いやぁあ!?」
「おい、どうした純菜、しっかりしろ、おい」
何かにおびえた様子で、目は開いているのに、俺のことが見えていないみたいだ。
「純ちゃん大丈夫か? 篤之、何かあったのか?」
父さんと母さんが慌てて上がってきた。
純菜の様子に気付いて、俺に何があったのかを問いただしてくる。
「分からない。急に大きな声を出したかと思ったら、今はこんな状態で」
歯をガチガチ鳴らして、肩を振るわせて、目の焦点もあってないような。
「篤之、ちょっと下に来い。ここは母さんに任せて」
「えっ? でも……」
「いいから!」
純菜は抱き留めてくれる母さんの胸元に、頭を埋めて震えている。
でも人肌を感じ取れたからだろうか、少しは治まったみたいに見える。
「分かった」
階下に降りた俺達は、リビングのソファーに向かい合って座った。
「今日、何かあったのか?」
今日、何があったか? ……か。
そう聞かれても何も原因らしい物は分からない。
少し様子がおかしくなった瞬間なら覚えているけど。
「スーパーで何かを見つけて、それからおかしくなった?」
「たぶん、そう言うことだと思うよ」
何を見たのかは分からなかったけど。
「父さん、あの純菜の様子……」
「ふー、お前も多感な時期だからな、あんまりこんな話を耳に入れたくはないんだが」
普段から純菜のフォローができるのは俺だけ、俺にも事情を説明しておかなくてはならないだろうと、父さんは重い口を開いた。
「純菜ちゃんには向こうで、交際していたボーイフレンドがいたんだけどな」
なんでいきなり男の話?
「交際は十代半ばの子らしい健全な物だったと、川上の両親は感じていたらしい。だけどある日、その少年は二人っきりの彼の部屋で、突然純ちゃんに乱暴を働いたんだ。分かるよな、そう言うことをしようとしたんだよ」
父さんが俺に話したくなかったのは、その辺りのせいか。
「俺が聞いているのは未遂だったってことなんだけど、その辺は追求することもないだろう。けどなその事件もそこまでで終わらなかったんだ」
相手の男は嫌がる純菜に痕が残るほどの引っかき傷を付けられて、その時は逃げられたそうなのだが、それからずっと、ストーキングを繰り返し、純菜はその影に日々怯えて過ごしてきた。
川上の両親は警察にも相談したそうなんだけど、いくら厳重注意しても、それは治まらなかったそうだ。
「純ちゃんは日本に逃げ帰ってきたんだよ。ここまで追いかけてきたりはしないだろうってね」
「まさかその男を見かけたとか?」
「その心配はない、さっき向こうに電話して確認したよ。その少年は別の事件で捕まってしまったようだからね」
それじゃあ似た人がいたのかな?
それにしてもあの怯えよう、どんな目に遭わされたのかは計り知れようもない。
「あっちゃん」
「母さん、純菜は?」
「ちょっと落ち着いたみたい。それであっちゃんに話があるんだって、あと任せていい?」
母さんが2階から降りてきた。純菜が俺を呼んでいるようだ。
「話? うん分かった。行ってくる」
何か緊張する。凄い話を聞いちゃったから。
「純菜、入るよ」
今度はノックをしてから中には入るが、部屋の明かりは消したまま、純菜はベッドの上で膝を抱えて座っている。
俺は直ぐ隣に座る。
何を言えばいいのかが分からない。
「私の昔のこと、聞いた?」
黙ったままの俺に、純菜の方から声が掛かる。
「どう思った?」
「どうって俺、実感が湧かなくて、でも純菜がこんなに苦しんでいるのに何もできないのは凄く嫌なんだ。俺はどうしたらいい? 何ができる?」
「私のために? なんでもできる?」
明かりがないからよくは見えないけど、純菜は鬼気迫るものを感じさせてくる。
「私のこと抱ける? あの時の怖いの忘れさせてくれる?」
俺は自分の耳を疑った。
小学五年生までの純菜の記憶の方が未だに大きい俺に、今のは誰が言ったことなのかすら理解できない。
薄暗い中、純菜は目を瞑り、上目加減に口を突き出している。
もう何がなんだか分からない。俺は彼女の肩に手を置いた。
「いとこ同士って、結婚できるんだよな」
「えっ?」
俺は立ち上がり部屋の明かりを点けた。
まだ手の平に残っている感触、小刻みに震える純菜の緊張感。
目には涙を浮かべて、顔も血色を失っている。
「俺は男だから別に何しても構わないよ。特定の相手がいるわけでもないしね。だけどそう言うのはやっぱり恋人同士になってからにしないと」
「あっちゃん?」
「これで最後までやって、それで少しでも忘れられるのならそれもいいと思うよ。だけどやっぱり本当に忘れるんなら、俺も協力するからさ、頑張って乗り越えていこうよ」
「だって、そんなの、いつまでかかるか分からないよ」
「別にいいじゃん、俺はいつまでかかっても構わないよ。純菜はどう?」
「私は……、私はあっちゃんのお嫁さんになりたい!」
そう言った純菜の顔は、いつも俺をからかっているあの笑顔になっていた。
なかなか本心を見せようとしない純菜だけど、俺に熱いキスをくれたその行為には、いたずらっ子の表情は感じ取れなかった。