1.エルフのエリスさんの話<前編>
「わたくし、こぅひぃが飲めないのです」
西八王子駅前にあるファミリーレストラン。
そこで、エルフのエリスが涙交じりの真っ直ぐ瞳で私を見ながら嘆くのを、一杯二百三十五円のブラックコーヒーを啜りながら、ただ聞いていた。所詮ファミレスの飲み放題、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘くとはいかないまでも、値段を考えればそれなりのお味である。
けれど、どうにも目の前のエルフの人は、お気に召さないらしい。
ホットミルクをちびちび舐めながら、じっとこちらを伺っている。
私はトートバッグからシガレットケースを取り出し、中から紙巻煙草を一本とマッチ箱を抜く。
口に咥え、手元でマッチ棒を擦るとリンの香りが小さく聞こえた。
灯ったか細い火で煙草の先を少し焼き、息を吸う。
甘苦い煙が舌を行き過ぎて、肺へと落ちていく感覚。片手を軽く振り、火を消すと、燃え焦げたマッチ棒を灰皿へと指先で折って捨てた。一度、二度、忙しく息を吸っては吐き、火が安定するのを見届けると、一度大きく吸って、紫煙をゆっくりと吐いていく。唇から零れた青白い煙が、するらと昇り、霧散して消えていく。
その仕草を、エリスはじっと見つめている。
若干の抗議の念がこもっているような気もしているが、一々受け取っていては生きていけないのがこの時世である。耐えたまえ。相談を持ち掛けたのは君なのだから。こっちはこのコーヒー代すら貰えないのだ。土曜日だというのに。
「身体に悪いですよ」
「そうだろうね」
具体的な抗議もいただいた。
だが、生憎と、こっちは身体に悪かろうが、そんな問題は二の次もいいところだ。
何せ、死なないのだから。
「わたくしの身体にです」
「そうだろうね」
それに関しては申し訳なさがあるような、ないような。縮んでも、どうせ二十年かそこらの話だろうに。神経質なのだ、エルフというのは、いつだって。
「で、何の話だっけ?」
わざとらしく、話を戻しながら、灰皿へと伸びた煙草の灰を捨てる。
「こぅひぃです」
私の手元を見ながら、そう告げる。まるで魔女裁判で弾劾を受けている気分だ。何も悪いことはしていないのに。
「飲めないのです」
「飲まなければいいのでは?」
「……無料の、機械がありまして。わたくしの、勤め先に」
曰く。
勤めている会社のオフィスにレンタルコーヒーサーバーがあり、社員であれば無料で飲み放題なんだそうで。無論、それ以外を飲みたい場合は持参するか会社の自販機で買えばいいのだけれど。そこで、口ごもってしまっている。
「……飲まなければいいのでは?」
「皆、飲んでいるのですよ?!」
「まぁタダなら飲むでしょうね」
うらやましい限りである。今勤めているオフィスにも欲しい、コーヒーサーバー。多分、置いてはくれないだろうけど。
「でも、飲めないのです……」
「飲まなければいいのでは?」
「その、わたくしだけ、皆と違うものを飲むのは、その……」
神経質なのだ、エルフというのは、いつだって。
そう言ってもいいが、これは少し彼女に同情の余地はある。
というのも、彼女の、というよりもエルフの信仰に関係する悩みなのだ。
向こう側、便宜上政府は『異界』と称しているのでそれに倣うと、異界において彼らは基本的に森の奥に集落を作っている。『森の山羊』を信仰しているためである。
『異界』には八柱の神様がいる。
正確には神様として崇拝されている獣が八匹いる、と言った方がいいだろう。
『森の山羊』、『山の獅子』、『草原の狐』、『海の牛』、『砂漠の蜘蛛』、『川の蟹』、『空の蛇』、そして『花園の狼』である。蜘蛛と蟹は獣なのかと聞かれても困るが、異界ではそう分類しているので、ご了承願いたい。この辺りの詳しい説明は言語比較論の話をしなければならなくなるので今は割愛する。さして愉快な話でもなしに。
エルフ種、こちらに合わせてエルフとしているが正確な名前は『山羊の使徒』である。異界では生物学上の分類ではなく信仰している獣によって種族を分類しているので、そういう呼称になっているが、分かりにくいのでエルフとしておく。見た目が、フィクションでよく描かれているエルフのそれとそっくりなのだ。
彼らは森に住み、生活している。
そして、彼らは信仰上の理由で菜食主義<ヴィーガン>を貫いている。
肉食はおろか野菜に関しても「どんな命であっても、それは食べ物ではない」というので、葉物の野菜や根菜類も決して口にしない。では、何を食べるか。樹になっている果実類のみである。無論、それもそれで命ではあるが、あくまでも果実は森が数多の生き物へと贈る糧であるとし、多大な感謝と共に食べるのである。故に、こちら側においても口にするは果実でいえば桃やら林檎やら柿、野菜としてはナスにキュウリにトマト、後は穀物と豆類、乳製品、そんなものばかりである。調味料も海からとれる塩と蜂蜜、胡椒だけ。
森の中に住むとはいえ、採れる量というのは限られてくる。
彼らは森を飼うことはしない。
森に飼われているのだ。
故に、各々が好き勝手に食べて飲んでしては、飢え死にしてしまうわけで。
ではどうするか。
平等な分配、そして、禁欲的ともいえる完全なる統制である。
集落の中において、他者と同じ行動をする、輪を乱さない、規律を守る。
それを徹底することで彼らは生きてきたのである。
故に、彼女はコーヒーを飲まなければならないという強迫観念にも似た思いを抱いているのである。皆が飲んでいる中で、一人違うことをしてはならないと。
だが。
「別にコーヒー飲んでも構わないのでは?」
コーヒーはコーヒーの木から採れる果実、その中にある豆から作られるものである。だとすれば、信仰上問題は何もない筈なのだけれど。
「その……味が」
「味が」
「……美味しくなくて」
「なるほど?」
そこまで言ってから、彼女は堰を切ったように。
「だって、あんな、泥のように黒くて、沼のように臭くて、黴のように濁っていて、そして毒のように苦いもの、飲めるわけないじゃないですか! あんなの飲んでいる神経が分かりません!」
お前、アラブのなんか偉いお坊さんと恋を忘れた男に謝れ。後、タレーランにもだ。
「ここの人たちはどうかしています! あんな苦いもの、身体にいいはずがない! それなにに一日に何杯も何杯も! オフィス中にあの臭いが充満して、仕事になりません! 死滅してしまえばいいのに! あんなもの! きっとあれは魔性の者が齎したものです! きっと世界を堕落させるものに決まってます! 皆、早く目を覚ますべきなのです! 撲滅です! 撲滅させるべきです! こぅひぃを作り、売り、罪なき無垢なる人々を堕落させる悪しきものを滅ぼすのです! キャンペーンを打ちましょう! デモ行進です! 革命を起こすのです! こぅひぃ革命です!」
それだと世の中がコーヒーで染まりそうな名前の革命だな、なんか。
とはいえ。
机に手をつき、身を乗り出して、そう主張するエリスを手だけで宥めつつ、一つ、煙を天井へと向けて吐きながら、考える。
どうしたものか。
「信仰上の理由で飲めないって言ってしまえば?」
「嘘はつけません!」
確かに明らかな嘘ではある。信仰上の定義からすればコーヒーだって天からの贈り物である。
「あんな、苦くて味の濃いもの……飲んだことありません……」
涙目である。そこまでか。天の恵みも涙目だな。
だが、考えてみれば仕方がないかもしれない。彼女はこれまで濃い味付けとは無縁の生活を送っていたのだ。塩も蜂蜜も、そうそう手に入るものでもなし。
「カフェオレにしてみるとか」
「試したのですが……その、ふれっしゅというのですか、あの白いのは。あれの味にも馴染めなくて」
「油だからね」
「へ?」
「あれ、油に色つけているだけだから。植物由来だろうし、信仰には引っかからないけど」
「油……何故、そんなものを飲むのですか?」
心底嫌悪感を滲ませた顔だった。
彼女らには食用油という文化はない。そこまで採れないからだ。使うといっても、ランプに火を点す程度しか使うことはない。こちらで言えば、灯油を入れて飲んでいるみたいな話だ。
「こっちはそう言う文化なの」
「そう、ですか……」
不思議ですねと小さく繰り返す。
「それを学びに来ていんでしょ?」
「そう、ですね」
元来、エルフ種は変化を嫌う種族である。
だが、『裂け目』により任意の行き来が出来るようになってから、積極的にこちらへと来たがったのは、何よりも彼らであった。というのも、変化を嫌うが故に、外敵から自らの文化圏を浸食されることを殊の外、気にかけていたのが理由である。こちらの人間が異界へと赴いて、自らの世界が変わってしまう、それだけは可能な限り避けていきたい。
ならば、どうするか。
こちらがどういった世界なのかを知るのが一番である、そう考えたようだ。
理屈は正しい。迎合しても問題なければ、無視してしまえばいいのだし。
異界からの移民は、そう言った訳でエルフ種が一番多い。
相手の生活を知るには、一緒に生活してみてから。そういった理由で、エルフ種の集団就職が活発的に行われたのが今から十五年前。根が真面目で、学ぶことに真摯で、労働に対しても意欲的な彼らは非常に喜ばれた。
なので、今現在の八王子市では、役所を除けば大体の会社でエルフが働いているのを見ることができる。相談件数が一番多いのもエルフだけれど。
「慣れるしかないのでは?」
「でも……」
どうしたものか。
「しかし、そんなに不味いかね……」
ああ、そうか。
「ちなみに、喫茶店とかでコーヒーを飲んだことは?」
「なんでわざわざ高いお金を払ってまで!」
「つまり、コーヒーサーバーのものしか飲んだことはない」
「飲んでもないです」
「飲んでもない」
「一口、舐めたきりです」
「ちゃんとは飲んでない」
「飲み物ではありません、あんなもの」
謝れ。主にコロンビアとかの人に。
「なら、まぁ、一度飲んでみたら?」
「何をですか」
「だから、ちゃんとしたコーヒーを」